5:天才の愛した凡人

 

 

 私の名前はカルド。カルド・ダーウィングである。

 とは言っても、私にとって名前などは、さほど意味を持たない。ソレは個を識別する為の文字の羅列に過ぎない。

 

 私の頭の中はいつも酷く慌ただしい。

 なにせ、いつも様々なアイディアで埋めつくされているからだ。幼い頃からそうだった。目の前に様々な素晴らしいアイディアが落ちてくるのだから、それを拾い上げるのに必死にならざるを得ない。他の事に気を取られている余裕は、私には欠片もないのだ。

 

 他者の顔、名前、世間や他人からの評価、自らの地位。

 そんなモノは私にとっては大した価値はない。故に、全て自らの世界から追い出した。特に他人からの言葉や意見は本当に目障り、耳障りだ。

 

 うるさい。黙れ。私の思考を邪魔してくれるな。今私は素晴らしいアイディアを整理している最中なのだから。

 

 このように、俺の中に次々と生まれゆくアイディアを拾い上げる方法が、私にとっては「話す」事だった。それは俺の脳内にあるあやふやなアイディア達を、しっかりと形作るのに最も有効な手段だった。

 だから、俺は幼い頃から喋り続けた。素晴らしいアイディアをこの世にカタチあるモノとして生み出す為に。ずっと、ずっとずっとずっと。

 

『だから、魔化学の持つ進化の過程の中で産まれた矛盾は、それこそがマナというエネルギーの持つ新たな可能性だといえるんだ。だからこの論文の二行目と三行目、マナはその光と闇の交わり合う…』

『カルド、少し黙りなさい。お母さんは忙しいの』

『……交わり合う事で、次元の隙間を埋めるのであるという一文が』

『カルド……もうお願い。何も言わないで』

『画期的で、人類史上最も素晴らしい発見だと』

『やめてって言ってるのが聞こえないの!』

 

 頬に痺れるような熱い感触が走った。

 

『……人類史上最も画期的な発見だと言われているが、それはそうではない。重要なのはその部分ではなく』

『……もう、やめて』

 

 そうやって、何度叩かれたか分からない。それでも、私は喋るのを止められなかった。止めたら、この素晴らしいアイディアがどこかへ霧散して消えてしまうかもしれない。殴られるより、その事の方が私には恐ろしくて仕方がなかった。

 

『あぁ、また素晴らしいアイディアを思いついた』

『っう、うぅっ。どうしてなの?どうして分かってくれないの、カルド……』

 

 私は相手の顔が見えない。相手が何を望んでいるとか、どう思っているとか。私の頭の中に入り込む余地は一切ない。

 だから、私は誰彼構わず話しかけた。別に母でなくともよかったのだ。その辺を歩いている人間だっていい。別に相手は誰でも良かった。

 

『……あれ?』

 

 しかし、気付くと私の周囲には誰も居なくなっていた。しかし、それもいつもの事だ。

 

『あぁ、また素晴らしいアイディアを思いついた』

 

 私は、いつも一人だった。

 

 

        〇

 

 

 そんな時、私の話を最後まで聞いてくれる者が現れた。

 

 

『あぁ、いいところに居るじゃないか。いま、とても良いアイディアが浮かんだんだ。少し聞いてくれないか?』

 

 その日も、たまたま学院の中庭を歩いていたら素晴らしいアイディアを思いついた。そして、たまたま近くのベンチに腰掛ける人間が居た。どうせ、気付いたら居なくなっているであろう事は予想できたが、まぁ良い。どうせ、私も相手の事などどうでも良いのだから。

 

 しかし、その日は違った。

 

『この論文を元に組み立てた新しい理論を用いれば、現在引き起こされている聖電機の持つ不具合が全て解消されるんだ。しかし、それをどのように実際の魔科学に用いるのかと言えば……』

 

 話し始めてどれくらいになるだろう。言葉を放つと、これまでの人間はものの数分もせず私の視界から消えて行ったというのに、たまたま話しかけた相手は一向に俺の前から離れようとしない。それどころか、酷く穏やかな表情でうんうんと何度も頷きながら話を聞いてくれている。

 

 相手の顔など気にした事もなかったのに、ただその時の私は、黙って全てを受け入れてくれた名も知らぬ相手に体中が熱くなるのを止められなかった。

 

『どうだ、素晴らしいだろう!』

 

 最後まで語り終えた瞬間、私は普段なら感じられないような快楽を体中に感じていた。相手の顔を見る。すると、それまでモヤのかかったようにぼやけていた視界がハッキリと写った。そこには、嬉しそうな表情で此方を見つめる優しい瞳があった。

