237:裏切らなかったラスボスと、偉大なる王様の一部

 

        〇

 

「あ」

 

 血は水よりも濃いって、本当に言い得て妙な言葉だと思う。

 

「あ、貴方は」

「あ、キミは」

 

 すれ違う俺に向かって、全く同じような顔で声をかけて来たのは、薄い青色の髪を靡かせる宰相親子、カナニ様とマティックだった。

 

「あぁ、サトシ。今からイーサ王の寝室に向かわれるのですか?」

「うん、イーサに来いって言われてたから」

「そうですか……お勤めご苦労様です」

「いや、お勤めって言うな」

「え、何故ですか?何か問題でも?」

「……いいや」

 

 明らかに含みを持たせたような口調でそんな事を言ってくるマティックに、俺はヒクリと眉を潜めた。

 

 そんなマティックの後ろには、月明かりに照らされ豪華絢爛に咲き乱れる花々が見える。ここはイーサの寝室に向かう為に、何度も何度も通って来た中庭だ。城から漏れ出る光と、月明かりによる光のお陰で、この場所だけはいつもキラキラと輝いていた。

 

「他の誰にもこなせぬお勤めですよ。自信を持ってください」

「いや、別に自信喪失してたワケじゃねぇし。つーか、お勤めお勤め言わないで欲しいんだけど」

「じゃあ何と?夜伽ですか?」

「もっとヒドイわ!」

 

 それなのに、マティックときたら。こんな綺麗な花畑で一体何を言ってくれてるんだ。勘弁して欲しい。

 

 月明かりに照らされたマティックの笑顔は、その声の威力もあって非常に何かを企んでいそうに見える。最後の最後で、何かしらの大どんでん返しをしてきそうな、そんな期待感を覚えてしまう、その独特の声質。

 

 声の力だけで、物語の行く末にすら聞き手によからぬ示唆してくるのだから堪らない。やっぱり岩田さんによって、幼い頃に植え付けられたトラウマは凄まじいという事だ。

 

「やっぱ、ゴックスのトラウマは消えないな」

「ん?何ですって?」

「いいや、何でも」

 

【自由冒険者ビット】で、主人公のビットを裏切った、岩田さん演じるゴックスの兄貴。そんな兄貴の放った“裏切りの台詞”を、俺は未だに忘れられないのだ。

 

『信じるだけの馬鹿に、自由なんて手に入るかよ』

 

 岩田旭さん、貴方のあの時の演技は本当に凄かったですよ。今でもトラウマです。

 俺が、クスクスと楽し気に笑ってみせるマティックを前にそんな事を思っていると、今度はその脇から、なんとも渋くて理知的な声が聞こえてきた。

 

「サトシ君。丁度良かった。イーサ様は現在、癇癪を起していらっしゃる。早く行って差し上げなさい」

「え?そうなんですか」

 

 カナニ様の言葉に、俺は思わず目を見開いた。

 まったくイーサときたら、明日は戴冠式だというのに一体何をそんなに腹を立てているのやら。部屋に行って、まずは話を聞いてやらねば。

 

「しかし、キミが来てくれたのであれば安心だ。今晩は頑張ってくれたまえ、サトシ君」

「いや。カナニ様、それは……」

「ん?何か問題でも」

「……いいえ」

 

 ここで「頑張ってくれたまえ、サトシ君」も、なかなか含みのある言葉だ。俺の純粋な気持ちでお願いした𠮟咤激励を、こんな下世話な意味とニュアンスを込めて言わないで欲しかった。しかも、こんな品のある声を使って。

 

 まったく、中里さんの無駄遣いもいいところだ。ずっと昔から、この声は俺の憧れなのに。中里さんの声に初めて出会ったのも【自由冒険者ビット】だった。

 

『自由は、こんな所で捕まってはいけない。さぁ、行け。ビット』

 

 ゴックスの兄貴によって捕まったビットを、助けてくれたマウント。その時の中里さんの声が未だに俺の心に深く残っている。仲間だと思っていた兄貴に裏切られ、敵だと思っていたマウントに助けられた。

 

 マティック同様、どこか揶揄うような目で「何か言いたい事でも?」此方を見てくるカナニ様に、俺はもう笑って首を振るだけに留めた。

 

 俺は【自由冒険者ビット】というアニメで正義の反対が「悪」ではない事を学んだ。皆、それぞれの中にある「正義」に従って生きている。それを、この二人の“声”でもって、非常に分かりやすく、心の奥底に刻んで貰えたのだ。

 

「……まったく。ありがたい事だよ。そう、仲本聡志は自身に含み笑いを向けてくる二人に腹の底で小さく感謝した」

 

 それにしても、二人して本当によく似た顔で笑うものだ。さすが親子。二人共、ベテラン勢だけあって良い声をしている。俺もいつかはこうなりたいモノだ。

 

「で、なんでイーサは癇癪を起してるんですか?」

「あぁ、それなんですが。貴方からもイーサ王を説得してくださいませんか」

「何を?」

 

 マティックの困ったような声に、首を傾げた。

 

