第18話:平凡と先輩

 

 

 

 俺、本村洋は、現在ものすっごいピンチに陥ってる。

 

「……………」

「あっははー、ちょっとそんなに怖がるなよぉ」

 

いや無理だから。

マジで怖いですから先輩!

 

そう、内心ガクブルな状態で叫ぶ俺の心は、悲しいかな、俺の口とは連動する回路が切れているようだった。

叫ぶのは気持ちのみで、俺は恐怖のあまり黙って先輩を見上げる事しかできない。

 

瀬高 睦(せたか むつみ)

それが、現在俺の目の前に居る、どうにも胡散臭いばかりの笑みを浮かべる3回生の同じサークルの先輩。

というか、俺の所属するサークルのサークル長。

 

この先輩は田舎から出てきた芋のような田舎者の俺とは違い、全てが垢抜けているお洒落な大学生像を絵に描いたような先輩だ。

髪型も服もしぐさも声も、全部かっこいい。

サークルで飲み会をしても全ての中心に居るような別世界の先輩。

 

俺はと言えば、なんとなく誘われて入ったその飲みサークルで、つかず離れずの友人関係を浅く作りながら、たまに飲み会に参加するだけの、半ば幽霊部員。

バイトがあっても月1回程度の飲み会なら十分参加できるし、何か楽しそう!と言うかなり安直なイメージで入部を決めた。

バイトといいサークルといい……俺は選択の仕方がかなり安直だったと、今となっては反省せざるを得ない。

 

もちろん飲み会に参加しても俺の定位置は隅っこの席。

 

そんな先輩と俺は何故か二人きりで、大学の近くのファミレスに居る。

えぇぇ、ほんと、どうした、この状況。

 

俺は目の前でニコニコと笑顔を見せる先輩を前に、背中からダラダラと脂汗が流れるのを感じた。

 

この先輩は……笑顔であるこの状態が一番怖い。

と、俺は思う。

 

俺も最初は格好良くて面白い先輩だなぁってくらいにしか思っていなかった。

少しだが、憧れてすらいた。

田舎者で芋な自分だからこそ、別世界で輝く先輩はブラン管の向こう側の芸能人と同じような感覚で捉えていたのだ。

 

が、瀬高先輩はただの面白い先輩ではなかった。

一度、瀬高先輩が飲み会の帰りに、グダグダに酔っ払った時のあの惨状は……今も思い出したいものではない。

路上で誰かれ構わず喧嘩をふっかけては、現場を血の海にし、最後は救急車まで出動した程だ。

 

その惨状を身を縮ませてブルブル震えながら見守った俺含む1年は、心底思ったのだ。

この人にだけは逆らってはいけない、と。

 

いや、違う。

絶対に関わってはいけない、と。

彼はブラウン管の向こう側の人間のままで良いのだ。

遠くから「わぁ、格好いい」「わぁ、怖い」と連ドラの感想を抱くような面持ちで遠くから見ているだけで良かったのだ。

 

なのに。

なのに、だ。

 

「ねぇ、ねぇ洋くーん。そんなに下ばっか向いてないで、先輩の顔見ようかぁ?」

「っは、はい!」

「あはは!はい!だってー!おかしーなぁキミ!」

 

何で、俺、ガッツリ関わってんだよ。

俺は、俺の肩をバンバン叩きながら笑う瀬高先輩にビビりながら、引きつった笑みを浮かべた。

何だ、一体何が目的なんだ。

こんな別世界の先輩が、目的泣くたかだかサークルで月1顔を合せるだけの芋な後輩を呼び出して一緒に食事をするなんて絶対にあり得ない。

 

「でさぁ、先輩ちょーっと洋君にお願いがあるんだけどー」

「っな、何でしょう?」

 

ほら、やっぱ何かあるんだ。

あぁもう、ほんと無茶な事は言わないで欲しいです、マジで。

俺がニコニコ笑う瀬高先輩を前にそんな事を思っていると。

その瞬間、瀬高先輩の目が今まで浮かべていた笑顔を引っ込めてスッと薄く開いた目で俺を見た。

 

それはまるで、あの地獄の惨状で拳をふるう瀬高先輩の目と、まるきり同じだった。

俺は死ぬのでしょうか。

 

「いやぁ、そんな大した事じゃないんだくど。洋君ってさぁ、森口永和教育塾でバイトしてるよね?」

「…っ!」

 

森口永和教育塾。

そう口にした瀬高先輩の顔は、何故か今までと違って何か目の奥に鋭い何かを秘めているようで、一瞬背中がヒヤリとした。

 

