「さぁ、大枠は決まった。調印するモノが必要なら寄越せ。今すぐ押してやる」
イーサは言いたい事だけ言うと、机を挟んだ向こう側に座るジェロームに対し、掌を子供のように開いて差し出した。まるで、「ほらほらほらほら!」とでも言うように、ズイズイと手をジェロームに向かって押し付けていく。
やめろ!ジェロームが困ってるじゃないか!
「あ、いや。まってくれ、イーサ」
「ああ、さすがに今は何も持ち合わせがない。決定事項の文書の作成も要る。調印に関しては後日、正式に場を設けよう」
まるで子供がお菓子を強請るようなテンションで差し出された掌に、ジェロームの隣に腰かけていたハルヒコが急いで制止に入った。まぁ、そりゃあそうだろうな。
しかし、いくら制止されてもイーサは止まらない。完全にイーサのペースだ。
「後日とは、いつだ。あと、場所は?提案しろ」
「あ、いや。そうだな……」
口ごもるハルヒコに、イーサは更に畳みかける。
「決められないのか?だったら俺が決めてやる。では三日後、今度はお前らがクリプラントの王宮に来い。お前らに足を運ばせる代わり、我が国ではお前らを最高位の国賓として迎え入れよう。これでいいか?」
「い、いや、待ってくれ。三日は早すぎる。一週間くれ。それだけ貰えれば、場所はそちらでいい」
これまで何度も目にしてきたが、やはり凄まじいスピードで物事が決まっていく。
そう、イーサも鼻から「三日は絶対に無理だろう」という想定の元、ハルヒコに提案を持ちかけているのだ。そうすると、最も「無理」な部分だけを、相手はとっさに訂正し、結論を出す事が出来る。時間と場所を決めるだけの事に、熟考しても仕方ないと考えるイーサの思考が透けて見える決断の仕方だ。
「よし、決まりだな」
「あ、おい。まだ他に……」
イーサはハルヒコからの返答を封じるように、テーブルの上に用意されたコーヒーに手を伸ばした。もうその話は終わりだと言わんばかりの態度に、ハルヒコは困ったように肩をすくめつつも言葉を止めた。最早何を言っても無駄だと悟ったのだろう。理解が早い。
すると、すぐその脇からそれまで完全にイーサのペースに乗せられていたジェロームが少しばかり心配そうに口を開いた。
「なぁ、イーサ」
「……なんだ」
イーサはコーヒーを口にしながら逸らしていた目をチラとジェロームへと向ける。イーサは、ジェロームだけは無視しない。それは相手が対等な立場を持つ者だから、というより……“俺”に似た声で名を呼ばれて無視しきれない、という理由が大きいだろう。
「確かに、大枠は決まった。しかし、ウチもそうだが……其方は今後、より大変なのではないか?」
「何がだ?」
「国民もそうだが、臣下にも説明が要るだろう。特に、そちらは人間への差別感情も酷いと聞く。そういった諸々の事情を考慮しても一週間は短過ぎやしないか?今後イーサはうちよりも相当な苦労を伴うだろう」
ジェロームの心配は最もだ。
イーサはこうして現状、“一人”で好き勝手決めてしまっている。ジェロームのように隣に相談役としての実行者が居るワケでもない。
いや、まぁ確かに“あも”は居るが……と、そんな風にふざけている場合ではない。
俺自身、人間としてクリプラントで生活をしていたのだから、身をもって実感している。長年、エルフの中に培われてきた“人間への差別感情”は絶対にすぐには無くならない。むしろ、国民の感情を無視すれば大きな反発が起こるかもしれないのだ。
——–おら!早死に野郎!さっさと走れ!ノロノロしてると死んじまうぞ!
