3:最終幕の舞台裏

 

 

≪最終幕≫

〇地下牢・右端から三番目の独房(夜)

 

◇鉄格子の向こうからは楽しげな兵士達の声。

◇微かに漂う酒の香り。

◇その香りに鼻を鳴らす、俺こと、マルセルこと、

 

 

「ん?これはバーボンか」

 

 吉川一義。

 

 俺は冷たい独房の中にある固いベッドに横たわりながら、深く息を吸い込んだ。固い天井には、長い年月を経て出来たであろうシミの数々。それを無意味に数えていると、馴染みのある香りがツンと鼻孔に染みわたった。

 

「兵士達への振る舞い酒がバーボンとは。良いセンスをしているじゃないか、ゲルマン。さすがは、俺の子だ」

 

 鼻につく懐かしい香りに、俺は心底誇らしい気持ちだった。

 

 ここまで、そりゃあもう長い道のりだった。

 吉川一義、ことヨシカワイチギ。いや、今はもう“マルセル・ギネス”か。愛しい我が子の一人となった俺は、城内にある薄暗い独房の中で、ただ静かに、いつか訪れる死の瞬間を待っていた。その手には一冊のノート。そして、万年筆がある。

 これだけは無理を言って持って来て貰った。いつ死刑が執行されるのか分からない以上、少しの手慰みくらいは無くてはやっていられない。

 

「最終幕の様子を自分で見られないのは残念だが……まぁ、いい」

 

 そして、今日は俺の書いた脚本のラスト。

 ゲルマンとマドレーヌの結婚式の日だ。これが本当の最終幕。悪役の居なくなった後の幸せな世界。最高のハッピーエンドである。

 

「……まったく、良い人生だった」

 

 思わず口を吐いて出る。

 その声は、吉川一義の時のように掠れていない。ノートとペンを走らせる手も、あの頃の俺のように深い皺が刻まれる事もなく、真っ白な艶のある肌が、若さをほとばしらせている。マルセル。この子も、俺の産み出した愛しい我が子だ。決して“ルマセル”なんかではない。

 

「可愛いマルセル。よくやった。君も立派な俺の息子だ。俺は君になれて誇らしいよ」

 

 俺は自らの体を抱き締めるように丸くなると、静かに思考を巡らせた。

 

 俺の描いたマルセルという人物は、決して“人で無し”などではない。

 マルセルもただの人。普通の若者だ。

 

「うん、そうだな。マルセル。その通りだ」

 

 他者を羨み、自分に無いモノを強請る。好きな女の子に恋焦がれ、一度くらい自分も舞台のスポットライトの下に立ちたいと願った。その心の歪みと拗らせた強い思いが、親友へと牙を向いた。ただ、それだけ。

 それが、俺の描きたかったマルセル・ギネス。物語の中では悪役となってしまったが、俺は彼の人生を曲げる事なく描ききった。

 

「でもまさか、酔っぱらって目覚めたら幼いマルセルになっているなんてな」

 

 若々しい自身の掌を天井にかざす。やはり、綺麗な手だ。

 

 そう、俺はずっと長い夢の中に居るのだ。

 我が子を否定され、悔しさの余りヤケ酒をして目を覚ましたら、自分の書いた脚本の中に居た。しかも、その存在そのモノを変えられようとしていた悪役“マルセル”として。

 

 

 それは、本当に唐突で、何の前ぶれもなかった。

 

 

≪回想幕・幼少期≫

〇コンブレー学院・小等部中庭(昼)

 

◇晴天の中庭。気持ちの良い風が吹き、遠くに鳥の鳴き声。

◇その場に茫然と立ち尽くす俺、こと――。

 

『……っ!』

 

 そう、俺は目覚めると見慣れぬ美しい中庭に居た。

 文句のつけようのない程澄み切った空の下、遠くからは聞き慣れない異国の鳥の声が聞こえてくる。頬に触れる柔らかな風は、心地よく春の温かさを運んでいた。

 

『こ、ここは……?』

 

 最初はさすがに混乱した。なにせ、薄暗い書斎で寝ていた筈が、急に真っ青な青空の下に立って居たのだ。驚かないワケがない。

 しかし、次の瞬間俺はすぐに理解した。

 

『どうした?マルセル』

『え?』

 

 すぐ傍に居た美しい少年が、俺を「マルセル」と親しげな声で呼んでくれたからだ。

 

『ゲルマン?』

 

 とっさに口にした名前に、その美少年は口元に優しい笑みを浮かべて俺の眉間を指で弾く。

 

『なんだ?まだ寝ぼけてるのか。このねぼすけめ』

 

 それは、まさしく俺の書いた台本通りの台詞と動きだった。授業をサボっては青空の下で眠りにつくマルセルを、ゲルマンはいつもこうやって迎えに来てくれていた。幼い頃から、ゲルマンは真面目で正義感が強く、そして優しい子だった。

 

 なにせ、決して何かに秀でた技能や見た目を持つワケでもない“マルセル”に、皇太子であるゲルマンは、一切の分け隔てなく接してくれたのだ。ただ、学院での席が隣同士だった、それだけがきっかけで始まった二人の関係は、いくら年を重ねても消える事はなかったのである。

 

『ゲルマン』

『ん?どうした、マルセル』

『ゲルマン、ゲルマン、ゲルマン……!』

 

