○
「…………」
「なんか凄い新人さんだね、春ちゃん」
「うん、凄く面白い子なんだ」
「いや、面白いっていうか」
春は手元にあるビールをチビチビと啜りながら深い溜息をついた。
その両脇では、この日、共に飲む事を約束していた友人の甘木と、そして。
「失礼なやつですね。社会人としての自覚が無さ過ぎる」
太宰府が居た。
40歳になり少しは老けたように見えるような見えないような、実質一切見た目に変化のみられない太宰府は眉間に皺をよせ一気に酒を呑み下した。
そんな太宰府の様子に春日は慌てたように、ビールを置き身振り手振りで話す。
「いや、悪い子ではないんです!明るくて良い子なんです!俺は彼の事は嫌いじゃないんです!」
「いやいや、春日さん?ここは人間性の問題じゃないんですよ。社会人という人種の上では、人間性の善し悪しではなくまず基本的な常識とマナーが備わっていないと、人間性の善し悪しには触れられないんです!だいたいなんですか!春日さんに向かって老けてるって!失礼にも程がある!友達みたいに馴れ馴れしいのもありえない!呼んだだけって恋人じゃないんだから!会社を何だと思ってるんだっつーの」
そんな私情と一般論を練り混ぜ無理に説得力を付け足した非難に、春を挟んで話を聞いていた甘木は「うわぁ」と若干引いた。
2年が経過し、甘木も太宰府という人間の本質を少しずつ理解できるようになっていった。
『貴方のようにはなれません。辞めます』と泣きベソをかいていた2年前はどこへやら。
今や甘木は親友である春にハマリまくっている太宰府に「引くなぁ」と呟けるまでになっていた。
そして、甘木をそこまで引っ張り上げたのは、まさに同じくカウンターの奥で話を聞いて「お前、マジで引くわ」とハッキリと太宰府に言い放った宮野であった。
太宰府に「引くわぁ」と呟く甘木であったが、甘木自身、この宮野には太宰府に匹敵するほどの憧憬やら友愛やら何やらかにやらと他人には言えぬ感情を秘めている。
なんといっても甘木は宮野のこの店へ週5で通っているのである。
この上司にして、この部下あり。
そんな言葉を地でいく二人はまさに「引くわぁ」の一言に尽きる。
「だいたい、そんな型破りな奴が来て表面上は明るくて楽しい部署になろうとも、そう思っている人だけじゃない筈ですよ。春日さん?表面にばかり目を向けてると、水面下で起こっている他の問題を見逃して大変な事になります。変化が大きかった分、その軋轢はどこかにきますよ」
「……その通りです。太宰府さん。さすがです」
春日はカウンターの木目の模様をぼんやりと眺めながら頷いた。
辺りからは酒を呑み交わしながら楽しげに会話を楽しむ人々の声が聞こえる。
「香椎花は、去年の新卒の子達から妙に嫌われてしまってるんです」
「でしょうね」
どこか憮然と答える太宰府に、春日は少しだけ苦しくなった。
きっと、太宰府は春日の思い悩んでいる問題の根源も理解しているに違いないのだ。
理解していてこの憮然とした態度という事は、それは最早春に対する非難の他にならない。
太宰府は基本的には春には優しかったが、宮野が仕事を辞めてからというもの春の持ち込む仕事の悩みに関しては、これまたシビアにまるで自分の部下のように接した。
そして、逆にどんなに仕事の相談をされても元上司である宮野は確信的な事を言わないようになった。
これは、サラリーマンでなくなった宮野の一種のけじめでもあった。
宮野は春日の悩みを話半分で聞きつつ、カウンターの中をくるくると動き回る。
甘木はそんな宮野をほろ酔いで眺めている。
今や春の話を真剣に聞いているのは太宰府だけであった。
「敬語がなってないだとか、先輩を舐めてるだとか。ムカツクとかなんとか。裏では色々言われています。何でもハッキリ言う子だから。そんなんだから、若手の子らの飲み会にだって香椎花誘われていません。まぁ、知ってても気にするような子ではないですが」
「そうでしょうとも。型破りを可愛いと思えるのは“若い子”と、相手を一旦自分の立つラインから離して考えられる世代からです。同じような立場の近しい人間からすれば言いたい文句もそりゃああるでしょうね」
「……これは、えっと」
「何でしょうか、春日さん」
「……俺の、せいですよね」
そう言って情けない程顔を歪ませた春に、太宰府は飲んでいた酒のグラスを握りしめ、心を必死に鬼にして言った。
「7割方は、そうでしょうね」
「うっ」
グサリと見えない刃物が春の心臓を突き刺した気がした。
太宰府も太宰府で、ショックを受ける春に後頭部を鈍器で殴られたような気分になる。
ここからは互いに不本意な攻撃のし合いとなってしまった。
「さっきも言ったように、社会人として仕事をする以上、人間性以前に社会常識と礼儀マナーが必要なんです。春日さん」
「うっ」
