7:同日

 

 

金平亭

そこは、商店街の裏路地の一角にある、古い古い喫茶店だった。そのレンガ調の外壁は蔦にまみれ、本来のレンガ部分は僅かしか見えていない。それだけでも入りづらい様相をしているのに、場所が裏路地ということもあり、外も中も薄暗く中がどうなっているのか外から窺うのは難しい。辛うじて、入り口にある看板にはブックカフェと書いてあり、信用できるか危うい“営業中”の文字。

 

しかし、庄司はその看板を信じるしかなかった。「営業中なのかな?入りにくいな」なんて、一元様ぶって二の足を踏んでいる余裕など、一ミリもない。今、庄司は人生が終わるかどうかの瀬戸際なのだ。

 

背後からは「どこへ行った!」と、一つ奥の路地を駆ける警官の声が響く。庄司は一瞬背後を振り返り、警官が居ない事を確認すると【金平亭】の入り口へと手をかけた。
かけたと同時にノブを捻り、店内へと飛び込む。営業中の言葉は確かだったようで、店内は薄暗いなりに、きちんと明かりが灯されていた。

 

庄司は後ろ手に戸を締めると、その場に蹲るようにかがみ込んだ。一つ戸を挟んだ向こうではバタバタと、あの警官が駆け抜ける音が響く。心臓は早鐘のように鳴り響き、手は凍るように冷たかった。

 

「(頼む!早くどっか行ってくれ!!)」

 

祈るような気持ちとは、まさに今のような気持ちの事を指すのだろう。庄司は自身の心臓の音にだけ集中しながら、両手をしっかり握り締めた。「まったく、どこへ行ったんだ」そう、警官の納得のいかなそうな声が背後から聞こえる。その声には、どこか諦めも含んでいるようで、次第に足音は遠ざかっていった。

 

「(た、たすかった……)」

 

きっと、あの警官もこの金平亭に目を向けた事だろう。しかし、この外観だ。一元ではこの店がこのナリで営業をしているとは、到底思えない。あの営業中のプレートを信じて戸を開けるなんて、そうそうの人間が出来る事ではないのだ。

庄司は警官の気配が無くなった事で、自身の心臓が少しずつ落ち着きを取り戻していくのをひしひしと感じた。先ほどまで冷たかった手のひらにも温かさが戻ってきている。

 

それと同時に、ようやく庄司は金平亭の中をしっかりと把握する事ができた。
懐かしくも変わらない古い店内。オレンジ色の灯り。所せましと置かれた本と雑誌の数々。そして。

 

「……お前、まだそんなバカな事をしてるのか」

 

深く落ち着きを払った声。その声の主は、カウンター席の奥で一人悠々と本を読む老人だった。視線の一つも庄司に向ける事なく放たれたその言葉だったが、それはハッキリと親しい誰か、つまり庄司へと向けられた言葉であった。

 

「俺も普段はこんな事してねーし。じいさん」

 

じいさん。
庄司は本を読む老人を見据えながらハッキリと言った。彼こそが、この金平亭の店主であり、庄司が学生時代アルバイトをしていた時の雇い主であった。

 

「じいさんも昔と全然変わってないね。もう死んでるかと思ったのに」

 

庄司は入口で蹲っていた体勢からやっと立ち上がると、どこもかしこも懐かしいその店内を見渡しながらカウンターへと近づいていった。
店同様、一切の変化を見せていないその店主の姿。店主は白髪にメガネをかけている老人で、それはどこか浮世離れしたような風体であった。

「じいさん」とは言ったが、庄司は彼が一体何歳なのか、当時から知らなかったし、知ろうともしなかった。そのせいで、「まさか、ここだけ時が止まっているのでは?」なんて荒唐無稽な考えが頭を過る程、此処は昔と変わらなかった。

 

「お前こそ、そんなナリして今も高校生という訳じゃなかろうな」
「ぐ」

 

先程から、庄司は店も店主も変わらない変わらないと内心のたまってきたが、確かに店主の言う通り、自身の姿を他者が見れば一番"変わらない"かもしれない。
しかし、十数年前にアルバイトをしていた人間が、まるきり変わらぬ制服姿で現れ、動揺もしなければ、一度だって本から顔を上げてこない、この落ち着き方はまるで仙人かなにかのようだ。

そう、確か十数年前の庄司も店主を仙人ではないかと探りを入れた事があった。まぁ、鼻で笑われ軽くいなされて終わったが。

 

「俺も良い年だし、色々あるんだよ」
「年を取ると、学生服を着て警察に追いかけ回られるような"色々"が起こる訳か。残念だが、私もお前よりは長く生きてきてはいるが、その経験はしたことがない。経験不足に頭が上がらないよ」
「いや、そろそろ本から頭を上げろよ、じいさん」

 

この皮肉も全く変わらない。庄司は思わず笑ってしまうと、カウンターの店主の前の席に座り、注文した。

 

「アメリカンを1つ」
「……金は持ってるんだろうな」
「いや、持ってるよ。俺を何歳だと思ってんだ。じいさん」
「その格好で何歳か聞かれて正しく答えられるヤツが居たら見てみたいものだよ」
「あーもう!わかったよ!持ってる!持ってます!俺ももう29歳でちゃんと働いてるよ!ほら財布!」

 

庄司は半分笑いながら、カウンターに財布を叩きつけた。そこでようやく財布へと動く店主の視線。仙人めいた風貌で、金にはがめつい。がめつい癖に、こんな寂れた店を変わらず営み続ける。ちぐはぐだが、その筋の通らなさすら、懐かしかった。

