14:想定外の動揺

こんな退職希望の話で、合せられる事になろうとは。

そして次の瞬間には、今までたどたどしかった甘木の不安気な表情が、ゴクリと飲み込まれた生唾と共に飲み込まれたように無くなっていた。

 

「俺、もう無理です。太宰府さんみたいになりたかったですが、もう無理です」

「っ!」

 

予想していた筈だった。

しかし、太宰府には一瞬、その言葉の音だけが耳を素通りし、意味を脳内で理解出来ずに居た。

この瞬間こそ、冒頭の息を呑んだ太宰府の一瞬へと繋がるのだが、太宰府は1拍、2拍と呼吸を置き、静かに甘木の言葉を頭の中でリフレインさせた。

“もう無理です”

誰が。どうして。何故。

 

「(わかっていた筈だ。こういう相談だと分かっていた筈なのに……)」

 

ぐるぐると頭の中を駆け巡る言葉。初めてしっかりと目を見て離された“もう無理”という言葉の中には、確かに太宰府の名前があった。

たくさん叱った。冷たい態度も取った。嫌われている事など知っていた筈だった。

わかっている。こうして辞めたいと言わせるまでこの新人を追い詰めたのは自分自身だと。

 

しかし、こうしてその事実を本人の口から聞いて思った。

本当に分かっていたのか、と。

分かっていた、と間髪入れずに返せない言葉。何故なら、太宰府は今とてもショックを受けているのだ。

 

嫌われるような事ばかりしてきた。

追い詰めるような事ばかり言って来た。

しかし、言わねばならないと部下の気持よりも業務を優先して言葉を放って来た。

そして、なにより。

 

太宰府は一度、この新人の手を離しそうになった。

なのに、今。

こうして手を離されたのは、太宰府自身だ。

 

『手だけは、離さないであげてください』

 

太宰府は早鐘のように鳴り響く心臓の音を抑えつけながら極めて冷静に、そしていつも通りの自分であるように振舞おうとした。

 

「もう少し、考えないか」

「無理です……もう、無理なんです」

 

むりです。

甘木が入社して、まだ1年経っていない。今が1月の頭だから、現在で9カ月強。

早い。余りにも早い。もう少し、耐えて欲しい。

そうしなければ、辞めても次の就職を探すのも簡単ではなくなる。

太宰府は必死で何か気の利いた言葉がないか探した。

しかし、こんな時、どうしても上手く頭が回らない。

 

「太宰府さんみたいに仕事、さくさくできないんです。俺、迷惑ばっかりで。太宰府さんみたいになれません」

「…………」

 

その言葉にそれまで耐えていた太宰府の感情が一気に洩れそうになった。

しかし、太宰府はそれを寸での所で抑え込んだ。こういう時、仕事で身に付けた鉄仮面があって良かったと心から思った。

しかし、このまま此処に居たら危ない。

太宰府は自分の感情の高ぶりを悟ると、ポケットに手をつっこみスクリとその場から立ち上がった。

そんな太宰府を甘木は驚いたような目で下から見上げていた。

 

「……すまん、ちょっと会社から電話みたいだ」

「会社から!?俺、またなんかやっちゃったんでしょうか!?」

「いや、これは多分正月の別件だ。悪いがちょっと席を外させてもらう。酒と食べ物は来たら先に食べててくれ」

「っは、はい……」

 

甘木の浮かべる不安そうな顔を横目に、太宰府はズルい嘘をついてその場から離れた。

どこへ向かうかなんて考えていなかった。

ただ、少し冷静になりたかったのだ。

太宰府はあたかも会社からの電話を取ったように携帯を耳に押し当て、口元を覆うと、店の奥へと走って行った。

 

“太宰府さんみたいにはなれません”

そう言った甘木の悲痛な言葉が耳から離れない。

なぜ、そう思うのだ。

太宰府は叫びたかった。なんで、俺のようになれないからと言って仕事を辞めたいと思うのだ。

 

「(俺のせいか……俺が甘木から奪ったのか)」

 

自信も、やる気も、そして希望も。

予想していた筈なのに、なのに、どうしてこんなに傷ついているのだろうか。

 

『太宰府さんはきっと新人達の目標ですよ。こんなにかっこいいんですから、俺はそう思いますよ』

 

頭の中に響いて来たのは、あの12月25日のエレベーターの中で言われた言葉。

今、あの暖かい言葉をくれた彼に、太宰府は無性に会いたかった。

甘木は太宰府が怖いかもしれない。けれど、太宰府だって怖い。

教育と言うものが、人を育てるという事が。

とても怖い。

 

間違えれば、相手から様々なものを奪う事になる。

自信も、やる気も、希望も、未来も。

それが、怖いのだ。

 

「(……俺だって、指示して導いてくれる存在が欲しいさ)」

 

太宰府は熱くなる目頭を押さえながら唇を噛みしめると、店の奥にあるお手洗いへの扉を開いた。