27:覚悟と痛み

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【太宰府さん】

今日、おうちにお邪魔してもいいですか。

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「…………甘木」

「なんですか?太宰府さん」

「今日は、俺、定時で上がるから。死んでも定時で上がらせてもらうから」

「……それはいいですけど太宰府さん。書類、落としまくってますよ」

 

甘木は太宰府の足元に落ちている書類を拾いながら、無表情のままただ明らかに機嫌だけがよくなった上司に「引くなぁ」と小さく呟いた。

この人物の機嫌をここまで良くできる相手など一人しか居ない。

 

「俺も、早く仕事終わらそ」

 

甘木はそう一人ごちると、普段からは比べ物にならないほどの厳しい表情でデスクへと戻った。

この上司にして、この部下あり。

職場でも、甘木と太宰府は影でそう呼ばれていた。

 

 

 ○

 

 

「にゃあああああ」

 

甘えた鳴き声が春の耳に響く。

 

「にゃあああああ」

 

すりすりとこれでもかとスーツに擦り寄ってくる暖かい塊に、春は毛がスーツにつくのもいとわず顔を手で覆った。

少しだけ震えている。

春は現在、ある部屋を訪れていた。

 

太宰府のマンションの部屋を。

 

「こら、クロ。春日さんに毛をつけるな汚い」

「汚くないです。クロは美しいです。俺の癒しです」

「いや、頻繁に風呂入れる暇ないんで、ほんと汚いですから。コラ!クロ!春日さんを舐めるな!」

「もうクロの居ない世界なんて信じられない」

「……そんなにですか」

 

春日は興奮しつつも、控えめに“クロ”と呼ばれる、名前通り真っ黒な猫を撫で始めた。クロはゴロゴロと喉を鳴らしながら、目を閉じる。

そんなクロに最早、春はメロメロだ。

本当はムツゴロウさんの如く勢いに任せて撫でちらかしたかったが、クロからウザがられたくないと、必死でその衝動を抑えていた。

そんな春日に、太宰府も太宰府で「あぁ、究極の癒し!」と実際声に出しながら、机に酒やらつまみやらを置いていく。

 

「クーロー。クロちゃーん。キミが会社に居てくれたら。上司だったら」

「それはとんでもない事になるでしょうね」

 

このクロという猫。これは太宰府の家に居る、太宰府の飼う猫だ。

元は太宰府の妹の飼っていた猫だったのだが、昨年、妹の出産を期に、太宰府が猫を引き取る事になったのである。

本当ならば猫と子供を一緒に育てるつもりらしかったが、どうやら生まれた子供がアレルギー持ちだったようで、それは無理になってしまった。

そんな訳でペット可のマンションに住む独身の太宰府に白羽の矢が立ったのだ。

 

『ざっけんな。実家に連れていけ。俺も仕事で忙しいんだよ』

『実家に預けたらすぐに会えなくなるじゃない!いやよ!おねがーい!にーさーん』

『嫌だっつってんだろ!いい年して気色悪い声出すな!』

 

そんな悪態も、妹の生まれてこのかた何千回と使われてきた「一生のお願い」を行使され、なし崩しに太宰府が飼う事になってしまったのだ。

猫ブームと言われる昨今であったが、太宰府は猫に対して癒しも何も感じる事はなかった。

多少のいけすかなさを感じる事は多々あったが。

 

しかし、初めこそ『めんどくせー!』と、のたまいまくっていた太宰府であったが、猫を飼っていると知った春がまるで自分の事のように喜び、しかも羨ましがるものだから、次第に太宰府も猫に対して表だって悪態を吐く事は無くなった。

それどころか「太宰府さんの家に行っていいですか!」と猫を触りたいが為に、家に来てくれるようになった春に、太宰府は一変してクロの存在に感謝するようになった。

 

下心の見事勝利である。

今では餌もランク高めのキャットフードを与える程だ。

いや、餌ではなく最早貢物と言ってもいいだろう。

 

「太宰府さん、クロ。お二人共、俺の癒しです。ありがとうございます」

「え、俺もですか」

「もちろんです。太宰府さん。いつも話を聞いてくださって。それで俺がどんなに救われているか」

 

