3:好きなものになりたくて、人生拗れていく

 

「大学の入学式って案外アッサリしてるなぁ」

 

 入学式を終えた俺は、重厚な講堂の扉をくぐって外へ出た。

 

 講堂前の広場には、新入生たちがわらわらと集まっている。

 あちこちから聞こえてくるのは、初対面同士のぎこちない会話。どこか緊張を孕んだそのやりとりを耳にしながら、俺は階段をゆっくりと降りていった。

 

「えーっと、今日は入学式だけで終わりだったよな?」

 

 確か、本格的な履修登録やオリエンテーションは明日からだったはずだ。だとすると、このあとは各々解散という事になる。

 

「よし、じゃあ早速行くか!」

 

 着慣れないスーツにちょっと浮かれた足取りで、つい背筋が伸びた、そのとき——。

 

「すみません、トイレってどこにあるか分かりますか?」

「っへ?」

 

 横から声をかけられた。振り返ると、見知らぬ男子学生が、戸惑った顔で俺を見ている。

 

「あー、トイレか。どこだったかな」

「すみません、まだ全然場所とか分からなくて……」

 

 俺もここに来るのは入試以来で、あまり校内には詳しくない。案内板か何か近くにあったような、と辺りを見渡して、ふと気づいた。

 目の前の同級生の視線が、じっと俺の頭に向けられていることに。

 

(あぁ……この子、多分俺のこと先輩だと思ってるんだ)

 

 俺の髪は、明るいオレンジ色になっていた。

 大学入学を機に、思い切って染めてみたのだ。

 

「あ、俺も新入生だから。そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」

「っへ、あ。そうなんですね」

「あと、トイレならたぶんあっちかも。来るときに案内板で見たから。広くて分かんないよねー」

 

 俺が、近くにある案内板を指さして言うと、相手は「あっ、ありがとう!」とぺこりと頭を下げ、そそくさと去っていった。その後ろ姿に、思わず笑ってしまう。

 

「そっかぁ、俺って先輩に見えるんだぁ」

 

 少しだけ得意な気持ちになりながら、俺は短い前髪にそっと触れた。ここに来るまでにやたらと周囲から向けられていた視線の原因はやっぱりコレだったか。

 

「これは太陽の色だからなー!」

 

 生まれて初めて髪を染めた。

 はじめは思った以上に派手な髪色に自分でもビビったものだが、そのあと爺ちゃんから「おお、似合ってるじゃないか!」と言われて、勇気をもらった。

なぜ、この色にしたのか。それには、ちゃんと理由がある。

 

「……好きな小説のキャラと同じにしたかったなんて、さすがに子供っぽ過ぎるよな」

 

 この派手なオレンジ色。これは余生先生の作品に登場する主人公と同じ髪色なのだ。好きなキャラに感化されて髪まで染めたなんて、誰にも言えやしない。

 

「余生先生の作品、もう更新されてるかな」

 

 時計を見れば、時間はまだ十一時過ぎ。余生先生の更新は、いつもピッタリ昼の十二時と夜の八時と決まっている。

 分かっていても、日に何度も余生先生の作品ページに飛んでしまうのを止められない。

 

「続き、気になるなぁ……」

 

 そう、心ここにあらずで歩いていた足が、にわかに立ち止まる。

 ふと顔を上げると、校門を抜けた先の並木道が急に視界に広がり、パッと賑やかな空気に包まれていた。

 

 そして、目の前に飛び込んできたのは――

 

「火曜倶楽部です~!未完作品好き、不遇キャラ推し、大歓迎ですー!」

「水曜倶楽部、シュルレアリスム好きな人、ぜひ!」

「木曜倶楽部で古典・批評・哲学!四年間、語り尽くしませんかー!」

「ファンタジー・SF・ラノベ大好きな方、金曜倶楽部へどうぞー!」

「一緒に同人誌つくりませんかー!土曜倶楽部は自由と混沌を愛してます!」

「夏目漱石、谷崎潤一郎、太宰治……名作と紅茶が似合う日曜倶楽部でお待ちしてます!」

 

 サークル勧誘の嵐だった。

 

「うわぁっ!」

 

 四方八方から飛んでくるチラシ、チラシ、そしてまたチラシ。

 気づけば俺は両手に色とりどりの紙束を抱えて、サークル勧誘の嵐の中をひたすら前に進んでいた。

 

 さすが文系の名門・京明大学。サークルの数も規模も桁違いだ。

 

 なかでも文学系のサークルは群を抜いて活気があり、長い歴史を誇る七つの文学倶楽部は通称〝七曜会〟と呼ばれ京明の顔とも称されている。

 純文学、詩、文芸批評、ラノベ、SF、近代思想、演劇――それぞれに個性があり、学園祭では準備の段階からテレビ取材が入るほどだ。

 

「うわぁ、どこに入ろう……迷うなぁ」

 

 正直、どこも魅力的だった。新歓イベントや部誌の無料配布にも心が揺れる。

 興奮のメーターが振り切れて、脳が軽くバグりそう。思わず、賑やかな方へ足が向きかけたその瞬間、俺はふと我に返った。

 

