3:天才の恐怖

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「っ!」

 

 目覚めた。

 ツンと薬品の匂いが鼻孔を擽る。いつもと違うフワリとした弾力のあるシーツの感触が肌に触れる。

 

 ここは、病院か。

 

「っヨハン様!目覚められたのですね!」

 

 すぐ傍に居た看護師らしき女性が、俺の元へとすっ飛んできた。ヨハン様。なんだ、その呼び方は。もしかして、ここは病院ではなく死後の世界か。俺は死んだのか。

 俺が看護師らしき女性へ視線を向けると、彼女は胸に付けていたマナ機を使って、どこかに連絡を取っている。どうやら、死後の世界ではないらしい。

 

「ヨハン様が目覚められました!カルド様にご連絡ください!」

 

 カルド?

 そういえば、カルドはどうなった?俺は玄関でカルドを見送り……その後どうなった?尋ねたくとも、俺には声が無い。ただ、あったとしても声をかける事は叶わなかっただろう。なにせ、看護師らしき女性は「少しお待ちくださいね」と口にした直後、慌てた様子で部屋から出て行ってしまったのだから。

 

 すると、すぐに医者を連れて看護師は戻ってきた。しかも、一人ではない。大勢だ。なんだ、なんだ。俺は大病かなにかを患ってしまったのか。そう思わざるを得ない程、深刻な面持ちの医者が俺を囲む。

 

「ヨハン様。貴方はこの一週間ずっと眠っておられました」

 

 なんだと、一週間も!

 そんなに家を空けてしまったらカルドは一体どうしただろうか。もしかして、もう既に俺の事など忘れて、彼のルーティンから締め出されてしまったかもしれない。

 

 あぁ、そんな事になっていたら。俺はこの先一体どのように生きていけばいいんだ。

 

 俺が狼狽していると医者は何を勘違いしたのか「命に別状はありません」と付け加えるように言った。どうせなら、別条が合った方が良かった。医者の言葉は続く。

 

「高熱の中、真冬の玄関先で一晩倒れておられたのです。明け方、情報紙を届けに来た若者が倒れている貴方に気付き、病院へと運ばれました。一時、脱水と高熱から昏睡状態に陥りましたが、もう大丈夫です。脈も心拍も安定しています」

 

 そうだったのか。俺はあのまま意識を失ってしまったのか。情報紙を届けてくれている少年に、後から礼を渡しておかなければ。

 

 でも、そこまで聞いて俺はハタと首を傾げた。

 命に別状のない、たかだか熱で倒れただけの俺に、どうしてこんなにも医者が集まるのだろう。よく見れば、この部屋は個室だ。しかも上等の。一体、ここはいくらする部屋なのだろう。

 

 しがない翻訳家でしかない俺の稼ぎで、支払える額だと良いのだが。

 

「ここで一つヨハン様にお願いがあります。もうすぐ、ここにカルド様が見えられます。私達は周囲に控えておりますが、元気な姿をカルド様に存分に見せて頂きたいのです。そしてカルド様を安心して差し上げてください。今後の魔科学の……いや、人類の発展を停滞させない為にも」

 

 もうすぐ、カルドが此処に来る?

 ここは彼のルーティンから外れている筈だ。来る筈がないと思うのだが。俺が信じられず首を傾げていると、病室の入口から看護師が飛び込んで来た。

 

「カルド様がみえられました!」

 

 なんて騒がしい病院なのだろう。

 俺がそんな事を思っていると、先程俺に現状を説明してくれた医者が「よろしくお願いします、ヨハン様」なんて言ってきた。

 なにをどうよろしくすれば良いのかは分からないが、カルドがここに来てくれるというのであれば、それは嬉しい事だ。

 

 俺はコクリと、小さく頷いた。

 意味は分からないが頷く。これは、カルドで慣れている。

 

 直後、再び病室の戸が開いた。

 

「……ヨハン」

 

 そこには、変わり果てたカルドの姿があった。

 

 

        〇

 

 

 一週間ぶりのカルドは、いつもの彼ではまるで無かった。

 

 

