4:10月26日

 

 

 

橘 庄司は髭を剃っていた。

 

昨日の夜、風呂の時に剃ったにも関わらず、起きて顎に触れるとチクチクと嫌な感覚が手に残る。

 

 

庄司はベッドから起き上がり時計を確認する。

 

時刻は7時。

有給中にも関わらずこの時間に起きてしまうのは最早習慣か、はたまた遠足前の小学生の衝動のソレか。どちらにせよ、庄司はいつもなら二度寝を思う存分楽しむにも関わらずスパッと目を覚ました。
ベッドから飛び起き朝の準備に取り掛かる。

 

「っし」

 

洗面台の前に立ち、シェービング剤をつけ、しばらく放置する。その際、鏡の前に映る自分が、まだまだ冴えない寝起きのサラリーマンである事を確認すると「よし」と無駄に気合いを入れた。

今日も庄司は高校生になるのだ。

 

すぐに生えてくる髭を丁寧に根絶やしにし、庄司は念入りに顔を洗った。タオルで顔を拭い、ベッドのあるリビング兼寝室へと戻る。
ベッドの脇には昨日、庄司が高校生になるのに使った高校時代の制服が昨日同様ピシャリとかかっていた。その制服に、庄司はまた胸を躍らせると寝間着を勢いよく脱ぎ散らかした。

いつもはすぐに洗濯機へと放りこむのだが、心は最早高校生。後先考えずにその制服に袖を通すと、そのまま洗面所の鏡の前へと走る。ボサボサの髪を整えつつ、鏡の前に立つ自分の姿に庄司は少しずつ体が熱を持つのを感じた。

 

鏡の前に立つのは少し無理があるかもしれないが、高校生という称号を身に着けた自身の姿。
庄司は、人間というのは着るモノ一つでこうも変わるものかと感心し、そして着るモノ一つでこうも朝の心境が変わるものかと心躍った。

スーツを着て鏡に立つ自分の姿に飽き飽きした大人の遊びが、今日もまた始まったのである。

 

「いってきます!」

 

庄司は誰も居ない部屋に向かって叫ぶと、靴を履いて勢いよく部屋から飛び出した。

庄司は今日も風を切って街へ向かって歩き出したのだ。

 

 

朝の通勤ラッシュというのは辛い。社会人にとっては毎朝訪れるストレスフルな時間だ。けれど、それは“日常”の通勤ラッシュであれば辛いのであって、庄司のような“非日常”の中の通学ラッシュならばちょっとしたファンタジーだ。

 

今から庄司が向かうのは会社ではない。元母校、紀伊国屋高校だ。

ぎゅうぎゅうの電車の中に庄司は乗り込むと、ぐちゃぐちゃの人の中を掻き分けて横並びの一列掛けの席の前へと移動する。出入口よりもそこのほうが比較的スペースがある為、庄司はいつも電車ではその場所へ向かう。

 

すると、庄司の前には今から会社へと向かうであろうOLの姿。電車に揺られながら、更にコクコクと頭で船をこぐ女性を前に、庄司は心の中で「おつかれさん」と一人ごちた。
他人の肩と肩がぶつかり会う程の距離感の中で、庄司はぼんやりと窓の外を見つめた。前もOL、右隣もOL。左隣は40代前後のサラリーマン。

 

庄司も男だ。3分の2の割合で若い女性が近くなのは、なかなかの当たりだと、少し下世話なラッキーを感じた。どうせ満員電車で揺られるならばムサイおっさんよりも女性の方がいい。
しかし、痴漢の冤罪などかけられてはたまらない為、そういう時は必ず両手は吊革へと持っていく事にしている。
学生服を着ていてもその防衛本能だけは消えておらず、庄司は両手を吊革につかまらせ揺れる電車の中でバランスをとった。

 

「ふう」

 

そんな少しだけぼんやりとした庄司の意識が次の瞬間、勢いよく引っ張り上げられた。視界の右隣で、真っ青な顔をした女性が表情を歪めて肩を震わせていたのだ。

 

「(なんだ?)」

 