まさか自分も春日の癒しに含まれているとは思ってもみなかった太宰府は、ただただ目を見開いた。

嬉しいのは嬉しいのだが、手放しで喜べる程、春日の表情は晴れやかではなかった。

 

「春日さん、また19歳ですか」

 

控えめにクロを撫でながら、どこか疲弊したように言う春日の姿に太宰府はビールを差し出しながら言った。

春日は「ありがとうございます」とビールを受け取ると、コクリと静かに頷く。

春日は今日あった出来ごとをビールを呑みつつ、クロを撫でつつ、チビチビと今日あった出来事を話した。

太宰府はそれを静かに、頷きながら聞く。

 

そして。

 

「春日さんは、その19歳に嫌われる事で生じる何を、そんなに恐れているんですか?」

 

太宰府は静かに聞いた。

春は視線をあちらへ、こちらへと流しながら「えっと」と言葉を詰まらせる。

 

誰しも無為に誰かに嫌われたくは無い。

その根源は太宰府にも理解できる。

2年前『貴方のようにはなれない』と泣きながら部下に言われた太宰府にも痛い程よくわかる事だ。他者を指導するという事は、そう軽いものではない。

その者の人生すら左右しかねない、重い役割だ。

 

「(けれど)」

 

けれど、このままではその19歳が余りにも可哀想である。

一旦身近な年長者が、ポキリと彼の中にある何かを折っておく事は必要なのだ。

ここで上手く木を剪定するように切ってやれば、新人も潰れたりはしない。

逆にある程度経験を積んだ後にポキリと真ん中から折れたりすれば、それこそ潰れてしまいかねないのだ。

 

太宰府には春の気持が痛いほどよくわかる。

けれど、春の事やっている事が究極の甘えだとも思う。

上司が嫌われる事を恐れ指導を怠るのは、それこそ職務怠慢というものである。

 

「なんでしょうね。自分に自信がないから、嫌われると全部自分の傍から離れていってしまいような気がするのかもしれません。結局、俺は自分の事だけを考えてばかりいる、器の小さい、経験の浅い奴なんです」

「26歳で器がデカくて深い経験があったら、こちらが困りますよ。春日さん」

「はは、そうでね」

 

春日は力なく笑う。

『嫌われる事を恐れるな』

『そうすることで人生は今までよりずっと生きやすくなる』

 

そんなありきたりな自己啓発本に数多く掲載されているような言葉が春の頭の中を駆け巡る。そんな事は分かっている。分かりきっている。

けれど、他者に対して声を荒げた事なんて、春にはほぼ皆無といって言い経験だ。

やった事のない事に対して足がすくむ。

嫌われる事が怖くて足がすくむ。

 

「(こんな自分が心底嫌になる)」

 

春がクロを撫でる手を止めた時だ。

膝の上にあった柔らかい暖かさがすっと消えた。

 

「え?」

 

春が顔を上げると、そこには春日の膝の上に居たクロを慣れない手つきで抱きかかえ、そして若干嫌がりを見せ始めたクロに、無理やり頬ずりを始めた太宰府の姿があった。

 

「え?え?太宰府さん?」

「あー、やわらかい」

「太宰府さん、クロが嫌がってます!」

「ぐうぐうう」

 

春日の言うように、下手クソなやり方で抱きかかえられ、無理やり頬ずりをされたクロが不穏な声を喉の奥から鳴らし始めていた。

猫を飼った事の無い春にも分かる。

 

これは危ない、と。

 

「あ゛-!気持ちいい柔らかい。クロさいこー」

「ぐぐぐぐぐぐ」

 

クロの目が鋭くなる。それと同時に、クロの爪が太宰府の顔めがけて勢いよく放たれた。

 

「ったぁぁぁ!!」

「にゃあああああ」

「…………血だあああ!」

 

すとん。

太宰府の腕の中からクロが綺麗に床へと着地する。

春の目の前には、顔に見事猫のひっかき傷を作り血を流す太宰府の姿があった。

春は慌てて床に置いてあったテッシュを掴むと、タラタラと血の流れる太宰府の血を拭う。

 

「……痛い」

「そうでしょうとも!太宰府さん!クロ怒ってますよ!」

「……痛い」

「そうでしょうとも!消毒しましょう!太宰府さん!」

 

そう言ってアタフタし始めた春に、太宰府は苦笑した。

自分と春の両方に苦笑した。

 