「ヨハン……あぁ、ヨハンか。ヨハンがいるな。うん、確かに居る。ここはヨハンの家か?いいや、ちがうな。ここはヨハンの家ではない。あぁ、ここはヨハンの家ではないさ」

 

 銀色の髪の毛はボサボサで、いつもの輝くような青い瞳はなく、その色は酷く淀んでいた。頬はこけ、顔色は真っ青だ。

 ただ、格好はいつも俺の家に来る時の格好をしている。茶色の帽子に、グレーのコート。いや、しかしよく見てみたら、いつも皺ひとつないそのコートはクシャクシャで、何か泥のようなモノで汚れ切っていた。

 

 どうしたのだろう。

 まるで、俺よりも病人のようではないか。どこか悪いのだろうか。それにカルドの口にしている事が、いつも以上に分からない。……いや、でもこれはいつもの事か。

 

「私は、ヨ、ヨハンの家に、いつも、歩いて向かっていた。あぁ、あぁ。そうだな。私はここまで、歩いてきたさ。片足幅四足の歩幅でな。そう、いつもの通りさ。今の時刻は、そうだな。いつもと同じ刻だろう?あぁ、ちがうちがう。そうじゃないな、私は、ヨハンの家へと到着したら、こう言う。ヨハン、きょ、今日も良い日だな。なぁ、聞いてくれよ……」

 

 震える声で「聞いてくれよ」などという彼に、俺はとっさに頷いた。そして、ベッドの脇に彼が近づいてくるのを黙って見守る。近くで見ると、その顔色の悪さが更に際立って見えた。

 

「マナの征透精理論について、お、思いついた、ことが……あって、だ、な。き、聞いてくれない、か」

 

 頷く。

 いつもの流暢で楽し気な語り口調のカルドは、一体どこへ行ってしまったのだろう。カサカサの唇は青白く、微かにわなないていた。

 

「マナの征透精理論は、す、ばらしい論であるが、ひとつ、欠点があるんだ。ヨ、ヨハン、きみなら、分かるだろう?ノームの土属性のマナを、引き上げる事で、地盤を……起こす際に起こる地表との、ズレを……た、正す必要が、あり。そう、キミが、お、愚かな事を、した日を、例に考えて、みると分かりやすいだろう」

 

 頷く。

 俺は、勢いのないカルドの言葉の海の上をプカプカと浮かぶ。いつも通りちっとも分からない。これはいつもの事だ。しかし、いつもと違うのはカルド自身だ。俺はただただ目の前のカルドが心配でならなかった。

 

「あ、あの日。き、きみは、体調が、すぐれなかった。そ、そう、だろう?わ、私は。気付かず、は、話をした。い、つものように。キミが、いつもと様子が、違う、事はわかっていた。た、ただ。それを、見ても、私には、体調が、悪いとは気付けない。な、ぜなら。わ、たしは……たにんの、表情や、挙動などに、興味が、ないからだ」

 

 頷く。

 あれ、これは一体どういう事だろうか。いつもは分からないカルドから与えられる言葉の海が、俺にも理解出来るような気がする。凡庸以下の俺に。そんな事、これまで一度もなかったのに。

 

「わ、私は、き、キミに調子を崩されて、腹を、立てた。ガッカリしたと、時間の、む、無駄だった、とキミに言った。その日は、夜は、あまり、寝付け、なかった。きみの事を、考えて、ねむれなく、なった。そ、れも……腹が立った」

 

 頷く。

 これは、間違いない。よくわからない理論の話ではなく、俺とカルドの話だ。あの日、俺が大失敗をしてカルドを怒らせた、あの日。

 そうか、カルドはあの日眠れない程怒っていたのか。本当に申し訳ない事をした。

 

「ただ。ど、どこかで、キミに会いに、行かなけ、ればと。思う、自分も、いて。そ、その日は、す、すこしばかり、早い時間に家を出て、片足幅五足で、キミの家へ、むかった」

 

