華の金曜日。
上白垣栞は、夜の街を機嫌良く闊歩していた。
「あぁっ、楽しかったぁっ!」
月曜日から休みなく出勤を終えた、金曜日の夜。しかも、一週間の有給を取り終えた直後の、だ。
本来であれば、堪った業務を一気にこなし、度重なるクレーム対応に疲弊しきっているにも関わらず、栞はとにもかくにも元気だった。
酒で程よく気が大きくなり、腹は良い具合に満たされている。明日と明後日は土日で休み。栞はクルリとその場で一回転すると、そのまま鞄から“あるモノ”を取り出した。
「くぅぅぅっ!」
栞が取り出したモノ。それはパッケージ版の【セブンスナイト4】だった。
「イーサとジェロームのサイン貰っちゃったー!」
そこには、筆跡の違う二つのサインがたどたどしい線で書かれていた。
「この、サインを書き慣れてない感じ……ホンっトに堪らないっ!特にこの『仲本聡志』って文字……可愛すぎるんですけど!」
ジェローム役:仲本聡志
彼から書いて貰ったサインは、一生懸命サイン“っぽく”しようとした跡が垣間見えて、何度見ても微笑ましくなってしまう。
「それに引き換えイーサときたら!」
イーサ役:山吹金弥
対するイーサの方は、最早サインにしようという気がまるでない。
「山吹金弥!ってもう、学校の提出物に書かれた名前と同じ。これはこれで最高!」
微笑ましさというより、こちらは何度見てもジワジワくる。しかも、パッケージのバランス的にもう少し「仲本聡志」と書かれたサインと距離を置いて書けば良いものを、何故かベッタリと左下に書かれた聡志のサインに横に並ぶように書かれてしまっている。
「まったくもう」
おかげで、右上の部分はスカスカだ。バランスとしては最悪の出来だ。
「……っていうか、あの二人完全にデキてるわよねぇ」
栞はパッケージに書かれた二人の名前を見下ろしながら、苦笑いを浮かべた。栞には分かる。分かってしまうのだ。
「なーんで、私の回りの男はソッチとくっついちゃうかなー。まぁ、別にいいけど」
じゃあ、と共に栞に手を振って歩いて行った二人は、きっと同じ場所に帰るのだろう。
「私は声優とキャラを混同したりしないもーん」
そう、栞は弁えたオタクだと自負していた。だから、キャラと声優を混同したりはしない。いくら声が同じでも、だ。だから、彼らのプライベートにどうこう言うつもりは一切ない。資格もない。
「仲本聡志」は「ジェローム」ではなく、そして同様に「山吹金弥」も「イーサ」ではないのだから。
「でも……なんか、良かったなぁ」
ジェロームとイーサの声で食事を楽しんでいたあの空間は、まるでトゥルーエンドの続きのようで幸せな気持ちになれた。クリプラントとリーガラントは、今、平和に交流を続けているんだ、と。あの声は暗に教えてくれているようだった。
栞は目を閉じ、あの空間で聞いた二人の声を幾度となく反芻させた。あぁ、これぞまさしくハッピーエンドだ。
「それにしても……ジェロームがゲームの攻略に手間取ってるなんてねぇ」
栞はゲームのパッケージを鞄へと仕舞い込みながら、クスクスと静かに笑った。なにせ、栞が既にトゥルーエンドまで完全にクリアした事を知ったジェローム……いや、聡志が、そりゃあもう必死な勢いで頼み込んできたのだ。
『あの、どうしてもイーサの……トゥルーエンドが見たいんです!攻略のコツとか教えて貰えませんか!?』
どうやら、最後の鬼の大量選択肢をミスって、毎度バットエンドを迎えてしまっているらしい。いくら主演を務める声優でも、その辺は分からないのか、と栞は苦笑せざるを得なかった。
まぁ、聞くところによると、過去作も全部プレイしているというのだから、あの仲本聡志という男には好感が持てた。彼は、あのゲームをきちんと“プレイヤー”としても楽しんでいる。
「イーサのスピーチが、聞きたいか」
それを隣で聞いていたイーサ役の男の、あの嬉しそうな顔と言ったら。
その為、栞は聡志の為にトゥルーエンドへの明確な道しるべを示した。自分が明日アップする予定にしていた『終盤の攻略動画』のデータを誰よりも早く、聡志にだけ送ってあげる事にしたのである。
『あっ、え?上白垣さんって、この動画作ってる人だったの!?嘘だろ!凄い!前作も、あの動画見て……俺……あっ、あの握手してください!』
「まさか、逆に握手を求められるとは……」
しかし、まぁ実際に握手をする事は叶わなかった。それは勿論、隣に座る山吹金弥のせいだ。彼の静かな圧力により、何故か一般人の栞は聡志の手帳に、謎のサインを書く羽目になった。
「さて、今頃ジェローム君は、無事にゲームをクリアしてる頃かなぁ?」
動画データを送った際に聡志の連絡先は手に入れた。
だったら、今度はお互いのファンとしてではなく、【セブンスナイト】のファン同士として会ってみたい。きっと、聡志には必ず金弥も付いてくるだろうが。それはそれでいい。
「ハーーッ、良い金曜日だった!」
栞は軽やかな足で自身のマンションの建物へ到着すると、鞄に入ったもう一つのゲームを取り出してニヤリと笑った。
「さて!今晩からは【ソードクエスト14】をやるわよー!五年ぶりの最新作!有給はもうないけど、ここから二週間以内に絶対にクリアしてやるっ!」
上白垣 栞。
今晩から彼女は闘うヒロインから、世界を救う勇者へとその姿を変えた。
「楽しみー!」
仕事に疲れた勇者は、シリーズ史上最強の魔王の討伐に、今夜から出かけるのである。