「明日の戴冠の儀に掛かる国民へのスピーチの件です。此方で準備したモノをことごとく嫌がられて」

「あぁ……」

「イーサ王から希望される文言があれば、事前に言ってくださいと言っているのに、それも嫌だとおっしゃられて。此方としては本当に困っているのです」

 

 なんとなく想像がつく。

 イーサは準備されたものを読み上げるという行為自体が、あまり好きではないのだろう。確かに他人の用意した言葉を、ただただ読み上げるイーサというのは、まるでイーサらしくない。

 

「さすがに全国民に向けた言葉です。しかも……ほら、今回は開国の件もある。その場の思いつきで好き勝手話されて、もしも国民に誤解を招くような事があれば、困るのはイーサ王本人なのです」

「まぁ、そうだろうけど」

「サトシ、貴方もイーサ王のスピーチが聞きたいと随分前に言っていたではないですか。どうせなら、立派な姿が見たいでしょう?」

 

 小首を傾げつつ口にされた言葉に、俺は思わず目を瞬かせた。そういえば、マティックに初めて出会った日、そんな事を言った気がする。

 

「よく覚えてるな。マティック」

「ええ、よーく覚えてますよ。私はあの時、貴方が敵か味方か判断しかねている所でしたから」

 

 だから、その声と笑顔でそんな事を言われたら怖いだろうが!

 そう、俺が背筋にゾワゾワとした何かを感じつつマティックの言葉を受け止めていると、スルリとマティックの目が薄く細められた。

 

「……そして、サトシ。貴方も私の事を敵か味方か見定めていましたね」

「あ、いや」

「しかも、自分に対する敵か味方か、ではない。貴方はあの時、既に“イーサ”王に対して私が害を成す者なのか、味方となり支える者なのかを見定めていた」

 

 本当によく見ている。抜け目のない男だ。

 岩田旭さんの声が、まさにピッタリの役。これ以上、マティックを生かせる声は他にないだろう。

 

「私はあの時、イーサ王のスピーチが聞きたいと言った貴方の言葉で、貴方を信じると決めたのです。私に対しては疑いの目を向けつつ、しかし言葉に嘘がないと分かった。だから、よく覚えていますよ」

 

 マティックが一瞬だけ目を伏せる。しかし、すぐに真っ直ぐに此方へと視線を向けると、ハッキリとした口調で言った。

 

「貴方は、信じるだけのバカではなかったようですね」

「っ!」

 

 そう、何の気のてらいなく微笑むマティックの姿に俺は息を呑んだ。それは、幼い頃の俺に植え付けられたトラウマが“マティック”によって塗り替えられた瞬間だった。

 

「あの時、貴方を信じると決めた私の判断は、やはり間違っていなかった」

 

 ゴクリと、喉の奥を唾液が過ぎていく。体が熱い。なんだろう、これは。もしかして、この後、俺は裏切られて牢屋にでも入れられるんじゃないだろうか、なんて。

 

「私は普段はあまりこんな事を言いません。でも、戴冠式の前に伝えておきましょう」

「な、なに」

 

 もうそんな事を思うのは止めよう。だって、マティックは一度だって――。

 

「サトシ、ありがとう。貴方は、この国に素晴らしい王を与えてくれた」

「……マティック」

 

 俺に“嘘”は吐かなかった。裏切ろうとした事もなかったし、いつもイーサの事を思って走り回っていた。

 マティックは、ずっと俺達の味方で居てくれた。

 

「さぁ、サトシ。イーサ様を説得する良い案でも浮かびましたか?」

 

 感極まって涙腺が緩む俺に対し、マティックはこの話はもう終わりだと言わんばかりに話題を変えてきた。声の調子もいつもの飄々としたモノに戻る。

 

「……いいや、全然」

 

 そうだな。マティックの感謝はこのまま胸に仕舞うとしよう。

 

「困りましたねぇ。それじゃあ明日のスピーチは一体どうなる事やら」

「俺は、イーサの自由にさせておく方が良いと思ったよ」

「はぁっ、なんだかそう言われるような気がしてました」

 

 マティックの心労の絶えないといった表情に、俺は「悪いな」と、悪びれる様子もなく言ってのけた。

 だってそうだ。イーサが他人から与えられた言葉を、ただ読み上げるだけなんて「らしく」ない。それに、そんなイーサは全く格好良くないじゃないか。

 

 俺がそんな事を思っていると、カナニ様がマティックの肩を軽く叩いた。

 

「マティック、諦めなさい。イーサ様はどこまで行ってもヴィタリックの子だ。ヴィタリックも此方から与えた原稿など、一度として素直に読み上げてはくれなかっただろ?」

「……確かに。そうでしたね」

 

 へぇ、ヴィタリック王のあの演説も、原稿を読み上げたモノじゃなかったのか。

 そりゃあ、カナニ様も大変だったろう。二代に渡り、王に振り回される親子の姿。その姿はまさに、「血は水よりも重い」を地で体現しているようだった。

 

「王の血脈を不自由に捕まえておく事なんて出来ないのさ。なぁ、サトシ君。キミもそう思うだろう?」

「あ」

「どうした?」

「いえ……俺も、そう思います。カナニ様」

 

 またしても、あの頃のマウントを彷彿とさせる台詞に、俺は胸の奥が疼くのを感じた。あぁ、本当に格好良い。俺が子供の頃からずっと憧れていた声だ。そして、この声は“もう一人”の俺の憧れを形作る声の一部である。

 

「サトシ君、キミはヴィタリックにとても憧れているようだが……アイツもイーサ様と大差はない」

 

 あそこまで酷くはないがな?

