『(一人立ちかぁ)』
俺はまだまだ体の小さな子猫を見ながら、一人立ちの時期を思って腹の毛がキュンとするのを感じた。
一人立ちにはまだ時間がある。
まだ、俺はこの子の親でいられる。
親猫は死んだのか、はたまたはぐれてしまったのかわからぬこの子猫は、乳離れが早すぎたようでよく俺の腹に吸いついてきた。俺はオスなので乳など出ないのだが、眠りながら自然と俺の腹に吸いつくその姿に、俺は何度も親心をくすぐられてきた。
乳吸いは不安の表れだ。
なので、俺は俺も昔よく母親からしてもらったように子猫の体を舐めてやる。
そうすると安心するのか、子猫は乳吸いを止めるのだ。
この時、俺はこの子猫は一人立ちをしたら俺の元を離れるものとばかり思っていた。
しかし、実際にはそうはならなかった。
『あにき!!あにき!!デケーの獲ったぞ!!』
『…………』
そう言って目の前に現れたのは、体も十分に成長し、今や立派なオスの成猫になったあの子猫の姿だった。
口にはバサバサと翼をバタつかせるカワウを咥えている。
『そうか』
『あにきにやる!食べてくれ!』
そのカワウはもう俺の体よりも遥かにデカかった。
一体どこまで狩りをしに行ったのだろう。
そして、どこからそのカワウを咥えて歩いてきたのだろうか。
周りの猫はどう思っただろうか。人間はどう思っただろうか。
俺は昔と変わらずキラキラと俺を見て来る猫の姿に、なんとも言えない複雑な想いに駆られた。
もう、とうに一人立ちの時期は過ぎた筈だ。
なのに、この猫はいつまで俺の元に居るつもりなのだろう。
少し前、それとなく猫に一人立ちについて話してみた。
すると猫は『あにきの所にずっといちゃダメなのか!?』と、この世の終わりのような顔で悲痛な声を上げてきた。
駄目と言うわけではないが、猫と言うものは一人立ちする生き物だ。いつまでも親元に居る猫なんて聞いた事がない。
『お前も猫だろう、よく考えるんだ』
『あにき……』
そう、不安気な声で鳴く猫を前に、俺は背を向け体を丸めた。
これも生きて行く為の試練だ。仕方のない。
しかし、その夜俺は信じられない光景を目にする事になる。
ねぐらにしている渡瀬神社の軒下で、いつものように俺に寄り添って寝ていた猫が、子猫の時同様俺の腹に吸いついてきたのだ。
乳吸いは子猫特有の不安の表れ。
しかし、すっかり大人になった筈のこの猫は確かに今、俺の腹に顔をうずめて乳を吸うようにチュパチュパと音を立てている。
そんな猫の姿を見た時、俺はもう何も言わぬと心に決めた。
成人した猫が乳吸いを無意識にやってのけるという事は、それは相当な不安をその身に溜めこんでしまっている証拠だ。
本来ならば、この猫の為にも心を鬼にして俺の縄張りから追い出して一人立ちさせるべき所なのかもしれないが、俺には到底そんな事は出来そうになかった。
俺は昔からどこか他の猫とズレていた。
野良のくせに主食は人間の飯だし、縄張りの主になったのに結局その地区は放置だ。
己の種を残す事にも興味が無く、発情期も来ない。
血も繋がらぬ子供に、ここまで情を抱いてしまった。
それならば、とことん俺はズレてやろう。
この子が俺の縄張りにずっと居ると言うなら好きにさせよう。
同族との関わりが薄い俺にとっては、この子は俺の腹の毛をきゅんとするのを防いでくれる唯一の存在なのだ。
『……好きにしな』
俺は子供のように必死で俺の腹を前足で押しながら乳吸いをしてくる猫の体を舐めてやると、そう小さく呟いた。
だが、その夜、猫の乳吸いが収まる事はなかった。
『あにき!あにき!あにき!あにき!』
そう、大人になっても俺の後ばかりついてきていたその猫。
一人立ちの話をすると悲痛な顔で俺に縋る猫。
不安が募ると乳吸いをする猫。
この猫に独り立ちなど絶対に無理だ。
だから、俺が生きている間はずっと面倒を見てやろう。
しかし、この子は俺が死んだらどうするつもりなのだろうか。
そんなモヤモヤが常に俺の腹の毛のどこかに張り付いていた。
こんな事で悩む猫は、もしかしたら猫では俺が初かもしれない。
なんて、考えていたのに。
そんな心配は杞憂に終わった。
『戻ってこない』
ある日を境に、その猫は一切俺の前に現れなくなった。
最後に見たのはいつだっただろう。
雪のちらついていたあの日だっただろうか。
どうだっただろうか。
俺は帰ってこない我が子に、心のどこかで最悪の事態を想定していた。
しかし、それを考える度に腹の毛が逆立つような気分になるので、俺はその度に『アイツもやっと一人立ちしたんだな』と、毛の逆立ちに蓋をした。
けれど、聞きたくない情報も、一応、縄張りの主たる俺には伝わって来る。
『道の真ん中で死んでいたよ』
そう縄張り内の猫が話しているのを聞いた時、俺は無意味に鳴いた。
『にゃあ』と一鳴だけ。
別れはいつだって突然だ。
母もそうだった。母の死で兄弟たちは離ればなれになった。
俺は一匹になった。
今もそうだ。
あの猫は突然消えて、そして俺はまた一匹になった。
『……好きにしな』
俺は雪のちらつく空を見上げながら何故だか、そう言わずにはおれなかった。
あにき、あにき、あにき、あにき
そう呼ぶ、あの声がどこか遠くに聞こえた気がした。