 

『ほんとうに、すばらしい』

 

 吸い込まれそうな程澄んだその黒い瞳が、私の体を酷く熱くした。

 

 毎日毎時間毎分毎秒。

 容赦なく舞い降りてくる素晴らしいアイディアの山の中で、あの日の記憶だけは、今でもすぐに取り出す事が出来る。素晴らしい記憶だ。

 

 それが、ヨハンと私の出会いだった。

 

 

          〇

 

 彼が“ヨハン”という名前の、隣の組の生徒だという事は調べたらすぐに分かった。彼は口が利けぬという事も、同時に情報として得た。

 これは、俺が自ら他者について情報を得ようとした、初めての経験だった。

 

『やぁ、ヨハン。今日も良い日だ。聞いてくれよ、素晴らしいアイディアを思いついたんだ』

 

 私の言葉に、ヨハンはいつでも嬉しそうな表情で頷いてくれた。その顔を見る度に、私は学問でしか感じた事のない腹の底から湧き上がるような感情を、ヨハンにも感じるのだ。いや、正確に言うなら学問から得られる快楽と、ヨハンから得られる快楽は、根本的に異なる。どう異なっていたか。

 

 ヨハンから与えられる快楽の方が、断然私の体を熱くさせた。

 

『やぁ、ヨハン』

 

 それから学院に居る間中、私はずっとヨハンの居るベンチまで歩み続けた。

 同じ道のり、同じ歩幅、同じスピードで散歩し、最後に行きつくのがヨハンの腰かけるベンチだ。

 

 私の向かう先には、いつもヨハンが居る。

 あ、いいや、これも違うな。語弊があった。これでは半分しか正解にならない。そう、正しく言うなら「ヨハンが居る場所に、私が向かうのだ」。

 

 こちらの方が、より事実に近いだろう。

 

 その日常は、学院を卒業してからもずっと続いた。

 その頃になると、どうやら「カルド・ダーウィング」という人間は酷く有名になっていたようだ。私自身よく分からない。ただ、気付かぬ間に学院の客員教授として、僅かな授業の時間の代わりに、素晴らしい研究室と、器具、そして大量の資金を与えられていた。聞くところによると、国がそのように配慮してくれたらしい。

 

 まぁ、金の出どころなど、私にとってはどうでも良い事である。私は研究出来ればそれで良い。

 

 毎日、毎日、決まった事を繰り返す。

 私は朝の早い段階で授業と研究を終え、午後になると、すぐにヨハンの家へと向かう。

 

『ヨハン、カルドだ。開けてくれ』

 

 戸に向かって声をかけると、片時の間もなく開く。すると、そこには私の心を熱くする相手が、私の大好きな笑顔をその顔に湛え待ってくれている。

 

『ヨハン、今日も良い日だな。なぁ、聞いてくれよ』

 

 ヨハンの顔を見ると、その日がどんなに腹の立つ日だろうと、豪雨だろうと、冷たい雪に見舞われようと途端に“良い日”へと様変わりする。ヨハンと過ごす数刻は、まるで春の温かい日差しを浴びて眠りに落ちるような穏やかなモノだった。

 変化もなく訪れる毎日が、私にとっては最も幸福な時間だった。

 

———

——

 

 

『不愉快だ』

 

 

 人間という生き物は良くも悪くも“慣れ”てしまうモノだ。当たり前に存在するモノに対し、当たり前に与えられる幸福に対し、感謝どころか喜びすらも忘れる。むしろ、与えられない事に対し不当なまでの“怒り”を感じる程だ。

 

 当たり前モノなど、この世には何一つ存在しない事は、学問の世界で痛い程学んできた筈なのに。

 

『キミにはガッカリだ。紅茶の味もおかしかった。戸を開けるタイミングも、話の相槌も最低だ。いつもとまるで違う。ここに来て、こんなに不愉快な気持ちになるなんて思わなかった。まったく時間の無駄だ。帰らせてもらう』

 

 時間の無駄?ヨハンと過ごす穏やかな時間が?そんな事、欠片も思った事などなかったのに。

 

 人はどうしてこんなにも愚かで傲慢になれるのだろう。

 怒りに身を任せ、ヨハンの家を飛び出した。戸を開けるタイミング。相槌。紅茶の味。どれもがいつもと違っていた。

 でも一番違っていたのは、ヨハンの顔に欠片も笑顔が無かった事だ。私は彼のあの笑顔がとても好きだったのに。一度も向けてくれない。それに腹を立ててしまった。

 

