大きく荘厳な扉を前に、俺は静かに立っていた。
「……はぁ」
長い廊下の真ん中に突然ポツンと現れるその扉。それはもちろん、イーサの部屋へと続く扉だ。『ここが今日からお前の仕事場だ』そう言って、テザー先輩から連れて来られて、一体どのくらいの時間が経っただろうか。
俺は軽く目元を擦ると、大きく息を吸った。さっきは見事にマティックとカナニ様に泣かされてしまった。そんなに派手に泣いたワケではないが、イーサにバレると面倒なので、しっかりと涙の跡は消しておく必要がある。
「よし」
俺は、ノックをする為に扉に片手を添えた。廊下の上部に備え付けられたランプの火が、夜風に煽られ俺の影を揺らす。
コンコン
「イーサ、俺だよ。遅くなったけど、ちゃんと来たぞ。入っていいか?」
扉に向かって声をかける。しかし、扉の向こうからは何の反応もない。癇癪を起していると聞いていたので、ノックをすればすぐにドタドタと騒がしく扉を開けに来ると思ったのに。
「イーサ?もう寝たのか?」
コンコン。
再びノックをする。寝るには、まだ時間が浅いような気もするが。もしかすると癇癪を起こし過ぎて疲れて寝ているのではないだろうか。
……と、もちろんそんな事を本気で思っているワケじゃない。イーサも最近は公務で酷く忙しそうだった。戴冠式が終わったら、正式なクリプラントの王になるのだ。仕方がないのかもしれないが、少しずつ俺の知っているイーサではなくなっているような気がして寂しさを感じていた。
だから、疲れて寝てしまっている可能性は十分にあり得る。
「……いや、どちらかと言えば俺の“よく知っていたイーサ”に近づいている。そんな感じかもしれないな。そう、仲本聡志は静かに思った」
俺のよく知っているイーサ。
それは、仲本聡志が目指しオーディションに挑んだ“イーサ王”だ。イーサは確実に変化している。引きこもりで、王位継承権を剥奪されかけていた我儘な二歳児の姿は、もうどこにもない。
「……イーサ。入るぞ?戴冠式の前に、少しでいいから会っておきたいんだ」
お前が、正式に“イーサ王”になる前に。
そう、心の中で付け足してドアノブに手をかけた時だった。
コン。
「っ」
扉の向こうから一度だけノックをする音が聞こえてきた。なんだ、起きてるんじゃないか。と、同時に一度のノックの意味する所に思わず苦笑した。
「まったく、イーサの癖に粋な事しやがって」
俺達の交流の始まりはノックからだった。一度のノックは肯定。二度は否定。俺は先程まで動きの固かった指先が、滑らかに動くのを感じると、勢いよく扉を開けた。
「遅いぞ、サトシ!」
「ふぐっ」
開いた瞬間、俺の体はイーサによって力いっぱい抱き締められていた。肌に触れるのは柔らかい質の良い寝間着の感触。ツルリとした寝間着の感触の向こうから、熱いくらいのイーサの体温を感じる。スンと鼻で息を吸ってみれば、そこからはいつもの太陽の匂いがした。
「ずっとイーサはサトシと会いたかったのに、なんでこんなに遅いんだ!サトシを呼べと勅命を出すところだったぞ!」
「ごめんごめん」
「ごめんで済むか!」
ギュウッと音がしそうな程強く抱きしめられ、イーサの熱を更に近くに感じる。しかも丁度イーサの胸に顔を押し当てられているせいで、鼓動まですぐそこに聞こえる程だ。ドクドクとイーサの生きている音が聞こえる。少し、早い。
「最近はずっと忙しかったが、今日ほど酷い日は無かったぞ。マティックにアッチに行け、コッチに来い。これを読め、アレを読めとひっきりなしに言い募られて。イーサは食事すらまともに取れなかった。息つく暇がないとは、まさにこの事だ!」
殆どノンブレスで一気に言い切ったイーサが、今度は抱きしめた俺の体をグイと離した。せわしないヤツである。
「サトシ!イーサを労え!イーサを褒めろ!イーサに口付けをしろ!」
「おいおい」
足をバタバタと動かしながら、俺の肩に手を置いて喚き散らす。これが本当に戴冠式を控えた一国の王というのだから何とも言えない気分だ。
「っふふ」
「さとし、何を笑ってる?笑いごとじゃないぞ!」
「っくく、いや。うん、そうだな」
憤慨するイーサの声を聞きながら、俺は腹の中に湧き上がってきた“何とも言えない安堵感”で満たされていた。最近、遠目に見るイーサは“イーサ王”過ぎて、少し近寄りがたかったから。良かった、いつものイーサだ。俺は口を尖らせるイーサの顔を見上げると、笑うのを止めて言った。
「さぁ、イーサ。俺に何をして欲しいんだ?言ってみろ。あもを喋らせるのか?」
「ちがう!」
「じゃあ何だ。最初から順番に言ってみろ。今日は特別だ。全部言う事を聞いてやるよ」
「……ぜんぶ?」
「ああ、全部だ」
俺が腕を組んで得意気に言ってやれば、イーサはまるで太陽のような笑顔を浮かべた。
「じゃあ、まずイーサを労らって褒め称えること。頭を撫でながらだぞ!」
「はいはい」
「立ったままだとサトシがイーサの頭に届かないからな!あもの所に行こう!」
「はいはい」
まるで子供のように熱を帯びるイーサの掌が、ぎゅっと俺の手を掴んだ。そして、グイグイとベッドの方へと引っ張られる。そこにはイーサに抱きしめられてクタクタになったあもが寝ていた。
「ほら、イーサを撫でろ」
ベッドの上に腰かけ、あもを抱き締めたイーサが俺に向かって頭を差し出してくる。昨日の昼間、遠くから見た凛々しい表情のイーサの姿は、見る影もない。俺は差し出された金色の髪の毛に手を伸ばすと、そのまま指の間に感じるサラリとした髪の毛の感触を楽しむように撫でた。
「お疲れ、イーサ」
「もっとだ」
「頑張ったな、イーサ」
「もっと!」
イーサは俯いた顔の下で、御機嫌な様子で笑っている。俺はイーサの指通りの良い髪を撫でてやりながら「もっと労え、褒め称えろ」という王様の希望にこたえるべく、大きく吸い込んだ。
「昨日、王宮の中庭をマティックと歩いてるのを見たぞ」
「そうなのか?」
「うん、何かずっと難しい話をしながら歩いてたな。でも、イーサはそんなマティックに的確に指示を出して……凄く格好良かったよ」
「ふふ。そんなにイーサは格好良かったか?」
「うん、カッコいい。カッコ良過ぎて、俺は……お前になりたいって思ったくらいだ」
「ん?」
俺は未練がましい本音を交えつつ、イーサの頭を撫で続けた。イーサの髪の毛が指に絡む。気持ちがいい。