195:大混乱

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リーガラント国最高指導者、ジェローム・ボルカーは大いに混乱していた。

 

「おいっ!これはどういう事だ!何故俺の指示なしに全軍が撤退している!?」

 

普段の彼ならば、ここまであからさまに感情を表に出す事などない。しかし、今の彼は完全にいつもの彼ではなかった。なにせ、自分の指示で進軍させた軍が、何をどうする事もなく突然自国へ帰還してきたのだ。

 

「分かりません!ただ、軍の進軍撤退の指示なんて、そんな指揮権はジェローム様にしかありません!他の者になど無理です!」

「俺がそんな指示を出すワケがないだろう!いいから早く情報を集めろ!」

「わかりました!」

 

ジェロームは予想外の事態に内心完全に頭を抱えるしかなかった。もう訳が分からない。

 

——–ジェローム!起きてくれ!キミ、軍に撤退命令を出したって本当か!?

 

そう言って、私室に飛び込んで来たハルヒコに対しジェロームは一体何事だと思った。軍の撤退命令?そんなモノをどうして自分がこのタイミングで出すと言うんだ。ハッキリ言って、その一言に尽きる。

 

——–進軍を命じた部隊が、全軍此方へと戻ってきているらしいぞ!これはどういう事だ!ジェローム!

 

ハルヒコとしては、ジェロームが常々悩んでいる姿をみていたせいもあって、突然気が触れたとでも思ったのだろう。ただ、さすがのジェロームも一度進軍させた軍を、たった数日の滞在の後、無意味に撤退させたりはしない。

もし、撤退させるとしても、一度議会を通して承認を得るのが通例だ。

 

「クソッ!一体何だと言うんだ!」

 

一国のトップの座についておきながら、こんな事ではいけないのは分かっている。分かっているのだが、ジェロームはこういった不測の事態が滅法苦手でならなかった。

本来ならば、こういう事態も格好良く不敵な笑みを浮かべて乗り切りたいモノなのだが、無理なものは無理だ。

 

自分はそういうタイプの指導者ではない。

 

「なんで、撤退なんか……!」

 

こんな事なら、まだクリプラント側から攻撃を受けたと言われた方がマシだった。それならば、ジェロームがここまで取り乱す事もなかっただろう。自分達は侵略戦争を試みていたのだ。相手からの反応は、如何なるものであっても“予想の範囲内”だと思って然りだ。

 

それがどうだ。

 

「砦で、何かが起こったとでもいうのか……?」

 

もしかしたら、反乱分子による軍の乗っ取りか。いいや、さすがに一部の上層部が自分に対して不満を持っていたとして、全軍を動かす程の力など持ちえない。

だとすると、クーデターか。いや、もしかするとこの情報自体が誤りで、クリプラントからのサイバー攻撃の可能性もある。

 

「いや、しかし……クリプラントはマナによる魔法技術が発達していると聞いたが、我が国の伝達系統を乗っ取る程に科学技術が発達しているとは到底思えない……だとすると、」

 

だとすると、ジェロームは窓ガラスに微かに映り込む自分の姿をジッと見つめて口にした。

 

「俺が、寝ぼけて撤退させた……とか?」

「ジェローム。お願いだから現実逃避するのはよしてくれないか?」

「……ハルヒコ」

 

いつの間にか傍に立って居たハルヒコに、ジェロームはキョロキョロと周囲を見渡した。どうやら、ここに居るのはハルヒコと自分だけのようだ。

 

「ジェローム。そんな親に置いて行かれた子供のような顔をしないでくれよ」

「だって」

 

ハルヒコしか居ないと分かった途端、ジェロームの口調が一気に幼くなる。先程までの元帥としてのジェロームは一気にナリを顰めた。

 

「いや、もう……一体何なんだ。何故、俺の代はこんなに不測の事態ばかり起こる?俺はもう胃に穴が空きそうだ。俺は何か悪い事でもしたのか?」

「いいや。あとで、胃薬でも持ってこさせようか」

 

