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スタジオを出た。
「……」
「ほら、サトシ。そこ段差あるから、気を付けて」
「ぅ、ん」
入口を出た瞬間、夜の空気と静寂が俺の体を包み込む。
俺はと言えば、未だに涙で前すら見れない状況が続いていた。そんな俺の手を、金弥はしっかりと握ってくれている。力が強すぎて、少し痛いくらいある。それに、金弥の手はやっぱり物凄く熱かった。
「あれ?」
「っ!」
そこに、俺の耳に聞き慣れた声が入り込んで来た。
「あ、キン君。サトシ?」
「……えー、いち?」
頭のぼんやりとしていた俺は、とっさに浮かんできた名前を口にしていた。エーイチ。それは、この世界には居ない友達の名前だ。
「あははっ、サトシったら。すぐ俺の事エーイチって呼ぶんだから。」
「あ、えと……っ!」
「今日で収録終わりだよね。おつかれー」
またやってしまった、と俺がとっさに顔を上げた時だ。そこには、ヒビの入った眼鏡をかける……“エーイチの姿”があった。
「ぁ、そ、ソレ」
「あぁ、コレ?さっきドジって落としちゃって。まぁ、別に伊達だからいいんだけどさ」
「……だ、て?」
「うん、言ってなかった?俺、眼鏡集めるのが趣味で……あれ?サトシ、どうしたの」
もう、やめてくれよ。
俺が再び静かに俯いた時だ。俺の体に大きな影がかかり、エーイチとの間に壁を作った。もちろん金弥だ。俺の手を掴む手にも、更に力が籠る。痛い。
「こんな時間にスタジオに来るなんて、何か忘れ物?」
「あっ、そうだった!ちょっと監督に用があって……」
「え?監督、もう帰りそうだったよ」
「うわっ、ヤバ!じゃ、二人共!来週の打ち上げで!楽しみにしてるからー!」
声と共に、パタパタとエーイチの気配が離れていく。良かった。もう、これ以上泣いている所を他人に見られたくない。
「行こ、サトシ」
再び、金弥が俺の手を引いた。ありがとうと伝えたいのに、今の俺が喋ると声が震えてしまうのが分かっていて、どうしても声が出せない。
まるで、喉が麻痺してしまっているみたいに――。
「っぅ」
また、目元に熱が集まる。自分で自分を追い詰めてどうするんだよ、まったく。そんな俺に、それまで黙っていた金弥が何て事ない声で喋り始めた。
「来週打ち上げかぁ……サトシ、絶対にお酒は飲んだらダメだからね」
いつの間にか繋がれていた手が離され、金弥の腕が俺の肩に回されていた。お陰で、体がピタリと金弥に寄り添うカタチになる。さすがにこの距離感はどうなんだと思わなくもなかったが、歩いているのは人気の少ない住宅街。人目なんて、もうどこにも無かった。
「……俺、もうあんな思いしたくないから。ほんと、約束してよ。ね、サトシ」
俺は声を上げずに、コクリと頷いた。寄り添っているお陰で、それだけで金弥には伝わったようだ。そう、“あの日”以来、俺は金弥から厳格な禁酒を言い渡された。
あの日。
俺が、ここではない場所へと足を一歩踏み入れた日。そしてそれは同時に、あの大きな背中から手を放し、この世界に戻って来た日でもある。
——-神の加護が我々とともにあらんことを。
俺がイーサのスピーチを最後まで聞いてその背中から手を離した瞬間。俺の目の前には、びしょ濡れの姿で俺の名前を呼ぶ金弥の姿があった。
『っ!』
『サトシッ!さとしっ……っぁ!サトシ!?』
『……き、ん?』
『あ゛ぁぁぁっ、よがっだぁっ!目ぇあげだっ!』
俺が橋の上でイーサの台詞を口にしながら傍らに見た金弥の姿は、どうやら幻でも何でもなく、金弥本人だった。
『……ざどじぃっ!なんでえぇっ、なんで、ごんなごどじだのっ!?』
冷たい川の水に晒され冷え切った体を包み込んでくる金弥の体は、ともかく熱かった。金弥自身も、俺を引き上げる為にずぶ濡れの癖に。体中ホカホカだ。
