幕間:変化な関係

 

 

 起きたら、何か美味しそうな朝ごはんの香りがするのが当たり前だった。

 風呂に入ったら、フカフカのタオルがあるのもいつもの事。

 夜中に起きて勉強をしていたら「頑張ってるな」と言って甘い飲み物をくれるのもそう。

 

 全部、当たり前の事だったのに。

 

 起きても、いつも朝ごはんを作ってくれていた人はそこには居ない。

 風呂上りにもタオルはなくて、夜中に勉強をしていても静かな部屋に一人だけ。

 そして、いつも整えられていた玄関の靴は乱雑に放り投げられたまま。

 

 どうしてこうなったのだろう。

 幹夫は問題に悩むフリを、誰に向かってするでもなくしてみせた。

 けれど、だからといっていつものように「頑張ってるな」と優しい声が聞こえてくる事はない。

 

「……」

 

 そう、今夜も、幹夫はいつものように一人で勉学に勤しんでいる。

 いや、勤しむフリをしていた。

 昨日から、いくら集中しようとしても問題などはこれっぽっちも頭の中には入ってこないのだから、これは十分勉強をするフリと言っても過言ではないだろう。

 

 だったら、眠ればよいものを。

 

 そうは思うのだが、最近は夜中に節々が痛むせいもあって、あまり熟睡できていない。最初は筋肉痛かな?と思っていたソレは、どうやら成長痛というモノらしかった。

 

 実際ここ数か月で、自身の身長は人生で経験した伸び幅を軽く超えてきている。これは体も悲鳴を上げる筈である。

 寝る子は育つとはよく言ったものだが、幹夫自身は全く自分の満足のいく睡眠がとれているとは思っていない。

 

 なのに、今更どうして。

 そして、ハタと一つの原因に思い当たった。

 あぁ、寝てはいなが、ここ数か月間は朝起きてきちんと朝食を食べ、夜も思い切り食べている。結局、成長とは栄養が要だ。

 

 けど、今は。

 

 ここまで考えて幹夫は、頭を横に振った。

 

 集中しなければ、そう。自分は受験生なのだから。

 今が追い込み時だ。

 ただでさえ、数日間発熱により勉強が遅れているのだ。

 これ以上、他の受験生に後れを取る訳にはいかない。

 

 何回そう思った事だろうか。

 そして、何回勉強する手が止まっただろうか。

 

 幹夫は力なく持っていたペンを置くと、潔くテキストを閉じた。

 もう今日は勉強は止めよう。

 

 だからといって眠る気にもなれない。幹夫はふと視界の端にいつも彼が横になっていたソファが映るの感じた。

 ソファの背もたれには、いつも彼がかぶって寝ていた毛布もある。

 眠れずとも、一旦横になるほうがいいだろう、そう誰に言い訳するわけでもなく幹夫は吸い寄せられるようにソファへと向かった。

 

「あっきー」

 

 ソファに横になり毛布を被る。

 懐かしい香りがする。

 

「どこ行ったんだよ、いつ帰ってくるんだよ」

 

 ポツリと零れた言葉は、静かな部屋にある種の存在感を持って幹夫の耳に響いた。

 声に出してしまったせいで、それまで蓋をしていた感情の奔流が一気に濁流となって心に押し寄せてくるのを、幹夫は布団の中でひしひしと感じた。

 

「ごめん」

 

 謝る自分の声は、もしかして泣いているのではないかという程震えていた。自分の事なのに、もう泣いているのかどうかすら分からなかった。

 

「あっきー、ごめんなさい」

 

 一昨日の昼のことだ。

 

 幹夫が病院から戻ると、二人の男が下半身を露わにしてベッドの上に居た。

 ナニをしていたかなど、火を見るよりも明らかだった。

 

 幹夫はそれを見た瞬間、一気に頭に血が上るのを感じた。

 今まで、人生の中でこれほどまでに感情が天元突破したとこなどあっただろうか。

 いや、ない。生まれて初めてだった。

 

