31:向かう二人

若いというのは素晴らしい事だ。

未知なるものが多いというのは素敵な事だ。

わからぬが故に恐れを知らず、ずんずんと前へ進んでゆける。

経験を重ね、慎重にそして確実に前へと進んでいく先輩方にしてみれば、青臭くて向こう見ずで、とびきりバカに見えるに違いない。

けれど、やっぱり、そんなとびきりバカな時代というのは誰にでも必要で。

 

『あははっ、もうヤメて下さいよ!何すかその見苦しい生活は!』

 

でも、でも、でも。

“若い”からと言って許されるべき事と、そうでない事がこの世にはある。

自分の生きてきた視界と世界を全てと思ってしまうのも当然。

そこに己の常識が生まれるのも当然。けれど、そうでない事は、誰に教わらなくたって、小さな子供だって、知っていなければならない。

そんな子供でも知っている“当たり前”を今から隣に座る後輩に教授せねばならない。

 

なんて嘘っぱち。

 

というか、そう言った込み入った理屈など春は全く頭の中になかった。

ただ、現在の彼にあるのは非常に大きな衝動だけである。

 

「っはあ」

 

だから。

春は静かに酒の入ったグラスをカウンターに置くと顔を上げた。

自分が今一体どこに視点を合せているのかよくわからなかったが、視界の端で己の元上司が変な顔でこちらを見ているのはおぼろげながらも認識できた。

認識しただけで特に何も思わなかった。

 

そして。

 

春は吠えた。

 

「見苦しくねぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」

 

春はカウンターにその両手を叩きつけると、ひたすら据わった目で隣に居る後輩を見下ろした。

 

 

 

 

      ○

 

 

 

「太宰府さんのせいでこんな時間になったじゃないですか」

 

甘木はムスリとした様子を隠すことなく隣を歩く先輩に言った。

隣を歩く“太宰府さん”と言うのは言わずもがな太宰府互譲、その人である。

太宰府は2年前とはうって変って堂々とモノを言うようになった後輩に、時間と言うものの凄まじさを、まざまざと見せつけられた気がした。

そして“若者”の2年の大きさを改めて思い知る。

2年とはそれ程の時間なのだ。

 

「あぁ、申し訳ない」

 

太宰府は力なく答えると、振り返りたくもない今日1日を溜息と共に振り返った。

今日、太宰府は外回りから帰社後、こまごまとしたミスばかりを連発した。

そりゃあもう周りを戸惑わせる程のそのポカっぷりに、上司は「早退するか?」と声をかけ、同僚達は「熱でもあるんじゃないか」とその体を労わった。

そして、女性社員達からはセクハラとも呼べるべきボディタッチを受けつつ、お茶だのお菓子だの薬だのと至れりつくせりな状態を生み出させていた。

その姿はさながらハーレム。

ただ、どんなに早退を勧められても太宰府は頑として首を縦には振らなかった。

その姿に周りからは「さすが仕事の鬼」なんて囁かれ、ミス連発後にも関わらず太宰府の評価を更に上げた。

 

「太宰府さん。ミスしてちやほやなんて、ズルいですよ」

「……返す言葉もないが、あれに関しては俺のせいじゃない」

「太宰府さんの日頃の仕事の行いが良すぎるせいですよ」

「それは……俺は褒められているのか」

 

しかし、甘木だけは早退しなかった真の理由を知っていた。

甘木はこの2年、あの出来事を機に太宰府の仕事とプライベートの狭間を幾度となく見てきたのである。

今日の太宰府は周りの言う“仕事の鬼”でもなんでもない。

ただ早く帰りたくて気持ちがはやってしまい起きた、なんとも自己中心的なミスなのである。

 

「いくら帰りに宮野さんの店に寄りたいからって、無理やり仕事終わらせるのに俺を付き合せないでくださいよ。そんなに早く帰りたいなら皆が言うように早退すればよかったじゃないですか」

「バカ。早退でもして、帰りに会社の連中に会ったら面倒だろうが。まだ8時は回ってないし、そんなに遅くない」

 

そう、全ては大手を振って宮野の店へと向かう為。

否、もっと詳しく言うならば宮野の店に居るであろう春に会いに行く為だ。

 

「俺はもっと早く宮野さんの店に行って、お店の手伝いがしたかったんです」

「仕事の後に仕事の手伝いするのか?考えられんな」

「宮野さんは凄い人なんです。いろんな事を教えてくれます!」

「そんなにかぁ?アイツ、そんなに何か教えてくれるか?たとえば?」

「凄いんですよ、宮野さんは!」

 

いつの間にか仕事も覚え立派に一人立ちした後輩のキラキラした横顔に、太宰府は眉を潜めた。

2年前、涙と苦悩と苦労の末に育て上げた新人は、いつの間にか宮野にすっかりなついてしまっている。

この成長も、今となっては宮野の手柄だ。

そして確かに事実そう言う面が多いのも事実である。

今、この甘木五郎丸という男に“感謝の手紙”などという漠然としたものを書かせたら、その全ては“宮野 陣”に向けられたものになるのだろう。

解せない。

 

(アイツは昔から年下から好かれるからな)

 

太宰府は隣で延々と宮野の素晴らしさを語ってくる部下を前に、何故だか非常に鬱々とした気持ちになった。

ミス連発の後だからというのもあるが、甘木も、そして“あの”春も頼りにするのは「宮野さん」だ。

いくら仕事の鬼と言われ周りから一目置かれていても、これではやるせないではないか。

悲しいではないか。

今や太宰府のプライベートでのうっかりを知った甘木からは、若干のフォローにまで回られる始末。

この成長を喜べばいいのか、自分の不甲斐なさに涙を流せばよいのか。

今の太宰府には分からなかった。

 

「あ。そう言えば太宰府さん、」

「なんだよ」

「あんましそっち行くと溝にハマりますよ」

「……もっと早く言ってくれ」

 

いや、きっと嘆くべきなのだろう。

太宰府は宮野の店を目前にし、見事側溝にハマってしまった。

あぁ、何をやってもダメな日と言うのは誰にでもあるものだ。

今日はもうダメだ。

 

「つらい」

「誰にでもそう言う日はありますよ」

「つらい……」

 

太宰府は本気で涙を流したくなるのを堪え側溝から足を引き上げた。

最早、今日と言う日に救いなど求めない。

 

「さっさと行くぞ、甘木!」

「…………はは」

 

ともかく今日は春に会って帰って寝る。

それだけだと太宰府は汚れた足を引きずりながら前へと進んだ。

そんな上司の姿に、甘木は乾いた笑いを抑える事なく付いて行った。