あぁ、なんだか心臓がおかしい。

目の奥が暗くなる。

ゾクゾクする。

それも全部、瀬高先輩のせいなのだろうか。

 

俺が先輩に恐怖を抱いて、こんな状態になっているのであろうか。

 

……いや、違う。

確かに先輩の様子も怖い。

だけど、今、俺の心臓を無駄に騒がせているのは先輩なんかじゃない。

 

「………森口永和教育塾」

 

あぁ、もう。

なんでこんなにタイムリーなんだよ。

俺は、あのクビを宣告された日の事を瞬間的に思い出し、軽く目の奥が熱くなるのを感じた。

 

「……ねぇ、洋君どうしたの?」

「っいえ、なんでもありません!」

 

若干心配そうに俺の顔を伺う瀬高先輩に、俺は勢いよく首を振ると、頭の隅で小さく“彼”の事を思い出した。

今、彼はどうしているのだろう、と。

今も変わらずあの塾を掃除してくれているのだろうか。

 

多分、そうだろう。

俺の事はもう忘れてしまっただろうか。

うん、忘れてしまったかもしれない。

所詮は顔も名前も知らない相手だ。

そんな相手がバイトをクビになった所で、彼の日常が変わる事はない。

 

そう、俺が死ぬほど悲しくても辛くても、当たり前の如く世界は何も変わりはしないのだ。

きっと彼の記憶からも、俺はすぐに消えてなくなる。

 

「ねぇ!」

「っはい!」

「ちょーっと、さっきから結構呼びまくってたんだけどー」

「…すみません」

 

俺は瀬高先輩の声で、一気に現実に引き戻されると、軽く目をこすった。

ちょっとだけ泣きそうだったから。

 

「うーん、何があったか知らないけど、とりあえず先輩の話は聞こうかぁ?」

「すみません!」

 

俺は顔を近付けてニコリと笑う瀬高先輩に、一気に涙が引くのを感じると、そのままジッと瀬高先輩の顔を見た。

そんな俺に瀬高先輩はまたニコリと笑う。

 

「で?さっきの話の続きなんだけどさぁ、最近塾でさぁ、クビになちゃった女の先生とか居ない?」

「クビになった女の先生?」

「そうそう!俺ちょーっと、その子を探しててー洋君に協力してもらいたいなぁって思ってね」

「え、いや、ちょっと待って下さい先輩!」

「えー、なに?」

「俺も最近塾クビになったので、そう言うの、よくわからないんですけど………」

 

っていうか、俺の他にクビになった女の先生とか居るのか?

俺は森口永和教育塾の女性講師を思い浮かべ、コテリと首を傾げた。

彼女達に限ってクビはないと思うけどなぁ。

どの人も、なんかホワホワしてて優しい系人達ばかりだし。

決して派手ではないけれど、皆生徒達から信望の厚く、憧れの先生ばかりだ。

そう言った理由から特に人見知りをする小学生や中学生の女の子達には、森口の女性講師は凄く人気だ。

そんな人達が自分から辞めるならともかく、クビになどなるだろうか。

 

ちょっと信じられない。

 

俺がそう思ってチラリと瀬高先輩をみると、何故か先輩は眉を一心に潜めて俺を見ていた。

え、今度は何なのだろう。

俺、何か先輩をご立腹させるような事したのだろうか?

 

「……洋君って、塾クビになってたの?」

「あ、はい。つい、こないだ。」

「………いや、まさか洋君男だし」

「あの、先輩。だから俺もう塾の事は……」

 

わからないです。

俺が確かにそう口を開こうとした時だった。

何故かガシリと瀬高先輩から俺は肩をガッツリ掴まれていた。

 

「逃がさないよー、洋君ったら俺の中で今、マジ重要参考人だから」

「ぅえ?!何のですか!?」

「ひみつ。とりあえず一縷の望みを託して、一回塾に行ってみよー!で、洋君の他にクビになった女性講師が居るか探りを入れるよー、洋君が」

「っな!?何でですか!?俺クビになったんですよ!?嫌ですよ!気まずい!先輩が行って聞けばいいじゃないですか!!」

 

俺が必死に叫ぶ事などどこ吹く風。

先輩はニコニコした顔を俺に近付けると、表情とは180度違う地を這うような声で小さく囁いた。

 

「これ、先輩命令だから」

 

無茶言わないで下さいよ、先輩。

 

そう叫んだ俺の心は、やはり口をついて出る事はなかった。

 

 

 

 

本村洋

年功序列の世界に苦しむ