まったく、本当にイーサも金弥も……。
『こども体温だよな』
『なに、言って、んの?』
『……あったかい』
『サトシ?』
涙と鼻水で酷い有様の金弥の顔が、俺の真正面に現れる。金弥の泣き顔なんていつぶりだろう。子供の頃以来かもしれない。泣き顔とはいえ金弥の顔なんて見慣れていた筈なのに、なんだか酷く懐かしい。もう何か月も離れ離れだったような気分すら感じる。
俺は涙の雨を降らせてくる金弥の頬に手を添えると、絶対に言えっこないと思っていた言葉を、すんなりと口にする事が出来た。
『いーさ役、おめでとう。キン』
『……ぁ、ぅ』
この言葉を腹の底から口にする為に……俺は酷く長い時をかけてしまった。世界を超えて、出会う事のない人達との出会いの果てに、やっと“自信”と“覚悟”を手に入れた。
『ぁ、あ……あ。さと……』
『おれに、かっこいいとこ……見せろよ』
俺のその言葉に、金弥の涙が更に大雨になった事は、言うまでもない。
結局、酔っぱらった末に橋から落ちた経緯を知った金弥は、その後烈火の如く怒り散らかしてきた。そして、言ったのだ。
『サトシは!今後一切、一口も酒を飲むな!!絶対だ!』
と。あんなにブチ切れた金弥は、それこそ出会ってからこれまでで初めて見る。まぁ、それほどまでに心配をかけたという事だろう。
きっと、打ち上げの際は俺が酒を飲まないか、終始監視されるに違いない。
「ねぇ、サトシ」
「……」
再び、金弥の声が俺を呼んだ。俺はまだ酷い顔だったし、涙が完全に止まったワケでもなかったが、その声に吸い上げられるように顔を上げた。もちろん、そこには見慣れた金弥の顔がある。
「えっと……今日、サトシの家に行ってもいい?」
なんだ、そんな事か。いつもの事じゃないか。
そう、俺が頷こうとした時「いや、違う違う」と金弥が、柄にもなく少しだけ怖気付いたように首を振った。俺の肩に回された手に、力が籠る。
「……さとし、あの」
「……」
「……い、一緒に」
一緒に。そこまで言いかけて口ごもる金弥の声に、俺はなんとなく金弥が何を言いたいのか理解した。だって、これまで何度も何度も言われてきた言葉だ。
そんな金弥に対し、俺は“自信”と“覚悟”の無さから、自分の気持ちに向き合う事からずっと逃げてきた。
——–なぁ、一緒に住も。そしたら、俺達、いつも一緒に居られんじゃん。
あぁ、そうだな。キン。その通りだ。
「……え?さと、し?」
戸惑いを帯びる金弥の声が俺の間近に響く。そんな金弥の両頬を、俺はソッと挟み込むとそのまま自らの元へと引き寄せた。
あぁ、やっと俺も“自信”と“覚悟”を手に入れる事ができた。ここではないあの世界での日々が、俺に必要なモノを全て与えてくれた。
「……っん」
「……っは」
一拍の後。
触れ合っていた互いの唇が離れていく。それは、いつも金弥が一方的にする舌を絡めるような深いモノではなかったが、それで十分だった。
「キン、一緒に住もうか」
涙で失われていた声が、戻ってきた。
「え、あ……」
「そしたら、ずっと一緒に居られるもんな」
「……さ、とし」
俺の言葉に、それまで黙って俺を他人の目から隠してくれていた金弥が、今度は俺の体に顔を押し付けてきた。それと同時に、スルリと背中に回された腕は、子供の頃より随分と大きく、そして逞しくなっていた。
でも、結局の所、俺も金弥も何も変わっちゃいない。
「ほんとに?」
「ああ。ほんと」
「さとし。きん君と、ずっと一緒に、いて、くれるの?」
「うん。俺もキンと一緒に居たいからさ」
「ぁ、あ、ああ……」
次の瞬間、金弥の泣き声が俺の鼓膜を揺らした。
「っぁあ゛ぁぁっ」
そんな金弥の低くなった泣き声をどこか懐かしい気持ちで聞きながら――
「キン。イーサ役、上手だったよ」
俺は静かに金弥の背中に手を回したのだった。