 

「昔のツケもついでに払っていけよ」
「一回もツケでなんて飲ませてくれなかっただろうが!シレっと事実捻じ曲げんな!」

 

毎度、バイト代から引いていたくせに!
庄司の笑いを含んだ言葉に、ようやく店主は本を足元の本棚へとしまった。本に珈琲がかかってしまっては大変だ。本日初の客に珈琲を淹れる時がきたのだから。

 

 

 

 

 

 

「なぁ、じいさん。俺のこの格好の事、聞かないのか?」
「お前は昔からバカな事ばかりしていただろう。今更なんの事がある」
「バカな事かぁ」

 

庄司は珈琲に口をつけながら、店主の言う昔を少しだけ思い出した。バカな事、とは皆目見当もつかないが、ひとまずあの頃の庄司は"やりたい事"はきちんと余す事なくやっていた。それをバカな事、と称するならば、きっと今のコレもそうだろう。

ただ、あの頃のように突き動かされるような衝動が今は少なくなってきた気がする。このハロウィンによる仮装だって、やりたい事というよりは、なんだろうか。きっと"逃げ"の一種のようなものであった。

 

いつしか当たり前になっていた代り映えのない、閉塞感のある日々から庄司は逃げたかった。逃げた先がこの制服を着た時代であるならば、きっと庄司は無意識にこの頃の自分に戻りたいと願っていたのだろう。

そんな庄司に店主は一つ息をついて肩をすくめると、カウンターの内側、足元にまで及ぶ本棚から数冊の雑誌を取り出した。

 

「ここはブックカフェだ。本を読め」

 

BRUTUS(ブルータス)
それは、昔から庄司が好きで読んでいた雑誌の1つだった。月2回刊行されるソレは興味深い特集の目白押しで、ページをめくっては心を躍らせたものだった。

 

大人になったらコレをやろう、こんな事だって出来る。お金があれば、大人にさえなれば。

 

「(大人になったのに、1つもやれてねぇな)」

 

差し出された雑誌の懐かしいバックナンバーに、庄司は店主から全てを見透かされているような気がした。
目の前には、ブルータスが定期的に特集するテーマである「読書」や「珈琲」「写真」「建築」他にも様々な特集のバックナンバーが山積みにされていた。これを読んで当時の庄司は今の自分に出来る事はないかと頭を悩ませていた。

 

「そう言えば、あの頃は色々やってたような気がするなぁ」
「自分の事なのに他人事のようだな」
「いや、10年以上前の事だし、あんまし思い出せないんだよ」
「はっ」

 

はっきりと鼻で笑われた。昔のバイトとは言え、今は客だというのに。確かに10年前など、きっとこの仙人には昨日のような感覚なのだろう。

 

「なぁ、じいさんって何歳なの」
「…………」
「無視かよ」
「いいから、本を読め」

 

店主の視線は完全に先ほどまで読んでいた本へと戻っていた。ちらりと見た背表紙から推測できるのは最近出たばかりの話題書だという事。ピンクの表紙に勢いのあるタイトルは、確か最近芥川賞を取った本ではなかっただろうか。

 

「(ほんとに何でも読むんだよな、このじいさん)」

 

店主の見た目から想像すると、一見堅苦しい本ばかりあるのかと思えるこの喫茶店の本棚だが、その種類は幅広かった。確かに倫理学や、古典、歴史書のような本もあるが、その隣には若者向けのメンズ雑誌や、ゴスロリ服の専門誌、果ては週刊の漫画雑誌も置いてある。更に奥の壁にはサーフボードが掛けてあったりと、本当に無秩序だ。

 

唯一なかったのはエロ本位だっただろうか。いや、隠しているだけかもしれないが。

 

「(そういえば、俺、このじいさんに憧れてたんだよな)」

 

そう、この店主の興味の幅の広さや、喫茶店の店内に憧れて庄司は高校時代色々と奔走したのだ。先ほどまでモヤがかっていた十数年ぽっちの過去が、この喫茶店とともに少しずつ明るみに出てきた気がした。
無意識に恰好だけを高校時代という戻りたかった過去へと似せてきたが、ここへきてやっと中身が追いついてきたようだ。

 

庄司は仮装初日に感じたような"酩酊感"でも、今朝がた感じた慣れからくる"持て余し感"とも違う、なんとも心地よい感覚を得ながら、雑誌に手をかけた。

 

その瞬間だった。

庄司の携帯が短く鳴る。ちらりと見てみれば、相手は先ほどふざけた写真を送り付けた相手。山戸伊中であった。

 

「ぶはっ」

 

庄司は伊中からのメッセージと共に送られてきた画像に思わず吹き出した。

 

———
ひまだ
———

 

先程、庄司が相手に送ったままの文章と同じように、寂れたポルノ映画館のポスターの前で笑う伊中の姿。逆に送られて来て分かったが、これはとてもヤバい。面白過ぎる。シュールにも程があるではないか。

庄司はすぐに自分も、自撮りで自身の笑顔と店主をバックに写真を撮ると、すぐに伊中に返信した。勝手に写真に撮られた事に、眉を顰める店主の事などおかまいなしに、庄司は笑って言った。

 

「じいさん、友達も来るから。もう一杯アメリカン用意して」
「金は」
「あるから!」

 

やっぱり、ハロウィンをして、ここに来て、良かった。
庄司は心の底から思った。

 

 

 

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