きっかけは、本当に些細な一言からだった。
「いやぁ、髭の脱毛やってみたら最高だったわー」
職場の後輩が、そんな事を言っていた。あ、モチロン俺にではない。他の後輩に、だ。
だって、俺は職場で誰とも喋らない。休憩時間はずっとスマホでアニメ見てるし。それに、基本無表情だ。
眼鏡で無表情で休憩中ずっとアニメを見ているキモオタの俺に、職場で声を掛けてくる人なんて居ない。
ただ、その日はスマホの充電をし忘れていたせいで、休憩時間にアニメを見るのを控えていたのだ。そしたら聞こえてきた。
「へぇ。まぁ最近、皆やってるっぽいもんな」
「ホント、朝の時間が最高に楽になったわ。あと、肌も荒れないし」
「あー、確かにソレはいいな。俺もやってみるかなぁ」
この瞬間、俺は残り少ないスマホの充電を使って検索をかけた。
[男 ヒゲ 脱毛]
【検索】
確かに俺もずっと思っていた。朝、髭を剃る時間が面倒臭いなぁって。
十年近く通ってる職場だし。SEっていう職種のせいか、周りも男ばっかりだし。正直、わざわざ朝の貴重な睡眠時間を削って髭を剃るの、ホントに嫌だった。
でも、毎朝鏡の前に立つと、しっかり髭は生えているワケで……。剃らないワケにはいかない。
「でさ。ついでだから、今はもう全身やってる」
「全身?マジで」
「そ。今、VIO中」
「マジで!?」
髭の脱毛を調べて「死ぬ程痛い」「デカイ輪ゴムで弾かれたような痛み」という単語にゴクリと生唾を飲み込んでいると、後輩の口から「VIO」という、聞き慣れない単語が聞こえてきた。
ついでなので、ソレも調べてみる。
[VIOとは]
【検索】
検索をかけた瞬間、俺は話を聞いている後輩の「マジで!?」の反応に、完全に同意した。マジで?
——–
VIOとは基本的にはパンツに隠れる部分、陰部全体のことを指す。
特に、男性の場合は陰茎の上のフロント部分から陰茎、睾丸、肛門周辺まで全体を含む。
——–
言葉だけじゃ分かりにくかったので、イラスト付きの画像で解説してあるページにも飛んでみた。が、更に衝撃は増すばかりである。
え?待って待って。簡単に言うと、ちんことケツの穴の回り全部という事だ。嘘だ。何でそんな所を脱毛する必要があるのだろう。ワケが分からない!
俺が思わず、話し声のする方へと目をやると、そこにはうちの会社で一番顔が良いとされている後輩の姿があった。
名前はよく覚えてない。
「いや、髭並にやったら快適だって話を聞いたのと……」
「うん」
そこから、後輩は少しだけ声を落とす。待て。ここまで一緒に話を聞いたんだ。俺にも最後まで聞かせてくれ。俺はバレない程度に体を二人へと向けると、そこから全神経をイケメンの声へと集中させた。
「こないだ彼女に毛濃すぎてキモいってフラれてさ」
「お、おう。マジか」
そんな!あんなイケメンなのに下の毛が濃いだけでフラれるのか?信じられない。ていうか、ソレが原因でフラれるってアイツはどれだけ毛が濃いんだ。
「つーか、お前どんだけ下の毛が濃いんだよ」
イケメンの話を聞いていた彼の同僚が、俺の思っていた事と同じ事を口にした。ありがたい。お陰で俺の疑問も解決されそうだ。
「いや、そうは言うけどさ。下の毛って自分のが濃いとか普通とか……分かんなくね?お前、自分の下の毛が濃いのか薄いのかって自分で判断できる?」
「確かに」
「だろ?」
確かに。またしても後輩と気持ちが被る。
いや、まさにその通りじゃないか。下の毛なんて、誰かと比べる事も、第三者から公正にジャッジを受ける事もないのだ。自分で、普通か濃いかなんて分かりようがないじゃないか。
「……どうしよう」
思わず不安が口を吐いて出る。
なにせ俺は、生まれてこのかた三十五年間、一度も彼女が居なかったせいで、本気で誰にも下半身を晒した事が無いのだ。
「でもさ。まだ二回目なんだけど、やって良かったわ」
「へぇ、なんで?」
うん、何故だ。自然と体が前のめりになる。
だって彼は、あんなにイケメンなのに、わざわざ他人にちんこを晒してまで脱毛しているのだ。彼が羞恥心と痛みに耐えてまで、脱毛して良かったという理由が、俺は知りたかった。
すると、次の瞬間。イケメンは凄まじく良い笑顔でハッキリと言った。
「セックスが、死ぬ程気持ち良い」
その言葉を聞いた途端、俺はスマホで検索をかけていた。
[メンズ 全身脱毛 施術者スタッフ 男のみ]
【検索】
童貞卒業の予定はまるでないが、来るべき「最高の時」の為に俺もちんこを他人様に晒す時が来たのかもしれない。
この日、この俺宮森タローは、僅かな勇気を振り絞ってメンズ専門の脱毛サロンを予約したのであった
〇
これは、勇気を振り絞ってメンズ脱毛の予約をした宮森タローが、お手洗いに立った後に行われた会話である。
「おい、飯島。後半の方……嘘だろ?」
「あ、バレた?」
呆れたような表情で尋ねてくる同僚に、飯島はその整った顔にイタズラっ子のような表情を浮かべて笑ってみせた。そう、この飯島という男は嘘を吐いていた。
「分かるわ。お前、スッゲェ顔ニヤニヤしてるし。宮森さんが聞いてるの分かっててやったな?」
「いやぁ、だって明らかに俺達の会話気にして聞いてたからさぁ。ちょっと揶揄いたくなって」