 頷く。

 いや、驚いた。いつもより早く家を出ただって?そんな事をしたら、きっと街の住人達の時計は、今頃誤った時刻を指し示しているに違いない。なにせ、カルドのルーティンの正確さは、時計よりも信頼に足ると、皆口を揃えて言うのだから。

 

「で、でも……家に、行ってもキミ、は」

 

 カルドの口がこれまで以上に戦慄いた。呼吸が乱れ、眉間には深い皺。ヒュウッとカルドの口から漏れる呼吸音が、無音の病室に存在感をもって響く。そして、次の瞬間。カルドの感情は弾けた。

 

「キミはっ、居なかった!戸を叩いていつものように声をかけても、ウンともスンとも言いやしない!時刻がいつもと、ズレたせいかと思って、ちゃんといつもの時間になって、もう一度戸を叩いた!でも、キミは戸を開けてくれなかった!!」

 

 頷く。

 穏やかだった言葉の海が、突然荒れ始めた。

 ごめんよ、ごめん。カルド。その時、俺はきっともう病院に居たのだろう。俺は、誰も居ない我が家の戸を、律義に「ヨハン。カルドだ。開けてくれ」なんて声をかけながら叩く彼の姿を想い、切なくなった。

 

「わ、私はっ!時間や、予定を崩されるのが大嫌いだ!で、でも、何故かその時に私の、中に浮かんで、きたのは……い、怒り、ではなかった!ど、ど、ど、どういう、気持ちか、優秀なキミになら、分かるだろう!?ヨハン」

 

 この時、俺は頷けなかった。

 いつもは訳が分からないからこそ、微笑んで頷けたのだ。しかし、今のカルドの話は内容が理解出来るせいで、逆に頷けない。何故なら、カルドがどんな気持ちになったのか、俺には分からないからだ。

 

 俺は、この時初めてカルドの言葉に首を振った。

 

「わ、分からない!?こんなに、簡単な事が!ゆ、優秀なキミに!?」

 

 首を振る俺に、カルドが頭を抱えて髪の毛をガシガシと掻きむしり始めた。

 ごめん、カルド。俺にはキミの気持ちが分からない。ルーティンを崩されたキミが、俺に対して怒りこそすれ、それ以外の感情が沸くなんて思いもよらないんだよ。

 

 もう一度、首を振ろうと俺が微かに首を揺らした時だ。それまで頭を掻きむしっていたカルドが、囁くような声で言った。

 

「……こわかった」

 

 大波に見舞われていた言葉の海が、凪いだ。

 

「わ、私は、キ、キミから見捨てられたと、思い。きょ、恐怖を、か、感じた。そ、その日は、ひ、一晩中、キミの家の、前に、居た。で、でも。キミは、戸を、開けてくれなかった……」

 

 恐怖?

 まさか。美しく、頭も良く、世界から求められるキミが、我が家の戸が開けられなかったからと言って、どうしてそんな風に恐怖を感じる?泣きそうな顔をする?

 

「あ、あ、明け方、キミの家の前を、通りかかった、見知らぬ子供が、お、教えてくれた……昨日の朝、きみが、家の前で、た、倒れていた、と。だから、病院に、は、こばれた、と。そこから、私は、もっと、変になった」

 

 カルドは頭を掻きむしっていた手をダラリと落とすと、虚ろな目で此方を見た。淀んだ青色が俺を捉える。カルドはそのままベッドの脇へと腰かけると、俺の顔を覗き込んだ。

 

「あの日の、キミの顔が頭から離れないんだ」

 

 カルドの手が俺の頬へと触れる。手はカサカサで、爪には泥が入り込んでいる。顔を近づけてくるカルドからは、幾日前からシャワーを浴びていないのか、冬であるにも関わらずツンと汗の匂いがした。

 

「キミの顔が、赤かったこと。笑みが、ぎこちなかったこと。何度も寒そうに手で腕を抱いていたこと。まずかった紅茶のこと。瞳が潤んでいたこと。が、が……ガッカリだと、俺が、口にした時の……キミの、悲しそうな、顔」

 

 目の前にまで迫ったカルドの目元には涙の跡があった。あぁ、もしかしてカルド。キミは泣いていたのか。そんな姿、俺は一度だって見た事がなかったのに。

 