 そう、苦笑気味に口にするカナニ様の姿に、俺はこの人がどれほどヴィタリック王を愛しているのか、微かながらに垣間見た気がした。

 

「キミさえよければ、ヴィタリックのスピーチを記録したモノを今度聞かせてやろう。もう会わせてやる事は出来ないが……好きなんだろう。アイツの声が」

「……はい。ずっと憧れでした」

 

 俺が声を震わせてどうする。この中で、最もヴィタリック王が亡くなって身を切る思いをしたのは、他でもないカナニ様なのに。

 

「王蔵に保管してある。落ち着いたら私の所に来なさい。すぐにでも連れて行って」

「いいえ。大丈夫です。カナニ様」

「どうした?」

 

 どこか心配そうな様子で此方を見つめてくる、その優し気な瞳に俺は深く息を吐いた。

 

「カナニ様……。俺は、今も、ずっとヴィタリック王と話してますよ」

「どう言う事だ?」

 

——–クニ。お前は、俺の声の一部だったよ。

 だとすれば、カナニ様の中にも、ヴィタリック王が居る。そう、ずっと居たんだ。

 

「カナニ様。ヴィタリック王は、もう貴方の一部です」

「っ!」

「お陰で、憧れの人に会えました。ありがとうございます」

 

 気休めに聞こえるかもしれない。何を言ってるんだと思われたかもしれない。でも、俺はそう、本気で思っている。

 カナニ様の瞳が大きく揺れた。そして、音もなくカナニ様の手が自身の口元に添えられる。

 

「……サトシ君。私からも、一つだけ言わせてくれ」

「はい」

 

 微かに震える声の中には、きっと様々な想いがある筈だ。

 もう二度と会えない相手への郷愁。その中で自らはまだ、前へ進まなければならない辛さ。でも、少しでもいい。カナニ様にも感じて欲しい。

 

「ヴィタリックの守ったこの国に……」

 

 未来への、希望を。

 

「素晴らしい未来を与えてくれて、ありがとう」

「……はい」

「王に尽くし、国に尽くす。本当は私達がしなければならなかった事を、キミが全て請け負ってくれた」

「は、い」

「サトシ君。キミはよく頑張った」

 

 ポンポンと、軽く腕を叩かれる。

 なんだよ、マティックといいカナニ様といい。なんだよ。なんだよ。せっかく……我慢したのに。

 

「うぅぅっ」

 

「おやおや」

「あらあら」

 

 結局、泣いてしまった。

 だって、こんなに褒められるなんて思わなかったから。俺は両腕で必死に目を擦りながら、出来る限り声を殺して泣いた。それなのに、この二人ときたら。

 

「サトシ、貴方はもっと自分に自信を持っていい。それだけの経験は、ここで山のようにした筈です」

「サトシ君、キミは此処まで来れたんだ。まだまだ、どこまででも行ける」

 

 もうこの二人、絶対に面白がっていた筈だ。だって、最終的に俺は大声で泣いてしまったのだ。認めて貰えた事が嬉しくて。寄り添って貰えた事にホッとして。

 そうして俺が泣き止んだのは、しばらくしての事だった。

 

「まてぃっく。かなに様」

 

 鼻をすすり、目をこする。

 目の前には、同じような微笑みを浮かべて立つ二人の偉大なる宰相親子。この国を支える、縁の下の力持ちだ。

 

「さぁ、そろそろ行きたまえ。あの親子は、あまり“待つ”のが得意ではない」

「ええ、これ以上。戴冠式前に癇癪を起されては困りますからね」

 

 二人の手が、俺の腕を叩く。

 

「はい」

 

 詰まった鼻声で頷く。みっともないけど、この二人の前でならいいか。

 

「サトシ、良い夜を」

「あまり明日に響かぬようにな、サトシ君」

 

 最後の最後になんて事を言ってくれるんだ。「いやいや、だから」と苦笑気味に言いかけて、止めた。そんな事より、俺には二人に言う事がある。

 

「二人共、どうか“イーサ王”をよろしくお願いします」

 

 これまでにない程、俺は二人に対して深く頭を下げた。そんな俺に、二人はどう思っただろうか。二人の息をのむような声が、夜風に乗って流れてくる。そのまま俺は二人が何かを言う前に、次いで声を上げた。

 

「明日のスピーチ、楽しみにしていてください。イーサはきっと立派にこなします」

 

 中里さんの声を飯塚さんが形作ったように、イーサの声もまた、半分は俺が形作る。俺はイーサの一部になるのだ。

 

 明日の戴冠の儀。

 イーサのスピーチは、きっと俺の夢を諦めさせてくれる。