相変わらず庄司の前で椅子に腰かけている女性は夢の中だし、左隣のサラリーマンは片手で携帯を見ている。その一見普通の朝の通勤ラッシュの中、右隣の女性だけ様子がおかしい。気分でも悪いのか、庄司がそう思って女性に注意を向けると、すぐにその原因に行きついた。女性は他人の手によって体を触られていたのだ。

 

主に、そう、お尻を。

手の主を更に視界の端に捕える。
こちらは左隣のサラリーマンよりも更に年上であろう50代程の、会社ではそれなりの役職を持っていそうなナリをした男だ。

 

「(痴漢かよ)」

 

庄司は先程までファンタジーだった心躍る世界が、一気に音を立てて崩れていくのを感じた。ここはファンタジーではない。ここは胸糞悪い現実世界だ。
そう、女性の尻をまさぐる手が、庄司に高らかに宣言してくる。

 

「(くっそ)」

 

欲求不満の親父が朝から女性の尻を触って、その欲求の解放している。そんな。なんとも胸糞悪い世界。
女性は怖いのか声を上げる事ができないでいるようだった。表情は歪み、携帯をいじって必死に意識を逸らそうとしている。

 

庄司にはその行動すらも腹立たしかった。どうして声を上げないのかという想いが強く込み上げてくる。しかし、それは大人であるサラリーマン姿の庄司の思考が答えを出す。

『こういった性犯罪にまつわるものは被害者側、つまり女性側にも声を上げた時にはリスクが生じる。できれば何事もなく静かに終わらせられるものなら、終わらせたいに決まっているだろう』

 

わかる。
わかるのだ。庄司だって大人だ。わかる。
けれども、今の庄司はスーツではなく制服を着ている。

 

「(でもさぁ!嫌なら声上げろよ!てか朝から良い年したオッサンが止めろよ!?)」

 

今、庄司は高校生なのだ。せっかく高校生になって気分の良い朝を迎えたのに、こんな胸糞悪い事が視界の端で起こっているなんて、1日の始まりがもったいなさすぎる。
楽しい遊びを邪魔された気分だ。

この痴漢行為に気付いているのはどうやら庄司のみ。声を上げるならば、被害者女性か庄司しか居ないのだ。しかし肝心の女性は恐怖で声を上げる事はできそうにない。
そうなればもうここで声を上げられるのは庄司だけだ。

 

庄司はスーツを着たサラリーマン姿の自分の『やめとけ関わるな!』という声を、高校生の制服を着た自分が『うっせー!』と一蹴するのを聞いた気がした。すると、次の瞬間、庄司は女性の尻を撫でていた気持ちの悪い手を勢いよく掴んだ。

掴んで、そして叫んだ。

 

「おっさん!俺のケツをベタベタベタベタ触んないでもらっていーですか!?」
「はぁ!?」

 

庄司は若干女性寄りにつめて自らの立ち位置をズラすと、男の手を掴んだまま頑なな態度で向かい合った。庄司の発言に周りの乗客達も「え?何痴漢?」「男の子を?」とざわつき始めた。

 

「何を言うんだねキミは!?勝手な事を言うんじゃない!?」

 

庄司に手を掴まれた男は慌てながらも必死に弁解する。
確かにこの男の主張に誤りはない。何故なら、確かにこの男は庄司の尻など触ってはいないのだから。庄司の隣の女性も突然の気持悪さからの解放と、思いもがけず起こった余りの事態に目を見開いていた。
その車両に乗っていた者の注目を一身に浴びながら、庄司はスーツを着た自分が頭の中で『あーあ』と頭を抱えたような気がした。しかし、庄司は今は高校生なのだ。スーツを着た男には、退場して貰うよりほかない。

 

「黙って触られてれば良い気になりやがって!男で痴漢あったなんて恥ずかしくて言えねーと思って我慢してたけどもう無理だわ!」
「いい加減にしたまえ!」
「いい加減にすんのはそっちだろうが!今回は大目に見てやるからもうやんなよな!?この変態親父が!」

 