「た、他人の表情や挙動など、気にした事などなかったのに……あの日のキミの事が、頭から、こびりついて離れないんだ。キミが、このまま居なくなったら、どうしようと、…家の戸を、開けてくれなくなったら、どうしようと……そんな事ばかりが頭を過って。良いアイディアは欠片も浮かばず、もう、何も、かんがえ、られない……」

 

 俯きながら、消え入るように口にされた言葉を最後に、俺が今まで気持ち良くプカプカと浮遊していた海は潮が引いたように消えていった。どうしよう。カルドの言葉が無くなってしまった。こんな事は初めてだ。俺は声を持たないというのに。

 

 こんなにも傷付いて弱り切った彼の為に、俺は一体何をしてあげられるだろうか。

 

——–ヨハン、いらっしゃい。大丈夫よ、ほら。

 

 遠くに母の声を聞いた。母は言葉を話せぬ俺に「大丈夫よ」と安心させる為に――。

 

——-抱きしめてあげる。

 

「……ヨハン?」

 

 俺は目の前にあるカルドの背中に手を回すと、出来るだけ優しく抱きしめた。カルドの体が石のように固くなる。しかし、拒絶される事はなかった。

 

「っぁ、ぅ」

 

 耳元で感じるカルドの呼吸が、少しだけ荒くなる。はぁはぁと、落ち着かない様子だ。

 密着した体から感じる彼の鼓動は早鐘のように鳴り響き、脇に見える彼の耳はみるみるうちに赤くなっていった。

 そんな彼の背に回した腕を安心させるように撫でてやる。母が俺に対してそうしてくれていたように。

 

「っはぁ、っぁ」

 

 彼の他人への不慣れさが、俺には妙に愛おしく感じられて仕方がなかった。

 独身主義者で、女っ気のないカルドの事だ。抱きしめられる事に慣れていないのだろう。かくいう、凡庸以下の俺などは当たり前のようにそういう方面に疎いので、思い出す記憶は全て“母”にまで遡る。

 

 あの人は、とても優しい人だった。俺の口が利けぬ事に、いつも責任を感じていた。けれど、彼女は決して俺に「ごめんね」とは言わなかった。ただ、その代わりに「愛しているわ」とだけ伝えてくれた。それだけで、俺は全てが救われた。

 

(あいしてるよ、カルド)

 

 言いたいけれど、言葉に出来ない。初めて口の利けぬ事を悔やんだ。でも、他にも伝える術はある。これも、母が教えてくれた。

 

 ちゅっ。

 

 俺はカルドのカサついた唇に、自分の唇を一瞬だけ重ねた。キスは「愛している」を伝える一番の行為だと、母が言っていた。まさにその通りで、幼い俺は母から抱きしめてキスをして貰う度に至上の愛を感じていた。好きだった。

 

「……」

 

 唇を離して抱きしめていた体を離す。これで、伝わっただろうか。そう、俺がカルドの顔を視界に写し込んだ時だ。

 

「ヨハン……素晴らしい、アイディアを思いついた」

 

 カルドの、いつものご機嫌な声が聞こえた。そう、“いつもの”彼だ。

 先程まで酷く淀んでいた瞳は、澄み切った青空のように美しく輝き、青白かった頬は一気に血色を取り戻している。いや、今はむしろ熱があるのではないかと疑いたくなる程に朱色に染まっているのが少し気になったが、当の本人は至って元気そうだ。

 

「本当に素晴らしいアイディアさ!キミになら理解して貰える筈だ!なぁ、ヨハン!」

 

 どうやら、いつもの彼に戻ったらしい。

 俺は、きっと理解出来ないであろう彼の「素晴らしいアイディア」とやらを聞く為に、いつものように頷いてみせた。しかし、彼はすぐにベッドの脇から立ち上がると、大層ご機嫌な様子でコートと帽子を整えた。

 

「私は、この素晴らしいアイディアの為にやる事がある!ヨハン、キミには後で話そう!ああ、これで世界はまた一歩新しい未来を切り開くぞ!思想学的にも、聖化学的にも、人類学的にも……そして、哲学的にも」