気休めにすらならないハルヒコの言葉を聞きながら、ジェロームは肩をすくめながら「そうしてくれ」と冗談に乗っかるしかなかった。

 

「なぁ、ハルヒコ。まだ、何も情報は入らないか」

「一つだけ音声データを入手したよ。砦の指令室の機器系統にハッキングさせてもらった」

「っ!何だ!何か分かったのか!?」

「しかし、他の人間が居る前で……ちょっとコレは流せそうもない。ジェローム、頼めるかな?」

 

ハッキリとは口にされないものの、ハルヒコからの明確な意思を汲み取ったジェロームは呼吸を深く吸い込んだ。

 

「これより緊急の場合を除き、外部からの入室を禁ずる。同時に、この部屋の全ての監視機器を休止状態に移行せよ」

 

殆ど一息で言い切ったジェロームの言葉に反応するように、部屋の扉に点灯していた黄緑色のランプが赤色に点灯する。これで、この部屋は一時的に外部からの干渉を一切受けなくなった。

 

「これでいいか?ハルヒコ」

「ありがとう。これを聞いてくれ」

 

そう言ってジェロームの前に、ハルヒコが差し出したのは小さなメモリカードだった。ハルヒコはそれに人差指でソッと触れると「再生」と小さく呟く。それと同時に流れ出てきた“声”。その声に、ハルヒコはチラとジェロームの方へと目を向けた。

 

≪――我が名はジェローム・ボルカー。リーガラント国元帥である≫

 

「これは……?」

 

ジェロームの瞳がこれまで見た事ないようなレベルで見開かれるのを、ハルヒコは少しだけ愉快な気分で横目に見る。いや、この気持ちも完全に現実逃避の一環だ。ハルヒコ自身も最初にコレを聞いた時、同じような顔をしたに違いないのだ。

 

≪緊急にて伝令す。皆の者。良く聞け。この時刻を持って軍事演習を一旦停止!各自装備をまとめ、直ちに祖国へと戻れ!≫

 

「……俺の声か?いや、まさか」

 

戸惑うジェロームを嘲笑うかのように、朗々と響くその自信に満ちた声。それは完全に普段演説を行うジェロームの声そのものだった。

だからこそ、ハルヒコは他の人間に情報を出す前に、ジェロームの意見が聞きたかった。本人がコレを前に、何をどう口にするのか。

 

真相を究明するのはそこからだと思ったのだ。

 

≪全軍撤退せよ!≫

 

「……」

「どうだい?ジェローム。コレを聞いて、キミはどう思った?」

 

黙りこくるジェロームに、ハルヒコは再生を止めたメモリカードを手に取ると、そのまま親指と人指し指に力を込めた。パキンと、カードが割れる乾いた音が二人の耳に響く。わざわざデータをこんなひと時代前の遺物に残したのも、証拠を物理的に隠滅する為だ。

 

このデータは、今後の動きを決定する前に他者の手に渡ってしまっては危険極まりない。

 

「……」

「ジェローム?」

 

俯いたまま黙り込むジェロームに、ハルヒコは体を折ってその顔を覗き込もうとした。すると、覗き込む前にジェロームは酷く真剣な顔をハルヒコへと向けてくる。

 

「ハルヒコ」

「っ何か思い当たる節でもあるのか!?」

 

部屋でのんびりしている時にはフワリとしたクセ毛であるジェロームの髪は、今やワックスでカチカチだ。その髪型は、今のジェロームの真剣な顔に良く似合っていた。

 

「やっぱり、俺が寝ぼけて全軍を撤退させたんじゃないだろうか……」

「……ジェローム」

「……」

「……」

 

黙り込んで互いを見つめ合う二人。もうこの緊急事態の中、国の行く先を指し示す二人の若者は互いに現実から目を背けた。

 

「……もうイヤだ」

「胃薬を持って来させよう」

 

ジェロームが震える声で「たのむ」と言ったのを、ハルヒコは共に肩を落としながら聞き入れるしかなかった。