 しかし、おかしな事に、ソレは"裏切られた"という失望からくる傷を帯びた怒りでは全くなかった。

 そう、これは嫉妬。

 嫉妬による苛烈な怒りの塊。

 

 その感情のうねりの中、何故だか不意に彼との会話が脳内に過った。

 

『何それ、嫉妬?』

『だから、誰に対する嫉妬だよ』

 

 その時、幹夫はやっと自覚した。

 今この時、人生で初めてともいえる、強い感情の向けれられる先が。

 

 もう、とっくの昔に変わってしまっていた事を。

 己の嫉妬の向けられる先は、自身の恋人。

 そう、明彦へと向けられていたのだ。

 

 明彦に組み敷かれ、いつも自分がされているように触れられている彼。

 幹夫はその光景を見てハッキリと思った。

 

(俺も、アッキーに触れたい)

 

 いや、触れたいなんて生易しい感情は、恋人である筈の明彦が彼へと何の躊躇いもなく触れている場所を見て、次の瞬間には更に鋭利な感情へとすり替わった。

 

(俺も、アッキーに挿れたい)

 

 まさか、こんな事を思うなんて。

 いつも明彦に攻め立てられるばかりだった幹夫の心に初めて生まれた、抑えの利かない欲求。

 

 その欲求は、幹夫が今まで抱かれていた時に抱くモノとは明らかに、その種類も、そして欲の大きさも異なり、自身を大きく混乱させた。

 

 だからだろうか。

 

 今までにない激しい欲求と嫉妬の炎に、いつの間にか思ってもみない言葉が口をついて出ていた。

 

『お前なんか嫌いだ。気持ち悪い、出ていけ』

 

 自分自身、おかし過ぎると思った。

 元々、明彦の恋人という彼のポジションを奪ったのは、紛れもない自分自身だった筈なのに。

 

 明彦の事を確かに愛していた筈だったのに。

 彼を邪魔者扱いして追い出そうとさえしていた筈なのに。

 

 幹夫は明彦に嫉妬した。

 彼を組み敷いて、抱こうとしていた明彦に。

 

 出て行けと口にした後、既に幹夫は大きな後悔をする事になった。

 

 いくら怒りで周りが見えなくなっていたとしても、目の前の状況が圧倒的に彼にとって望まぬ状態だった事は、すぐに分かったからだ。

 なんなら、扉を開ける前は二人が喧嘩をしているのでは?と思い急いで扉を開けた程だったのだ。

 その位、二人の間に流れる空気感は情事の時のソレとはかけ離れていた。

 

 口をついて出たひどい言葉の後、既に状況は一転しており、明彦は笑顔で幹夫の方へと笑顔で駆け出してきたし、それを見る彼の目は驚く程怒りに満ちていた。

 彼がそんなに感情を表に露わにするなど、幹夫は初めて見た。

 しかも、彼は今にも明彦に殴り掛からん勢いで拳まで作っている始末。

 

 そして、まぁ、更におかしな事に幹夫はソレにすら嫉妬したのだ。

 こんなに彼の感情を引き出せるなんて、と。もう、今なら彼にまつわる全てを嫉妬の炎に変換できん勢いであった。

 

 しかし、その嫉妬の嵐も次の瞬間には終わりを告げていた。

 

 彼は幹夫を見た瞬間、一転して辛そうな顔をしたかと思うと「ごめん」という言葉だけを残し部屋を後にしたのだ。

 

 何故、彼は出ていってしまったのだろう。

 幹夫はそんなバカみたいな事を本気で思ってしまった。

 

 そんなの、答えは明白だ。

 幹夫が今しがた「出ていけ」と言ったからに違いないのに。

 それほどまでに、幹夫は部屋の扉を開けた瞬間から、冷静さを欠いていた。

 

 状況が状況だ。

 出ていけと言われてしまえば、彼はもう出ていくしかない。

 そうでなくとも、彼はどんな理不尽でも受け入れて先へと進んでしまうのだから。

 

