210:世界の狭間、ばあちゃん家

        〇

 

 

 喫茶店なんて、いつぶりだろうか。

 

 エイダが誘うように開けてくれた扉の向こうからは、深みのあるコーヒー特有の芳香が漂ってきた。ただ、目の前には地下へと続く薄暗い階段が見える。光に照らされキラキラと輝いていたエイダの朱色の髪の毛が、階段を下る度に深みを帯びた濃い赤色に変化していく。

 

 俺も、一歩店内へと足を踏み入れた。

 

「……仲本聡志は、緊張を和らがせるようにコーヒーの香りを一気に吸い込んだ」

 

 ボソリとセルフナレーションで高鳴りかけた鼓動を落ち着かせる。大丈夫だ。緊張する必要なんてない。だって今から俺は、“友達”を紹介してもらいに行くだけなのだから。

 

「……良い匂いだ」

「なぁ、落ち着くよなー。コーヒーの匂いって」

「うん」

 

 トントントンと、軽やかに階段を下りるエイダの後を追う。階段は幅が狭い上に、一段一段が高く傾斜も急だ。両脇に手すりがあるワケでもないので、降り慣れていない人間はきっと上がるのにも降りるのにも苦労するに違いない。

 

「おい、落っこちて来んなよ」

「誰がこんな階段くらいで落ちるかよ」

 

 エイダが此方を振り向きもせず、憎まれ口を叩いてくる。誰が落ちるか。確かに傾斜は急だし、古い木造の階段は足を踏み出す度に酷く軋むが、そんなの俺は慣れっこだった。

 

「へぇ。強がりじゃないみたいだな。だいたい初めてこの店に連れて来てやると、皆この階段にビビんのにさ」

「……俺のばあちゃんちがこんな感じなんだよ」

 

 そう。毎年夏休みになると親に連れられて遊びに行っていた田舎のばあちゃん家。お盆の前後一週間を過ごすのが恒例だったばあちゃん家の階段と、この店の階段は驚くほど似ていた。傾斜が急な事も、手すりがない事も、体重をかける度に軋む、この木の音も。

 

「懐かしいな」

「へぇ」

 

 本気で懐かしむ俺に、エイダはそれ以上何も言わなかった。すると、どこからともなく掠れた弦楽器のような音が聞こえてきた。同時に、コーヒーの匂いも濃くなる。ここは本当に、あの近未来SFのような都市の中にある店なのだろうか。ここだけ時代も世界も異なっているみたいだ。

 

 それこそ、世界と世界の狭間のようだ。

 

トン。

 

 エイダが最後の階段を下りた。左側に備え付けられた扉へと向き合うと同時に、チラと俺の方を見た。

 

「サトシ、コーヒーは飲めるか?」

「味の違いとかは分からないけど好きだよ」

「ブラック?」

「うん」

「なら期待していい。マジで美味いからな」

 

 そう言って軽く片目をパチンと瞬かせてくるエイダに、俺は一気に肩の力が抜けていくのを感じた。そう、エイダは自分を「クリプラントとリーガラントを繋ぐ使者」なんて、欠片も思っちゃいないのだ。

 エイダにとっては本当に今からの時間は“お茶のひと時”でしかない。「面白い友達が居るんだ、会ってみないか?あ、そうだ。会うのに丁度良い店を知ってんだよ。お前もきっと気に入るさ!」こんな感じだろう。

 

「そりゃあ楽しみだな」

 

 よく見れば、古い木造の扉なんか本当に婆ちゃん家のようだ。俺の婆ちゃん家は、古い日本家屋ではなく西洋風の作りをしていた。そうそう、古い木造のドアってこんな風に日焼けで色あせるんだよ。

 

「……懐かしいなぁ」

 

 別に、不安がる事はない。むしろ、楽しめばいい。俺は今から、ずっと気になっていた友達に会えるのだ。夏休みだけ会える友達。それと同じ。

 

「サトシ、きっとお前はジェロームと友達になれるさ。なにせ」

 

 なにせ、と口にしたと同時にエイダは手にかけていたノブを捻って扉を開けた。その瞬間、一枚戸を隔てていたせいでぼんやりとしていたコーヒーの香りが、ハッキリと俺の鼻孔を擽った。あぁ、良い香りだ。

 カランカランと扉の上部にくっつけられていたベルの音が鳴る。

 

「お前とジェロームはよく似てる。あぁ。声が、じゃないぜ?」

 

 性格がだよ。

 そう、どこか面白がるようにエイダが口にした時には、エイダは踊るような足取りで店の中へと入って行った。その後を俺は慌てて追いかける。ワクワクする。まるで、本当に“ばあちゃん家”みたいだ。

 

——–サトシ、おばあちゃん家なんて行かないで。ずっとオレと居てよ。

 

 ふと、耳の奥で幼い金弥の声が聞こえた気がした。我儘言うな。大丈夫、一週間したら、ちゃんとお前の所に帰るから。

 

 そう、頭の片隅に居る金弥に俺が語りかけた時だ。

 

「遅い」

 

 声が、聞こえた。

 高いワケでもないが、低すぎるでもないその声。どこか融通の利かなさそうな固い声色は、それだけで相手が“頭でっかちな理屈野郎”だと分かった。そう、まるでその声は――。

 

「エイダ、お前ときたらいつも遅刻ばかりだな」

 

 

 俺みたいな声だった。