「明るくて良い子である事に間違いはないでしょうけど、皆、好き嫌い以前に仕事をしに会社に来ているのだから、春日さんは彼に社会人の前提を厳しく叩きこむべきだったんです。怒るのが苦手とかなんとか言っている場合ではなかったんですよ。自分以外にきちんとしてくれればいいのではなく、まず一番身近に居る上司である春日さんへの態度を改めさせないといけません。怒るって大変なんですよ。難しいんですよ。嫌われる覚悟もいるし、身も心も体力がいる」
「……はい、はい」
「春日さんが甘やかしたのはソイツではなく、自分自身です。嫌われる覚悟がない為に10代だから仕方ないと問題に目を逸らし続けた事が、今回の問題の一番の原因ですよ」
「っ!!」
その瞬間、春日は息を呑む。一番突かれたくなかった自分の浅はかさを一気に露呈されてしまった。恥ずかしさと居たたまれなさに唇を噛みしめた。
そう、春日は怒るのが苦手といいながら、実際の所は香椎花におべっかを使っていたに過ぎなかったのだ。嫌われないようにと、己の立場のみを考えて行動してしまった結果が、今の浮上する問題の根源だ。
「……うううう!」
「春日さん!?」
春は居たたまれなさからカウンターに顔をうずめると「だめだぁ!ちっとも上手くいかない!」とのたまった。
自己嫌悪の爆発だ。
そんな春に太宰府は鬼にしていた心を一気に天使に戻すと「いや!でも!ソイツ自身も悪いですよ!?もちろん!」とフォローを開始し始めた。
しかし、時既に遅し。
「俺には誰かを指導する器はなかったんです!俺のせいで!香椎花は他部署からも目をつけられる!どうしよう!」
「いや、全部が全部春日さんのせではないですって!ソイツを助長させたのは部署全体のその空気なんですから!とりあえず!春日さんはソイツと二人で話してみるべきです!ね!はい!今日はもうパーっと飲みましょう!」
パーっと!
最早そんな雰囲気には一切なれそうもない春日に、太宰府は上司モードを解いてどうにかこうにか春日のご機嫌とりを始めた。
太宰府は自分が言っておいてなんだったが、春日のこの悲壮感に満ち溢れた顔は自身にも相当なストレスを与えるのである事を毎度の事ながら思い知らされる。
傍から見れば、年下の後輩に元気づけられる、年上の部下の図だ。
傍から見ていても「うっ」とどこか心臓を掴まれる絵づらなのである。
そんな二人を横目で「ほんと、面白れぇな」と笑う宮野は、何の気なしに目の前の体はデカイが春日の友達らしくどこかボヤッとした友人の部下に目を向けた。
「おい、五郎丸」
「はい!宮野さん!」
甘木 五郎丸。
古風な名前に似合わず、最初は誰からも軟弱で名前負けしていると思う。
「お前の方はどうなんだ?ちゃんと後輩の指導はできてんのか?」
週5で店に来る、どうやら自分の事を気に入ってくれているこの弟のような男を、宮野は気に入っていた。自分を見る時の犬のような笑顔も気に入っている。
最近では店の手伝いまでしてくれるようにまでなった。良く出来た忠犬である。
それ故、甘木が本気で仕事を辞めるという時は、宮野は自らの店で引っ張ってやってもいいかなと、冗談半分で思ってもいる位だった。
「俺は……そうですねぇ」
「後輩に舐められてないかぁ?」
多分舐められているだろう。
そういう気持ちで宮野は甘木を見た。
しかし、その瞬間甘木の見せるいつものヘラっとした気弱な笑顔は綺麗に消えた。
「俺、そういう礼儀のなってないヤツ、本当に許せないんで」
「……は?」
「春ちゃんは優しいからなぁ。けど、俺は春ちゃんと違って舐めた態度で仕事するヤツにはハッキリ言いますよ。怒るの、得意なので」
その時、甘木は自身がどんな顔をしているのか知らないのだろう。
しかし、宮野は思わず背筋を伸ばしてしまった。それ位、鋭い表情をしていた。
そういえばそうである。この甘木という男は、中学高校と剣道部に所属し、ある程度強かったのだと聞いた事がある。父はしつけに厳しく、剣道も父の影響という。
故に、名前は五郎丸。
上下関係に甘い顔をする訳がなかった。
「…………心配いらないみたいだな」
「いえ!俺なんてまだまだです!太宰府さんに比べたら、俺の言葉なんて後輩達には蚊にさされたようなもんだと思います!きっと裏では嫌われてますよ!」
誰しも、仕事で見せる顔と友人に見せる顔は違う。
もちろん、週5で通う気に入りの店長に見せる顔とも、大きく異なるのだろう。
そんな事も忘れていた、気付けなかった。
宮野は、自分の前ではきゅっと体を縮こませたような甘木の姿に、己は本当にもうサラリーマンではなくなったのだなと思い知った。
「別に寂しくねぇしー」
「どうしたんですか?宮野さん」
こうして金曜日の夜はじわりじわりと更けてゆく。
「と、ともかく。二人でしっかり話してみようと思います!」
「その意気ですよ!春日さん!」
そして、また。
1週間が幕を開ける。