「春日さん。こんな目にあったりもしますけど、そのうち、慣れます」

「え」

 

血を流しながらポツポツと放たれる太宰府の言葉に、春は首を傾げた。

クロはピョンと跳ねて棚の上に逃げてしまった。

「にゃあ」という声が遠くで聞こえる。

 

「痛い事には多少慣れます。嫌われる事には余り慣れませんが、多分これには余り慣れ過ぎない方がいい」

「はい」

 

春は太宰府の血を拭っていたティッシュをクシャリと手の中で握りしめた。

淡々と紡がれるこの言葉の奥に、一体どのくらいの苦悩があったのだろかと考える。

きっとこの何でも出来てしまいそうなスーパーマンみたいな先輩サラリーマンにも、春と同じように悩んだ日々があったのだ。

 

「怒り方が、指導の仕方が分からなければ、いっそ真似してみてもいい。自分が言われた事を同じように言ってみればいい。春日さんは宮野から怒られた事は一度もありませんでしたか」

「……あります。たくさん、山のように、怒られました」

 

春日には言われたくない言葉があった。

世代でひとくくりにされる言葉や、若さで全てを片付けられてしまう言葉。

だから、まだ器の整っていない未熟な自分が指導なんてしてしまったら、同じように相手に言われたくなかった言葉を使ってしまうかもしれない。

とっさに若さを、未熟さを理由に怒ってしまうかもしれない。

 

 

「居なくなった上司は、居なくなったら何も教えてくれないわけではありません。頼っても助けてくれない。聞いても答えてくれない。けれど、直接的ではないかもしれないけれど、きっと宮野は教えてくれます。それが“経験”というものです」

「……はい、はいっ」

 

太宰府の言葉を聞きながら、春日は酒を一滴も飲んじゃいないのに、何か熱いものが込み上げてくるのを止められなかった。

 

新人ではなくなり、下が入って来て、指導する立場になった。

けれど、自分にはそれほどの経験値も器もまだ揃ってはいない。

圧倒的に足りない経験の中、春はただ自らがされて嫌だった事だけは鮮明に記憶の中にあったのだ。

自らの引いた指導のラインと、周囲から求められる指導のラインと、新人と自分のラインと。

そう言った様々なものに、春はがんじがらめになっていた。

 

『宮野さん、俺は一体どうすればいいんでしょうか』

『そりゃあ大変だったな。ほら、コーヒーでも飲め。頭がすっきりすんぞ』

『……はい』

 

けれど、どんなに相談したって、頼ったって宮野はもう何も答えてくれなくなった。

太宰府はいつも話を聞いてくれて、アドバイスだってしてくれる。

こうして自分の部下のように接してくれる。

けれど、どうしたって春日は太宰府の部下ではないのだ。

 

互いに違う会社で、やっている仕事も違う。

春日を指導してきたのは、やはり宮野だった。

けれど、その宮野は会社を辞め、もう春日には何も教えてはくれない

 

そう、春日は思っていた。

 

「怒った経験がなくとも、春日さんには怒られた経験がある。自分を指導してくれていた人をずっと見てきた経験がある。そういう経験こそ、今、貴方が頼るべき上司ですよ」

「っひぐ。は、い」

「一人で辛いかもしれない。きついかもしれない。嫌われて嫌な思いもするかもしれない。けれど」

 

太宰府は肩を震わせる春の肩を叩きながら、いつの間にか近くで聞こえてきた「にゃー」と言う声に苦笑した。

重いと思ったら膝の上にはクロの姿。

先程の怒りに満ちた顔が嘘のように、今ではグルグルと喉を鳴らしている。

 

現金なものである。

 

「怒った相手って、案外ケロッとしたりしてますよ」

「ははっ。ほんどうだ、……太宰府さん」

「はい、なんでしょう」

 

太宰府はクロを見て泣き笑いをしている春の肩をもう一度撫でた。

そんな太宰府に、春はたまらず体を前傾姿勢で小さく丸めると、顔を必死に隠しながら「ありがとうございます」と、やっとの事で返事をした。

酒は一滴だって飲んではいない。

けれど、春はこれまで沢山の溜息を一人で飲みこんで来た。

 

それらが全て、涙となり、今やっと吐き出されたのだった。