俺の声が聞こえる。
「お前が指定してきた時間だろうに」
「悪い悪い。腰の悪い田舎者が一緒だったんでな。つい」
チラと俺の方を振り返りながら、いつもの憎まれ口を叩くエイダ。ただ、そんな言葉に俺はもう反応しなかった。いや、出来なかったと言った方が良いだろう。なにせ、俺は“その声”に、完全に意識を持って行かれてしまっていたからだ。
店の奥から聞こえてきた声の主の姿はまだ見えない。丁度、観葉植物の向こう側に居るせいで、顔が隠れてしまっているのだ。
「……ふう」
一息つく。やっぱり少しだけ緊張している。そりゃあそうだ。初めて会う相手なんて、それが誰であれ最初は緊張してしかりだ。
喫茶店の中は、全体的に古い木で側壁を覆われており、薄暗く深い茶色で統一されていた。左手にはカウンター席があり、その奥では白髪の老人が新聞のようなモノを読みふけっている。客が来たにも関わらずチラリと此方を見ようともしない。なんだか酷く偏屈そうだ。
「マスター。コーヒー二つよろしく」
「……」
エイダがカウンターに向かって軽く声を掛けた。店内には俺達の他に客は居ないようだ。閑散としている。にも関わらず、店主はエイダの声に、ピクリとも反応を示さなかった。これはちゃんと聞こえているのだろうか。
ただ、エイダはそんな店主の反応など気にした風もなく、店の奥にある両側がクッション席となっている場所に向かって歩き出した。それと同時に、なにやらもう一つ別の声が聞こえてきた。
「ジェローム。コイツに今更時間についての説教なんかしても同じだ。そもそも、コイツには“時間”なんて感覚は皆無だからな」
なんだか非常に深みのある声だ。表面上はアッサリした耳残りのない声にも関わらず、何故か声の二重底のような底の見えなさを感じてしまう。初めて聞く声だ。
「うまいな……」
他人の声に対し「上手い」なんて唸ってしまう自分に、俺は一拍遅れて肩をすくめた。まったく、俺は一体今どこに居るんだ。こっちの世界か?あっちの世界か?わからない。
すると、そのタイミングで濃いコーヒーの匂いが更に部屋の中へと立ち込めた。
カウンターを見ると、先程まで岩のように反応の無かった店主が、静かにコーヒーを淹れる姿があった。なにやら、透明なガラスの球体に向かって下から直火を当てている。なんだか、面白い光景だ。
そう、一瞬カウンターに意識を奪われかけた俺を引き戻すように、店の奥からはテンポの良い会話が聞こえてきた。
「ハルヒコ、お前の言う通りだな。エイダはハーフエルフで、俺達とは時間の感覚が違うということをついつい忘れかけてしまう。いけないな」
「エイダが時間にルーズなのはハーフエルフだからじゃない!コイツの人間性の問題だ!」
「ふふ。ハルヒコ、エイダは人間じゃないぞ」
「ジェローム!何をしてやったりみたいな顔で言ってるんだ!やっぱり、髪の毛はセットしてくるべきだった!会話のテンポが、まるっきり自宅のソレになってる!」
「いつもの格好になったら、外で知り合いにバレるかもしれないだろう」
「いや、その姿は決して変装にはなっていないからな!?……まったく。これだから、本部で正式に会談の場を設ければ良かったんだ」
「本部は……嫌だ。周りの目が気になる」
「ジェローム……」
近しい友人同士のような軽妙な会話のテンポが、俺の耳の中にスルリと入り込んでくる。
何だ?これが、ジェローム?俺の知っているジェロームとはまた少し違う気がする。
「ジェロームは……堅物寄りな俺様キャラだった筈じゃ。そう、仲本聡志は……」
思った。
と、セルフナレーションを言い終わる前に、俺はハタと思い至った。そんな事、今更じゃないかと。
『サートーシー!あもを喋らせろー!お話をしろー!イーサの言う事を全部聞けー!』
初めてイーサの事を知った時も、俺は同じ事を思った。
そりゃあそうだ。キャラクター紹介に書いてある、たかだか二~三行の説明文だけで一人の人間を表すなんて不可能だ。俺だって、自分の事を一言で説明しろなんて言われたら、きっと無理に違いない。
「っふふ。まぁ、イーサはある意味俺様キャラ……いや、我儘な王子様キャラ、かな?」
「サトシ。ブツブツ言ってないでコッチ来いよ。もう寿命か?耄碌したのか?」
「しつこいな。まだ死なねぇって言っただろ?」
「それもそうか。まだまだイーサとヤりたい盛りだもんな?日の高いうちからイーサイーサって。発情期かぁ?」
「うーるーせーな!エイダ!お前っ、ほんっとうるせー!黙れよ!」
ニヤついた表情で此方を振り返ってくるエイダの姿に、俺が思わず大声を上げると、それまで奥の席から聞こえていた二人の声がピタリと止んだ。
「この、声……まさか、本当に。こんな事が本当にあり得るのか?っおい、ジェローム!待て!座ってろ、危ない!」
ガタリと誰かが立ち上がる音がした。
そして、ジェロームを制止する声が店内へと響き渡る。ただ、その制止に相手は一切従わなかった。何故なら、そう。今、俺の目の前に初めて見るけど、初めてじゃない人物が立っていたからだ。
「……おまえ」
「う、わ」
目の前に居たのは、台本と共に手渡されたキャラクターデザイン書の中に居た男。ただ、その見目は厳しさよりは優しさの方が前面に現れた顔立ちをしている。クルリと柔らかく癖を伴った髪の毛のせいだろうか。何だか、甘い印象を受ける顔立ちに見えた。
ハッキリ言って、相当格好良い。そんな格好良い男の口から漏れる声は……。
「……ジェローム・ボルカー」
「サトシ・ナカモト」
俺の声が、俺を呼ぶ。きっと、向こうからしたら自分の声が自分を呼んでいるような感覚だろう。でも、俺はその瞬間、腹の奥底から湧き上がってくる熱い気持ちの奔流を、せき止める事が出来なかった。
「はは、すげぇや」
「は?」
戸惑いを帯びた俺の声が聞こえる。
あぁ、そうだ。これは俺の声だ。間違いない。「は?」って、まさにそう。俺はこんな風に、語尾を上げて、でも収束に向けて音程を落とすように発音する。これは、俺の癖だ。自覚がある。だって、中里さんがこんな風に発音するから、格好良くて真似してたんだ。
そしたら、いつの間にか移ってた。そう、これは俺の「は?」。俺の声。
「はは、すげぇ。やばい」
「おい、大丈夫か」
録音したものではない、機械音を通さない自分の声。
でも、普段の俺の声とは違って“演技”をしている時の声だ。声を吐き出した後の呼吸の間なんかも、まさに俺の癖のままだ。なのに、自分ではない人間の口から漏れ出る。そう、まるでそれは――。
「あにめ、みたいだ」
「え?」
「おれの、こえが。ほんとに、べつの人生の中に入った」
大きめのゆったりとした上着を見に纏い、首を傾げながら此方を見てくるジェロームという男を前に、俺は震える声で吐露するように言った。
「おれ、ちゃんと……選ばれてたんだ」
イーサにはなれなかった。
でも、俺は太陽と共に手にしたモノが、ちゃんとあったようだ。