1:天才の日課

 

 

 我が友、カルド・ダーウィングは幼い頃から変わった子供だと、皆から遠巻きにされていた。

 

「先日、学会で発表された【フーガの相対的な価値と今後の展望】という論文を読んでみたが、あれはとてつもなく面白いモノであった。面白いと言っても“興味深い”と言う意味じゃない。もちろん、キミなら分かるだろう。ヨハン?」

 

 カルドは生き生きとした美しい顔を此方に向けると、小首を傾げて俺からの答えを待ってた。色素の薄い銀色の髪は黒い蝶結びでまとめられ、彼の知的な面影を際立たせている。澄んだ青い瞳は、凡庸な筈の俺の姿を映すたび、キラキラとした輝きを増していった。

 

 そんな楽しそうなカルドの姿に、俺は彼から目を離す事なく小さく頷く。

 

「そうだ!あれは滑稽としか言いようがない!なにせ、最も重要なコペルナスの原理をまるで無視しているからだ。あれを素晴らしいと賞賛する者は、マナの基本原則を理解していない者か、はたまた夢の中を自由に飛び回る子供くらいなモノだろうよ。なぁ、キミもそう思うだろう。ヨハン?」

 

 再び頷く。

 すると、頷く俺を見定めた瞬間、カルドはこの世のモノとは思えないほど、無邪気な笑みを浮かべた。次いで、俺の淹れた紅茶に口を付け「この紅茶も大変素晴らしい」と賛辞を送る。

 俺は昔からカルドのこの笑顔がとても好きだった。

 

「あぁっ、さすがはヨハン!私の話をこうも理解してくれる者は、後にも先にもキミ以外居ない」

 

 いいや。俺はカルドの言う事なんて、ちっとも分かっちゃいない。

 彼の言う事は、とにもかくにも難解で、俺のような凡庸な人間には、カルドの思考の先端にすら触れる事も出来ないのである。

 

「なのに、他の研究者達ときたら……」

 

 カルドの口から、溜息が漏れる。俺はと言えば、そんな彼の姿に言葉なく頷き続ける。うんうん、と。

 

「いくら学位があろうとも、中身が伴っていなければ決して意味などないのに。あの学院に居る多くの生徒、そして研究者達は魔化学が何たるたるかを全く理解していない!」

 

 仕方がないさ。キミと比べたらどんな優秀な研究者達の言葉も、虫の羽音のようなモノだろう。そして、キミが素晴らしいと称してくれる俺もまた、カルドの言う「中身の伴っていない人間」の一人に過ぎない。ただ、他の者と違い俺は「羽音」を立てないだけ。

 

 しかし、そんな俺の心の内になど目もくれず、カルドの滝のような勢いの言葉は更に続く。

 

「キミのような素晴らしい人物があの学院に居てくれれば……あ、まってくれ。今素晴らしいアイディアが浮かんだぞ!気象学における、風力マナを用いた遡行理論だ!さぁ、共に情報を整理しよう。キミならきっとこのアイディアの素晴らしさを理解出来る筈だ!」

 

 カルドからの問いに、俺はもちろん微笑んで頷く。すると、俺の頷いた頭が上がりきるより先に、カルドの口から「素晴らしいアイディア」が物凄い勢いで放たれた。

 

 もちろん、ちっとも理解などできない。ただ、俺は今日もこの美しい友の、楽しそうな笑顔に心を満たされるのだった。

 

 

        〇

 

 

 我が友カルドは、希代の天才マナ科学者である。

 彼の生み出した論文や理論が、今日の俺達の生活に与えた影響は計り知れない。天才カルドの出現により、魔科学は数百年先の未来へと一足飛びした、などと言われる程だ。

 

 加えて、その美しい容姿もあり、彼に初めて会う者は皆口を揃えて言う。

 

「天はカルドに二物を与えた」と。

 

 しかし、数刻後。カルドと言葉を交わした後、やはり皆口を揃えて言う。

 

「天はカルドに二物を与える際、代償として一つだけ彼から大切なモノを奪った。それは、“聴く耳”である」

 