 まだまだ幼いゲルマンの姿に、俺は歓喜した。

 客にはウケないからカットしろと言われた彼らの幼少期。しかし、何故だか分からないが俺はマルセルとして、望み通りの物語を紡ぐための入口に立って居るのだ。俺は、彼らの本来の生き様をこの目で余すところなく見届けられる。

 

『どうした?こわい夢でも見たのか?』

『うん……でも、ゆめだった』

『珍しいな。お前がそんな顔をするなんて。で、どんな夢だったんだ?』

 

 悪夢でも何でもいい。夢なら覚めないでくれ。そう、強く願いながら俺はゲルマンの金色の瞳を見つめ、言った。

 

『ゲルマンが居なくなる夢』

『オレが、居なくなる夢……?』

『そう、お前が……どこにも居なくなる、ところだったんだ』

 

 震える俺の言葉に、ゲルマンは不思議そうに目を瞬かせた。まだまだ成長前の、天使のような可愛らしい姿の彼。とても愛おしくて堪らない。

 

『なんだ、ソレ』

『でも、夢だった。お前はちゃんと傍に居てくれた……消えずに、ここに』

『え?』

 

 迷子になっていた我が子を見つけ出したような安堵感を抑え切れぬまま、俺は幼いゲルマンを抱き締めた。こんな場面、俺の書いた脚本には無い。無いが、少しくらいは許して欲しい。

 まさか、日の目を見る事なく終わってしまう筈だった彼らに、こうして直接会える日がこようとは思わなかった。

 

『ゲルマン、生まれて来てくれてありがとう。キミに会えて本当に良かった』

『っ!』

 

 耳元でゲルマンの息を呑む声が聞こえた。突然、同い年の親友にそんな事を言われるなんて、驚くのも無理はない。でも、言わずにはいられなかったのだ。

 

『ゲルマン、愛しているよ』

『まる、せる……?』

『お前は、オレが絶対に幸せにしてみせる』

『……』

 

 ゲルマンを幸せにする。必ず、この子を俺の描いた幸福なラストへと導いてみせる。

 

 その日から俺は物語を脚本通りに演じる為だけに生きた。例えそれが、俺の演じる“マルセル”の最悪のラストに繋がろうとも。

 自身の紡いだ物語にこの身を捧げられる事。それは脚本家にとって最上の喜びなのだから。

 

 

≪最終幕≫

〇地下牢・右端から三番目の独房(夜)

 

 

◇無礼講で振る舞われた酒に楽しげな声を上げる見張りの兵士達。

◇固いベッドの上で、手帳に新しい台本の執筆をする俺、ことマルセル……いや、今はどちらかと言えば、

 

 脚本家、ヨシカワイチギ。

 

 

「次の舞台はどうする?西洋か、それとも現代日本か?登場人物は?主人公にはどんな葛藤をさせる?」

 

 ぶつぶつと独り言を紡ぎながら、俺はベッドの上で胡坐をかきながらサラサラとペンを走らせた。

 貴族として生きてきたマルセルには考えられないような行儀の悪いポーズである。しかし、もう良いだろう。この“マルセル”は役割を終えた。今、ここに居るのはバーボンの香りで、頭がハイになった脚本家、ヨシカワギイチだ。

 

「あぁ、忘れちゃいけない。今度の悪役はどうする?主人公にどんな絶望と葛藤を与える?あぁ、やはり幸福の後の絶望が最も美酒だ。すばらしい。そう、そうだ。やはりその流れは譲れない」

 

 独り言も、走るペンも止まらない。完全にライターズハイの状態だ。

 まぁ、そうなるのも仕方ないだろう。俺は執筆の時、いつも酒を傍らに置いていた。執筆の手が止められなくなる“ゾーン”に入る瞬間は、いつもこの香りと共にあった。まるでパブロフの犬のように、俺は独房に充満するバーボンの香りにつられて、新しい脚本を書き始めてしまっていたのだ。

 

「はぁっ、良い香りだ……」

 

 酒の匂いを嗅ぎながら目を閉じると、瞼の裏にハッキリと浮かんでくる。そう、俺が今居るこの場所は独房なんかではない。大量の可愛い子達を産みだしてきた、あの仕事部屋だ。

 

「あぁ、こういうのを何て言ったか……」

 

 特定の香りから、それにまつわる過去の記憶を呼び覚ます心理現象。そう、これを確か。

 

「プルースト現象だ」

 

 ハイになった頭は、あちこちへと思考を飛ばし始めていた。しかし俺の手はその中でも物語を紡ぎ続ける。止まらない。今、新しい我が子を産みだしても日の目を見せてやる事は出来ないというのに、まったく俺は愚かな父親だ。

 

「あぁ、ちくしょう。酒が飲みてぇな」

 

 思わずオヤジの本音が漏れる。

 これまでマルセルとして生きてきた人生で、内の内に隠してきた強い欲望。

 

 酒が飲みたい。飲みたくてたまらない。

 躾に厳しい貴族の家系で育った未成年のマルセルには、酒を飲む機会など一度も無かった。酒の匂いだけでハイになってしまってはいるが、本当はあの兵士達のようにグラスに注いで、喉を鳴らしてアルコールを飲み干したい。飲んだ瞬間、カッと体が熱くなる。あのアルコール特有の感触が忘れられない。

 

 そうやって、抑え切れない欲望に突き動かされるかの如く夢中で新しい子供達を生み出している時だった。

 

 

「マルセル」

 

 

 声が、聞こえた。