「いや、ちがうちがうっ!」

 

 今の俺には、まず真っ先に行くべき場所がある。

 

——待ってるよ。もし京明に入れたら、また来なさい。

 

 マスターの笑顔。本に囲まれた静かな空間。キーボードを打つあの後ろ姿。

【喫茶 ブルーマンデー】

 

 入学式もサークルも全部、通過点にすぎない。

 俺は、腕の中で溢れかえるサークルのチラシを握りしめると、サークル勧誘で賑わう並木道をソッと抜け出した。

 春とはいえ、まだ少し肌寒いはずなのに、歩くほどにじんわりと汗がにじむ。

 

「あぁ~~!やっと余生先生に会えるッ!」

 

 そして、俺は賑やかなキャンパスを背に〝あの喫茶店〟を、いや、憧れの余生先生を目指して歩き出した。

 

◇◆◇

 

「……こ、こんにちはぁ」

 

 店の扉を開けると、あのときと変わらない静かな空気が流れていた。

 ページをめくる音。カップの触れ合う音。かすかに流れるジャズ。本に囲まれた空間に一歩足を踏み入れた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。そして——。

 

「いらっしゃい」

 

 カウンターの奥から、懐かしい声が響いた。

 少し緊張して何も言えずにいると、マスターはメガネ越しにこちらを見つめ、ゆっくりと目を細めた。

 

「おやおや、これはまた派手なお客さんだ」

「あの、えっと……俺、その、ここでバイトをしたくて……」

「え、バイト?」

「あっ、俺!高校生のとき、ここに来て、その時にもし、入学できたら、バイトにおいでって……」

 

 リュックの肩紐をきゅっと握り直しながらそう言うと、マスターは一瞬驚いたように目を丸くし、次いで「あぁ、あのときの」と懐かしそうに笑った。

 どうやら覚えていてくれたらしい。嬉し過ぎる!

 

「それにしても、ずいぶん印象が変わったね。特にその髪の毛……」

「あっ、えっとコレは」

 

 そういえば、あまりにも浮かれすぎて染めてしまったこの髪。

 この落ち着いた店の雰囲気とはあまりにも釣り合わない。そう思った瞬間、焦りで口が勝手に動き始めた。

 

「よ、よ……余生先生の、アニメ化する作品の主人公がオレンジ色の髪で……お、俺。あのキャラ凄く好きで……だからっ」

 

 俺は一体何を言っているんだろう。

 背中に汗が伝うのを感じながら、軽く前髪を撫で、縋るような思いで言葉を絞り出す。

 

「こっ、この髪でも、バイト……大丈夫ですか?」

「いいよ。文学の香りがあればね」

 

 そんな俺にマスターはふっと優しく笑って粋な事を言う。

 あぁっ!やっぱりこの店もマスターも素敵過ぎる。できることならここに永久就職したいっ!

 

 俺が興奮しながらそんな事を思っていると、店の奥から冗談交じりの声が飛んだ。

 

「文学の香りってタバコの匂いの事じゃなくてかい?」

「良かったじゃないか。ここ、タバコの匂いがキツいからってバイトを募集しても若い子は来てくれなかったもんなぁ」

「マスターがまたすぐ愛想つかされないように、私たちも気をつけなきゃな」

 

 本を片手にタバコをくわえてみせる初老のお客さんたちに、マスターが「禁煙する気もないくせに」と苦笑した。

 

 なんかいいなぁ。

 マスターも、お客さんも、みんな本が好きなんだって空気が伝わってくる。

 そんな事を思いながら、手元のサークル勧誘のチラシをぎゅっと握ると、それに気づいたマスターが「ほう」と懐かしそうに目を細めた。

 

「それは七曜会のチラシだね。どれ、ちょっと見せてくれるかい?」

「あっ、はい」

 

 チラシの束を手渡すと、マスターはそれをそっと受け取り、近くのテーブルの上に広げた。眼鏡の位置を指で直しながら、一枚一枚ゆっくりと目を通していく。

 

「キミはどこの倶楽部に入る予定?」

「ん-、まだ決めてなくて。でも、七曜会は全部気になるっていうか……あれ?」

 

 火曜から日曜まで六つのチラシはあるものの〝七〟曜会には一枚足りない。

 

「……月曜倶楽部がない。貰い忘れてきちゃったかな?」

 

 首をかしげていると、マスターが小さく笑って肩をすくめた。

 

「いや、違うだろうね」

「え、じゃあ……」

「新入生の勧誘なんて面倒なこと……って、そんなところかな。まったく、月曜倶楽部は相変わらずみたいだね」

 

 どこか懐かしげに呟かれたその言葉に、ふと気づいた。あのとき余生先生が座っていた席が、今日は空いていることに。

 小さく息を吐いて顔を上げ、マスターに問いかけた。

 

「あの。せ、先生は……余生先生は、今日いないんですか?」

「余生?あぁ、コウか。いるよ。今は上で……」

 

 そう、マスターが視線を向けたそのときだ。

 店の奥の階段から足音が降りてくるのを聞いた。