 そう、カルドは一切他人の話を聞こうとしないのだ。

 天才故なのか、それともカルドの持つ性格から来るものなのか。ともかく、一方的に自身の思考を投げつけた後、それに対し相手が何か一言でも意見を返そうものなら「喋るな。お前は何も理解していない」と一刀両断する。

 

 その為、カルドには誰も寄り付かない。

 

 対して、この俺はどういった人物か。名をヨハン・グリーン。生業は、しがない翻訳家。海向こうで人気の子供向けの物語の、言語翻訳で僅かばかりの収入を得ている。

 と、語るべくもない程に凡庸な俺が、どうしてこのような美しい天才と仲良くしていられるのか。それは簡単だ。

 

 私が、生まれつき口の利けぬ人間だからである。

 

 ただ、それだけ。

 俺が、カルドを唸らせるような天才的理論を口にするワケでも、何か素晴らしい技術を持っているワケでもない。もちろん容姿も至って凡庸である。

 ただ、カルドが最も嫌がる“余計な事”を口に出来ないからこそ、俺はこうして美しい天才の隣という特等席を、幼い頃から独り占め出来た。

 

「おっと、もうこんな時間か」

 

 夕刻。窓の外を見ると、厳しい冬の夜が深まっていた。最近、日が落ちるのが本当に早い。

 しかし、深まる夜に対し、天才カルドは生き生きと素晴らしい表情で此方を見ている。今日も天才は、世間が聞いたらアッと驚く発見を、何も理解出来ぬ俺に最初に伝えきった。

 

「ヨハン、今日も素晴らしい時間だった。ありがとう。帰るよ」

 

 カルドは壁にかけていた、お気に入りのグレーコートを手に取り、“左手”から袖に腕を通した。俺はと言えば、いつも通り棚の上に置いてある、茶色の帽子を手に取り立ち上がる。この帽子も彼のお気に入りだ。

 

 

 

「あぁ、また明日。ヨハン。良い夜を」

 

 それだけ言うと、カルドは何の余韻も残さず風のように去って行った。そんな友の背中を見送りながら、振り返る事のないカルドに俺は二度手を振る。あぁ、今日もカルドと過ごした数刻は非常に楽しかった。

 

 また明日も楽しみである。

 

 

       〇

 

 

 天才カルドは、自身のスタイルを決して崩さない。

 

 彼の毎日のルーティンは完璧に決まっている。

 まだ日も昇らぬ時間に目を覚まし、そこから数刻、自身の研究に没頭する。そこから学院へと出向き、学生達に授業を行う。授業が終わると、決まった道を、決まった歩幅とスピードで歩き、帰宅する。

 

 その後、彼はやはり同じ時間、決まった道を、決まった歩幅とスピードで俺の家へとやってくるのだ。

 

 カルドの人間離れした機械的な一日の流れに、街の人はカルドを見て時間を把握する。時計を見るより、カルドを見た方が正確な時間が分かるなんてのは、冗談のような本当の話だ。

 

 これはカルドが学院を卒業した十年前から、狂う事なく続いてきたルーティンである。三十を目前にした今も尚、俺はキッチリ同じ時間にカルドが我が家の戸を叩くのを心待ちにしている。

 

『ヨハン。カルドだ。開けてくれ』

 

 その声が聞こえる前から、私は戸の前で従順な犬のように待機して待っている。すぐに戸を開けてやれば、そこには待っていましたと言わんばかりの無邪気な笑顔で、カルドが立ってくれているからだ。

 

『ヨハン、今日も良い日だな。なぁ、聞いてくれよ』

 

 そうやって、毎日毎日。友の口から放たれる知識の海を、俺はぷかぷかと何も理解せぬまま、着の身着のまま浮遊するのだ。これがまた、何より気持ちが良い。

 口も利けず、能力も容姿も凡庸である私は、カルドという美しい天才のルーティンの一部に組み込まれているのが嬉しくて堪らないのだ。

 

 そんなある日の事だ。

 私はとんだ失態を犯してしまった。