 幹夫自身との出会いが、そうだったように。

 

 彼はよく自身を相手の気持ちの分からない冷たいヤツだと称する。

 それを聞くと、幹夫はいつも思うのだった。

 他人の気持ちが分からないなんて当たり前の事なのに。

 それで自分をそんな風に思う事自体が優しいという事に、何故気づかないのだろうと。

 

 彼は、ただの優しい人だ。

 優しさの術が全てを受け入れるという、なかなか他人には真似できないような方法を取ってしまう。

 彼を大事に思う人間からすると、随分困った人だ。

 

 彼の出て行った後の部屋で、明彦はおもむろに俺に抱きつくと、そのままベットに倒れ込んだ。

 このベットに、先ほどまで彼が居たのだ。

 少しだけ彼の匂いのするシーツに幹夫は顔を埋めると、そのまま明彦に抱かれた。

 

 その時の幹夫は、自分自身どんな気持ちでそのような状況に身を置いたのか、今ではもう思い出せそうもない。

 ただ、かなり頭の痛い事に、明彦に触れられながら、あぁこれがさっきまで彼の中に入っていたのか、なんて考えてしまい、いつもより興奮する自分に辟易としてしまった事だけはハッキリと覚えている。

 

 そこには既に明彦に対する欲求は一切含まれていなかった。

 幹夫はただ、明彦の向こうに彼を想いながら己の欲を沈める事に専念したのだ。

 

 だから気付かなかった。

 

 彼がいつの間にかこの家から居なくなってしまっていたという事実に。

 

 少しだけ気まずくて、昼は部屋から出なかった。

 ただ、人間というのはどこまでも図太く出来ているようで、どんな気持ちでも、どんな状況でも決まった時間にお腹がすく。

 幹夫は、扉を開けたら、そこには苦笑しながら「体は大丈夫か?」と、美味しそうな食事を準備してくれている彼が居ると、この時までは信じて疑っていなかった。

 

 あんな事があった後にも関わらず、随分おめでたいヤツだと思うだろう。

 しかし、その位、幹夫にとって彼は盤石な存在だったのだ。

 

 けれど、開けた扉の先には誰もおらず、食事の匂いもしなかった。

 そこから幹夫は何かに突き動かされるように、部屋を見てまわった。

 

 すると、明らかに彼の荷物が減っており、貴重品はどこにもなかった。

 一縷の望みをかけて幹夫は自分の携帯で、彼にメッセージを送ってみた。

 あの時はどうしても出てこなかった「ごめん」という言葉が、どうしてかスルリとメッセージにする事ができたのだ。

 

 しかし、そのメッセージは机の上で数度震えた彼の携帯電話であっけなく消え去ってしまった。

 コレだけはここにあっては困る。

 彼は貴重品と少しの荷物だけを持ってこの家から居なくなってしまった。

 

 幹夫たちとの連絡手段だけを置いて。

 

 彼は全てを受け入れる。

 常人が予想もできない受け入れ方を、たまに見せてくる彼の事だ。

 もしかしたら、と幹夫は心臓が嫌な音を鳴らし続けるのを感じた。

 

 起きたら、何か美味しそうな朝ごはんの香りがするのが当たり前だった。

 風呂に入ったら、フカフカのタオルがあるのもいつもの事。

 夜中に起きて勉強をしていたら「頑張ってるな」と言って甘い飲み物をくれるのもそう。

 

 全部が全部、本当に当たり前だった、筈なのに。

 

 幹夫は彼の居ない家で、後悔し続けた。

 

 彼の布団にくるまる今もそう。

 彼は居ない2日間、幹夫はこの家に居続けた。

 

 幹夫と彼の繋がりはこの家しかないのだ。

 他の場所など知らない。

 

 だから、幹夫はここに居る。

 たった2日間とは思えぬ程の、長い、長い時間を。

 

 時々痛む体に悲鳴をあげながら、今日もまた夜を明かす。