 帽子を右手ではなく左手に手渡してきた時のヨハンの手は、火傷するように熱かった。それなのに、怒りと違和感で、その時のキミがどんな風な様子だったかなんて、私には慮る事など出来なかった。

 

 そりゃあそうだ、慮る事など誰に対してもしてこなかったのだから。

 

 私は、降ってくるアイディアに埋もれ過ぎて、大切なキミの顔すら見えなくなっていたらしい。

 

        〇

 

 

 眠れぬ夜を過ごし、過るのはモヤのかかったようなキミの顔。ベッドの中で寝がえりをうちながら過ごし私は腹の底から思った。

 

 ヨハンに会いに行かなければ、と。

 だから、次の日。私は学院を出てからすぐにヨハンの自宅へと向かった。数刻早いが、まぁ良いだろう。

 

『ヨハン、カルドだ。開けてくれ』

 

 いつもならすぐに開かれる筈の扉が開かなかった。返事もなく、笑顔のキミも現れない。聞こえなかったのだろうか。

 

『ヨハン、カルドだ。開けてくれ』

 

 やはり、返事はない。

 来るのが早すぎたか。確かに、いつもより少しばかり早い。私はしばらくの後もう一度戸を叩いた。

 

『ヨハン、カルドだ。開けてくれ』

 

 返事はない。扉も開かない。

 息が止まるかと思った。

 

『ヨハン、カルドだ。開けてくれヨハン、カルドだ。開けてくれヨハン、カルドだ。開けてくれ』

 

 誰も出てこない扉に向かってノックと共に何度も何度も声をかける。

 そう言えば、いつもなら何の苦も無く扉は開いていたのに。そして、扉の向こうには笑顔のヨハンが出迎えてくれていたのに。

 

 だから、私はこれしか方法を知らない。良いアイディアなど思いつかず、既存のやり方に、無駄だと分かっていても固執する事しか出来ない。それは愚かな研究者がする事だと思っていたのに。

 

 私も、とんだ愚か者だった。

 冬の夜。凍えるような寒さの中、私は戸を叩き続けた。キンと痺れるような冷たい風が、私の記憶を研ぎ澄ます。

 

 そのせいだろう。それまでモヤのかかっていたような記憶が開けていく。

 

 私の愛しい日常が消えた。

 

『ヨハン、カルドだ。開けてくれ……頼むから』

 

 不愉快だ。

 そう、私が口にした時のヨハンの泣きそうな顔が、頭から離れない。

 

 明け方の事だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、浮かんでくるのはこれまでのヨハンとの春のような暖かな記憶だけ。

 

 このまま、永遠にヨハンの目が開かなかったら私は一体どうなってしまうのだろう。学院にも行かず、研究にも手を付けず、自宅で頭を抱えるだけの日々。あの地獄のような日々の記憶は、今の私には欠片も思い出せない。

 

 

『もう、何も、かんがえ、られない』

 

 目覚めたヨハンに対し、私はこれまでの想いを全てぶつけた。ぶつけてもヨハンからは何も言葉が返されることはない。そんな事は分かっている。ヨハンは口が利けないのだから。そう、ヨハンの前で項垂れていると、いつの間にか私の体は温かいモノに包まれていた。

 

『……ヨハン?』

 

 病院のベッドの上で俺を抱き締めるヨハンの体に、私はこれまで感じた事のないような凄まじい衝動に襲われた。ヨハンの温かい体。背をさする優しい手。耳元を掠める息使い。心臓の鼓動。

 

『はぁ、はぁ』

 

 荒くなる私の呼吸。混乱の最中に居る私に、ヨハンはあろうことか私の頬を両手で優しく挟むとそのまま自身の唇を、私の唇へと重ねた。

 

 ちゅっ。

 

 そう、軽い音を響かせすぐに離れていく。生まれて初めての口付け。幼い頃から私の全てを包み込んでくれていたヨハン。その優しい微笑みが、私の視界を埋め尽くす。

 

 

『ヨハン……素晴らしい、アイディアを思いついた』

 

 その瞬間、私の世界は一気に開けた。

 

 

 

 

 

 

「ヨハン……君は本当に、素晴らしいよ」

 

 その晩、私は生まれて初めて自らを慰めた。ヨハンの抱擁と口付けが頭から離れない。体の熱が納まらない。

 自慰をしたいなんて、これまでの人生で一度だって思った事はなかったのに。

 

「っはぁ……」

 

 愛する者を想って吐き出す精は、なんとも心地よかった。