4:天才の新しい日課

 

 

        〇

 

 

 天才カルドのルーティンは、ある日を境に激変した。

 そして、その友である俺の日常も、多いに変化した。いや、ぶち壊されたと言った方が良いだろうか。

 

 退院の日、俺は大勢の医者や看護師に見送られ、カルドと共に病院を出た。カルドの姿を見るまで、俺はカルドが迎えに来るというのは冗談だと思っていた。なにせ、そんな事をしたらカルドのルーティンが崩れてしまうからだ。

 

 退院の支度をし、病院から出ようとする俺を、慌ててやって来た医者や看護師が血相を変えて止めにきたのには驚いた。皆一様に『カルド様がお迎えにあがられますので』と懇願するものだから、仕方なく病室に戻った。すると直後、本当にカルドが現れた。

 

「ヨハン、カルドだ。開けてくれ」

 

 カルドは病院の戸の前でも、いつものように声をかけてノックしてきた。扉を開けると、そこにはいつも通り、明るい笑顔を浮かべたカルドの姿。しかし、ここからはいつもと違っていた。

 

「ヨハン、家に帰ろう。そうだ。ここに来るまでに、良いアイディアが浮かんだんだ。歩きながら聞いてくれないか?」

 

 まるで昨日の憔悴した姿が嘘のように、明るく元気が良い。そんな彼に、俺は酷く嬉しくなると、いつも通り深く頷いた。カルドの青い瞳は、晴れ渡った空のように澄みきっていた。

 

 

 しかし、その日俺が帰った場所は、住み慣れた我が家ではなかった。

 俺の目の前に現れたのは、そう、カルドの家だった。

 

「ヨハン、今日から此処がキミの家だ。キミが居る場所は此処であり、帰る場所もここだ。これがどういう意味か、キミならすぐに理解できるだろう?」

 

 言葉を持たぬ俺はカルドの言葉に訳も分からぬまま頷いた。いつもの事だ。

 頷いた俺に、カルドは、俺の大好きな無邪気な笑みを浮かべると、そのまま思いついた「素晴らしいアイディア」を滝のように話し始めた。その言葉を俺は欠片も理解せぬまま、気持ち良いカルドの言葉の海をプカプカと、なすがままに泳いだ。

 

「現在の人類の生殖の仕組みは何とも合理性から外れたモノになっている。ヨハン、キミなら分かってくれるだろう?ああ、分かってくれるだろうとも。子を孕むのが女、種を与えるのが男。これは非常に合理的ではないし、哲学的な“愛”の観点から考えてもおかしなモノだ。この枠組みを変えるには、今ある聖化学のルナ理論と、生殖医学のシャドウ学を結合させ……」

 

 うんうん。

 俺のような凡庸以下の人間には、欠片も理解できない。彼がまた世界を震撼させるような発見を理解も出来ぬ俺に対し、いの一番に話すのは少しばかりもったいない事のように思う。

 しかし、カルドの隣という居場所を誰かと代わるなんて、出来そうになかった。俺は、強欲な人間だ。

 

「はぁ……ヨハン。こちらに来てくれ」

 

 ひとしきり知識の海に浮かんでいると、突然、カルドが俺を呼んだ。その美しい青い瞳は細められた瞼で半分隠れている。眠いのだろうか。しかし、声はハッキリしている。

 ゆったりと椅子に腰かけるカルドの元へ、俺は言われた通りに近づいた。

 

「さぁ、ヨハン。いつものを頼む」

 

 いつもの?それは何だろう。「いつもの」という言葉を使える程、今日という一日はまだ回数を重ねていない。なにせ、俺は今日初めてカルドの家で過ごすのだから。

 俺が思案していると、カルドは俺の腕を引き、自らの体に俺の体を重ねさせた。温かい。カルドの匂いがする。視界いっぱいに、美しいカルドの顔が映り込んだ。

 

「ヨハン。これでキミになら分かるだろう?」

 

 頬を両手に挟まれ、ジッと見つめられる。

 

——–さぁ、ヨハン。こちらにいらっしゃい。

 

 母の声が、聞こえた。同時に、俺はカルドが何を求めているのか理解すると、随分と血色の良くなった彼の唇に、自身の唇を重ねた。

 

 ちゅっ。

 

 と、母がしてくれていたようにキスをする。そうか、これはもう彼の中で「いつもの」なワケか。覚えておかなければ。

 

 そう、俺がカルドの唇から離れようとした時だ。カルドの片手が俺の後頭部に回された。そのせいで、離れるどころか口付けは更に深くなる。

 

 はぁ、ん。

 

 カルドの少し冷たい掌が、俺の髪の毛や頭皮を撫でる。同時にもう片方の手が俺の背中に回され、その両方でしっかりと固定された。固定されるだけでなく、力いっぱい押してくるものだから、カルドの体と俺の体はピタリとくっ付く。熱い。

 

「っ」

 

 キスは深く激しさを増し、いつの間にかカルドの舌が俺の口内へと滑り込んでいた。これは一体どうしたら良いのだろう。閉じていた目を微かに開くと、青い瞳が俺を見つめていた。そこにはいつもの無邪気さなど欠片もなかった。あるのは、俺を求める激しい欲望のみ。

 ただ、それに対して戸惑いはしたものの、不愉快ではなかった。カルドの与えてくる欲望に、俺は腹の底から歓喜した。

 

 初めてだったが、本能のままにカルドの舌に自信の舌を絡める。熱くてヌルヌルとした感触が酷く気持ち良い。

 

「っはぁ、ヨハン」

 

 キスの合間にカルドが俺の名を呼ぶ。俺の背中を這うように撫でていた手はいつの間にか腰に移動し、今ではもっと下を撫でている。気持ちが良い。気持ちが良過ぎて下半身が疼いて仕方がない。

 今、俺の下半身は物凄く恥ずかしい事になっているに違いない。窮屈で、苦しい。ただ、それはカルドも同であるようだった。

 

「ヨハン……」

 

 ちゅっ、と音を立ててカルドの唇が俺から離れた。カルドの掌がスルスルと俺の下半身を撫で続ける。

 

「ヨハン。キミなら分かってくれるだろう。あぁ、分かってくれるに決まってる」

 

 頷く。

 分かるような、分からないような。曖昧な所だが、それでも頷く。いつもの事だ。

 

「今日この一日が、明日からの私達の日常を作る。今日が、私達の全てだ。いいな、ヨハン」

 

 頷く。

 ともかく、今日した事が明日以降の“いつもの”になるという事だ。よく、覚えておかなければ。

 

「はぁっ、さすがはヨハン!やはり、キミは素晴らしい。私の話をこうも理解してくれる者はキミ以外居ない!」

 

 感極まったようにカルドは言い放つと、再び唇を重ねた。ピタリと隙間なくくっ付くお互いの体。その中で、体の一部はお互いへと惹かれ合うように、強く主張し合っていた。自然と腰が揺れてしまう。恥ずかしい。でも、止められないのだ。

 

 まるで、もっともっと近くに居たいとでも言うように。

 

「……ヨハン、私の世界にはキミしか居ないんだ」

 

 頷く。意味は、やはり分からない。でもいい。いつもの事だ。

 俺はそのままカルドの放つ熱い海の中を、気持ち良くプカプカと浮遊し続けたのであった。

 

 その日から、俺は天才の“ルーティンの一部”から、“ルーティンの全て”になった。