 

 カルドの言葉は次第に小さく消えていき、その手を口元へと添えた。これは、カルドが思考の海に沈む時の癖だ。これからは何を言っても彼には届かないだろう。

 

「……どうしても開かぬと思っていた知識の扉の最後、その鍵はこんな所にあったか。そうか、私だけでは開かぬはずだ。こうして開けた事は奇跡かもしれない。とても、素晴らしい奇跡である……おい、医者」

 

 思考の海からカルドが一瞬だけ顔を出した。

 しかし、その顔は酷く冷たく、声にも温かさは欠片もない。怖い。ただ、彼のその目が写すのは俺ではなかった。俺に色々と説明してくれたあの医者だ。

 

「は、はい!カルド様!」

 

 ここでやっと、俺は此処がどこだったか思い出した。そういえば、ここには沢山の医者や看護師が居たのだった。それなのに、俺ときたらカルドの事しか見えていなかった。今更ながら、羞恥心が腹の底から襲ってくる。

 

「俺の言う事だけを聞け。余計な事を言うな。尋ねた事には簡潔に答えろ」

「はい!」

 

 冷たいカルドの声と、恐怖に塗れたような医者の声。それはどこか、舞台でも見ているような遠さを感じた。見慣れぬカルドの姿に、なにやら現実味がまるでない。

 

「ヨハンの容態は」

「何も心配ありません」

「本当だろうな。少しでも彼に何か後遺症が残るような事があれば、私はこの病院を潰してやるからそのつもりでいろ」

「……はい。後遺症はございません」

「では、退院はいつだ」

「大事をとって本日様子を見、問題がなければ明日にでも」

「では、明日。私が迎えに来る。それまで彼には決して無理をさせぬように。私以外の人間に、決して彼を引き渡すな。もし何かあったら。……わかっているだろうな?」

「分かりました」

 

 テンポの良い会話だ。あまりにもスピードが速くて、凡庸以下な俺が記憶に残せたのは、最後の部分だけだった。

 なんだって?たかだか俺が退院するのにカルドが迎えに?そんなの、彼のルーティンには無い事だろうに。今こうしてここに居る事すら、彼の日常からは逸脱しているに違いない。

 

 俺が内心戸惑っていると、カルドの視線が俺へと戻ってきた。しかし、その目は先程のような冷たさは欠片もなく、いつものご機嫌で無邪気な目だった。

 

「おっと、もうこんな時間か。ヨハン、今日も素晴らしい時間だった。ありがとう。帰るよ」

 

 それは、いつもカルドが我が家から帰る際に口にする“いつもの言葉”だった。今が一体何時なのかは分からない。ただ、俺にとってはカルドと俺の“いつも”が戻ってきたようで、酷く嬉しかった。

 

 嬉しかったので、いつもより少し大きく頷く。すると、そんな俺の姿を見て、それまで笑顔を浮かべていたカルドの目が大きく見開かれた。そして、再びその顔をジワリと朱に染めると、とても幸せそうな顔で言った。

 

「……あぁ、また明日。ヨハン。良い夜を」

 

 いつもの言葉で締めくくられた俺達の日常。

 また明日、と言ってくれるカルドの言葉に、俺は心には一足先に春が来たような心持だった。コートを靡かせ颯爽と去っていく彼の背を見送る。しかし、病室の扉に手をかけ余韻なく姿を消すと思っていたカルドは、最後にチラリと俺の方を見た。

 

 そして、どこか名残惜しそうな様子で目を細めると、ゆっくりと戸を閉め見えなくなった。珍しい事があったモノだ。

 そう、俺がぼんやりとカルドとの久々の会話の余韻に浸っていると、隣からボソリと息を吐くような声が漏れ聞こえた。

 

「……助かった。これで、きっと魔化学の進歩は歩みを止める事はないだろう。それどころか、数百年後の未来まで、私達を連れて行ってくれるかもしれない」

 

 

 その医者の言葉は難しく、凡庸以下の俺には欠片も理解できなかった。