——–もう喋るな。汚らわしい人間が。
——–短命ご苦労さん。頼むから、長生きしてくれよ。
それがいくら、エイダの言うように“愛する恐怖”から始まったエルフ側からの自己防衛だろうと、行きついた先は結局“差別”と“迫害”だ。その辺を、引きこもっていたイーサはよく理解していないのかもしれない。
なにせ、人間の俺を「好き」だというくらいだ。分かってないに決まっている。
「我が国としても、すぐにこの結論の通り国政を進めたい。しかし、そちら側が直前になって国をまとめられず無理だった、となっては此方としても困るのだ。国民を混乱させる事になるからな」
「ふむ……そういえば、リーガラントは民の意見を募って政を行うのであったな」
「そうだ。俺は民から選ばれた代理者に過ぎん。でも、それは王政とは言え、クリプラントも同様では……」
「同様なわけあるか」
ジェロームの言葉に、イーサがピシャリと言ってのける。その声が、なにやら今までのイーサとは少し異なり、俺もジェロームも思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「国民の差別意識?臣下への説明?馬鹿な事を」
イーサは手にしていたコーヒーのカップを置くと、空いた手であもへと手を伸ばした。そして今までのようにあもを撫でるのかと思いきや、その手が触れたのはあもではなくそれを抱える“俺”の方だった。
「俺は王だ。そもそも多少時期を延ばしたとして、差別感情が無くなるワケがない。民からは不満が出るだろう。臣下も納得がいかぬと喚く者が出るだろう。しかし」
「っぁ!」
俺は肩を抱かれ、体ごとイーサに預ける形になっていた。イーサの手が可愛がるように俺の顎の下を撫でる。背中がにピリとした稲妻のような感覚が走る。そう、これは“気持ち良い”だ。
「俺がサトシを愛しているんだ。王の言葉に反する者が居れば、首を刎ねるだけの事。それが“王政”というものだ。ジェローム」
「でも、そんな風に、民の声をないがしろにしていては、決して良い政治にはならない。そんな事をしていては……イーサ、お前が首を刎ねられるぞ」
首を刎ねる、なんていう物騒な言葉に俺は息を詰まらせる。イーサが?誰に?
しかし、そんな少しの現実逃避すら許さない。なにせ、イーサの美しい手が俺の首を優しく撫でるのだから。確かに、横暴な政治を繰り返していたら、いつか絶対にイーサが首を刎ねられる側に回る事になるだろう。それをするのは、民であり臣下である。
「いーさ」
「なぁ、サトシ」
俺の呼ぶ声に、イーサは俺の方を見た。未だにイーサの手は俺の首を撫でる。優しい。熱い手だ。イーサはジェロームのしてきた問いの答えを、どうやら俺に返す事で全ての問いに答えるつもりらしい。
「イーサは、きっと“良い王”にはなれない。それは、先代が……ヴィタリックが完璧にやってしまったからな」
「……そんな事は」
「無理なんだ。きっと、民は父とイーサを比べる。だから俺は決めた」
イーサの金色のガラス玉のような目が、ハッキリと俺を捉えた。
「イーサは、サトシに格好良いと思って貰えるような王になる」
「っ!」
その瞬間、イーサの顔に浮かんだ笑顔に俺は胸を締め付けられたような気分だった。イーサは、俺の為に王になる。そう、格好良い王になろうともう決めている。
——–ねぇ、サトシ。
幼い金弥の声が聞こえた。いつもみたいに甘えたような声じゃなくて、その時の金弥の声は少しだけしっかりしていた。
——–きんくんも、アニメみたいに、かっこうよくなったら、きんくんのこと、もっと、すきになってくれる?
そうだ、思い出した。
その日から、金弥は自分の事を「きん君」と呼ばなくなったんだ。「オレ」って言うようになって、アニメの主人公みたいにハキハキ喋って、困っている人は助けて、何があっても笑い飛ばして、俺の好きな……ビットみたいになったんだ。
——–サトシー!オレ、格好良かったー?
「格好良いモノはきっと皆も好きだろう?そういうヤツの声は聴きたくなるだろうし、従いたくなる筈だ。だから、イーサは民の声を聴く優しい王ではなく、サトシに好きになって貰えるような格好良い、声を届ける王になるのだ」
「イーサ……」
俺は腕の中に居たあもに顔を埋める。すうっと呼吸を吸い込むと、あもからはやっぱり太陽の匂いがした。
「イーサ、お前。もう、格好良いよ」
「そうか?」
「うん……だって、やっぱり俺は」
イーサ、お前になりたかったんだから。
俺のくぐもった声を、イーサが聴きとってくれたかは分からない。しかし、いつの間にか俺の体はイーサの腕の中にすっぽりと納まり、まるであもにそうするように俺の頬にイーサの頬が触れていた。
太陽の匂いがする。俺の大好きな匂いだ。
こうしてリーガラントとクリプラントの未来を決める……お茶のひと時は静かに幕を閉じたのであった。