庄司は言うやいなや男の手から手を離すと、その手を吊革に戻した。
もちろん両手を。
後ろでは何がなんだか分からぬまま「違うんだ!」と叫び続ける男と、その男の周りだけ妙に空間ができざわつく車内。痴漢親父は今やこの車両内では【男子高校生に痴漢をした変態親父】である。それは通常の痴漢よりも更に重い偏見に満ちた世間の目に男を晒す事になった。

 

「(ざまぁみろ)」

 

隣からは何か言いたげな被害者女性の視線を感じたが、庄司はもうそれすらも気にしたくなかった。

 

「(あー、もうこれ以上乗ってらんないな)」

 

庄司は予定を早目、次の駅で降りる事を決めると停車の為にスピードの弱まった車内を出入口に向かって歩きだそうと体の向きを変えた。庄司のその行動に、乗り込む時とはうって変って庄司の周りからも一気に人が引いて行く。

痴漢親父同様、やはり性犯罪に関わる者は加害者以上に被害者にも偏見の目を持たれる。男子高校生というならそれは尚の事。そんな庄司への周りの対応に、被害者女性からは更に視線が強くなるかと思いきや、既に女性は自分は関係ないとばかりに必死に携帯に視線を落としている。

 

「…………」

 

別に感謝されたくてやったわけではない。これは自分の遊びを邪魔されたくないが為にやった庄司の勝手だ。

 

『そうだろ?』スーツを着た庄司が制服を着た庄司にそう言う。
『そうだよ!』悔しげに制服姿の庄司が返事をする。

 

庄司はなんだかむしょうに駆けだしたい衝動に駆られながら吊革につかまる拳を握りしめた。

 

とんだ朝だ。

目の前ではこの騒ぎにも関わらず船をこぎ続ける女性。
そして、左隣には携帯を片手に持つ40代程のサラリーマン。
すると、移動しようとする庄司にだけ“その声”は聞こえてきた。

 

(お見事、若人)

 

その声に庄司はハッと顔を上げると、そこには視線だけ庄司に寄越し口元に笑みを浮かべる40代程のサラリーマンが居た。携帯画面は真っ暗だ。何も映っていない。庄司はその言葉に握りしめていた拳の力をふっと抜くと、吊革から手を離した。
肩に掛けていたかばんをかけ直し、停車駅に止まった電車で出入口へと歩を進める。
庄司の周りからは人の波が引く。

 

しかし庄司はもう気にならなかった。庄司はすれ違いざまに小さくサラリーマンに会釈すると、そのまま風を切るように電車から降りた。

 

(お見事、若人)

サラリーマンの言葉が庄司の耳をつく。なんだか誇らしい気分になる。たったそれだけの事なのに、制服を着た庄司が全世界に認められたような気がした。

 

――プシュウウ。

電車の扉が締まる音が背後から聞こえる。
すると、次の瞬間、庄司の手が背後から勢いよく掴まれた。

 

「っ!?」

 

その力に庄司は先程の痴漢親父を思い、瞬間的に体がカッと熱くなるのを感じた。これ以上、庄司は自分の“遊び”を邪魔されたくなかった。
庄司は勢いよく振り返る。

しかし、そこに立っていたのは例の痴漢親父ではなかった。
そこに立っていたのは―――

 

「……伊中?」
「お、おま、お前!」

 

昨日、知りあって同じケーキをつつき合った山戸伊中であった。伊中の顔は、先程の痴漢親父以上に真っ赤で庄司はむしょうに笑えてきた。
笑えてきたので、笑う事にした。

 

「あははは!」
「なっ!?は!?」

 

庄司は勇敢に立ち向かった筈だった。しかし、やはり制服姿の庄司にはそれ程の勇敢さは持ち合わせていなかったようだ。庄司は伊中に掴まれた手の温もりを感じながら、自分がビビっていた事を理解して笑った。顔も笑っていたし、足もガクガクで大笑いだ。

 

そんな庄司を前に伊中はただ戸惑いながら、ただ庄司の手だけは離さなかった。

 

 

 

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