飯島は先程まで、すぐ傍の席でジッと興味深そうに此方を見ていた相手を思い、堪え切れずに吹き出した。
「確かにアレはバレバレだったな。ずっと、こっち見てたし。子供かよ」
「ソレな。宮森さん、大人しい癖に思ってるコト全部顔に出るから。俺達の十個上とは思えん」
宮森タロー。三十五歳。
彼らの先輩SEであり、職場では誰とも喋ろうとしない少しばかり変わった男である。
「でも俺、宮森サンって、マジでツボなんだよねぇ」
「なんで?別に何も喋んないだろ」
心底不思議そうに問いかけてくる同僚に、飯島は「うーん、そうだなぁ」と、誰も居ないデスクを眺めながら思考を巡らせた。
そう、宮森タローは誰とも喋らない。必要なやりとりは、その殆どをメールで終わらせてくる。SEとしての腕は確かなのだが、そのモッサリした野暮ったい髪型と、洒落っ気も何もない黒縁眼鏡。果ては、休憩時間中ずっとスマホでアニメを見ている姿から、周囲の下した彼への評価は「コミュ障のオタク」である。
しかし、飯島は妙に彼がツボで仕方が無かった。
「宮森さんってさ、あぁ見えて結構好奇心旺盛なトコがあんだよ」
「へぇ、そうなのか」
「こないだなんて、クソ不味かった『おしるコーラ』ってヤツをさ。わざと宮森さんの前でベタ褒めしたんだよ。そしたら宮森さん、どうしたと思う?」
「おい、まさか」
「そのまさかだよ。宮森さん、早速昼休みにコンビニで買って来てやんの。ウケるだろ」
自分でも嫌な性格をしているとは思うが、飯島は素直で好奇心の旺盛な、自分より十歳も年上の彼を揶揄って遊ぶのが、職場での楽しみだったりしている。
所以、ちょっとしたオモチャ扱いだ。
「……別にお前の影響じゃないかもしれないだろうが。普通に店で目に入って気になったとか」
「いいや、俺の影響だよ」
飯島はハッキリと言って見せると、手にしていたスマホをズイと同僚の目の前に差し出した。そこには、一つの個人ブログが映し出されていた。そこには、こう書かれている。
「【コタロー日記】……これって」
「ほら、この記事見ろよ」
——–
3月14日
【職場のイケメンが飲んでいた『おしるコーラ』を飲んでみたレポ】
——–
「……何でこんなブログ見つけてんだよ」
「たまたまだよ。宮森サンの後ろを通った時チラっと見えて、もしやと思って検索したら、案の定ってね」
『おしるコーラ』は、この記事を書いた“コタロー”によると「そこそこ美味しかった」らしい。
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美味しい飲み物に出会えてはっぴー^^!今日は良い一日でした。明日も朝イチで買いに行きます、売り切れてたらショックなので! 皆さん、オススメなので是非一度飲んでみてください!
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最初読んだ時は、その一文に「嘘だろ」と目を疑ったりもした。それかネタか。
しかし、一口目の舌触りから、飲み込んだ時の感想まで、そりゃあもう具体的に書かれていた為、どうやら本気で好きなのかもしれない。宮森タローは『おしるコーラ』を大変気に入ってしまったようなのだ。
「……なんか、このブログ。ジワジワくるな」
「だろ?」
そう。なんだか癖になる書き口の文章に、飯島も発見してから、これまでの記事を一気に読み漁ってしまった。それからだ、この宮森タローという先輩SEを観察するようになったのは。
「多分その内『オタクの俺が全身脱毛行って来たレポ』ってのが上がる筈だぜ。どうだ、お前も見たいだろ?URL送ろうか」
「……頼む」
嫌な笑みを浮かべながら問いかけてくる相手に、男は非常に心苦しい気持ちになりながらも、湧き上がる興味には勝てないようだった。それでいい、と飯島は思う。興味関心に蓋をしてはいけない。そうでなければ無気力人間になってしまうから、なんてそれらしい事を思いながら同僚に【コタロー日記】のURLを送る。
「童貞オタクの全身脱毛……いや、VIO脱毛レポ。楽しみだな!」
「……ああ」
既に同僚も過去の記事を読み始めたようだ。既に口元には堪え切れない笑みが浮かんでいる。
分かる。だってコレはそんじょそこらの個人ブログではない。“あの”宮森タローが書いたブログなのだ。きっと、この同僚は今日中に過去ブログの全てを読み尽くすだろう。
飯島はフロアの入口から視界に入った人影に再び口を開いた。
「あ、ちなみに」
「なんだよ」
記事を読むのを邪魔された同僚が面倒そうに返事をしてくる。いや、ここまでは聞いて欲しい。飯島はニヤリと笑いながら、わざと声を落とすフリをして口にした。
「VIO脱毛すると、セックスが気持ちいってのは……マジだから」
その瞬間、席を外していた先輩SE、宮森タローが隣を通り過ぎて行く。もちろん、視線は此方にガッツリと向けられていた。その眼鏡越しに見える目は、通り過ぎるその一瞬の間だけでも、キラキラと輝いていた。
いやはや、本当にツボが過ぎる。
「……そっかー。俺もやってみようかなー!」
なんて棒読みで答える同僚に、飯島は内心爆笑しながら次の記事の更新を心待ちにしたのであった。