14:運命だから、

 

 

「ウォーレン・城・ジラルドさん」

「はい」

 

 ウォーレン・城・ジラルド。

 イギリス系アメリカ人の母と、日本人の父のハーフ。

 家族からは「ジル」という愛称で呼ばれている。

 

 十二歳までアメリカで育ち、中学に上がる頃に日本に来た。

 そして、日本で受けたバース検査で分かった。

 

 

「おめでとう、あなた。アルファみたいよ」

 

 

 俺はアルファだった。

 そして、それはどうやら「おめでたい」事らしい。

 

 

◇◆◇

 

 

 

 俺が、「運命」に疲れ始めたのは、いつからだっただろうか。

 

 

『ジル。結婚式どうしようか?』

『……お前はどうしたいんだ?希望はないのか?』

『俺は、こういうの決めきれないから。ジルが、決めて』

『……そうか、分かった』

 

 分かった、と言って俺は資料を見ながら、適当な式場と、適当な料理、適当なスケジュールを手早く組んでいく。

 いや、適当という言葉では聞こえ方に語弊があるかもしれない。俺は、きちんと考えて「適したモノ」を選択し「適した場所」へと当てはめていった。

 

 淡々と。そして、粛々と。

 

『これでいいか?何か不満はないか?』

『うん、ジルが決めた事なら……これでいいよ。ありがとう』

『……結婚式、楽しみだな』

『そうだね、ジル』

 

 静かに微笑む相手に、俺も微笑む。そう、俺はもうすぐ「運命の番」と本当に名実ともに結ばれるのだ。

 

 なんという幸福だ。そう、俺は幸福なのだ。

 俺はアルファだ。そして、そんな俺は「運命の番」と巡り合う事が出来た、“幸運な”アルファだ。

 

「運命の番」

 それはアルファとオメガにだけ与えられた、世界が決めた運命の繋がりだ。

 

「運命の番」は、出会えばすぐに分かる。そう、幼い頃から性教育で教えられてきた。ただ、そんな唯一無二の相手と出会えるのは稀で、一生自分の「運命」と出会えない者も居るらしい。

 故に『運命』と番う事の出来たアルファとオメガは、至上の幸福なのである、と。

 

『ふーん』

 

 そんなモノかと、運命を知らない若い俺は思った。

 知らないモノには執着しない。なにせ、その頃……中学の頃の俺には、もっと夢中な事があったのだ。

 

『次の文化祭は、来場人数を去年の倍に増やす!売上は前年比三倍を目指すぞ!』

 

 山奥の人里離れた男子校。小等部から高等部までの一貫した全寮制のその学園は、昔から各界の著名人の子供が集められる、日本でも有数の進学校だった。アメリカから来たばかりの俺は、そこに入れられた。

 

『いいか!?絶対に去年よりも……いや、過去のどの文化祭よりも、素晴らしいモノにしよう!』

 

 俺はそこで、生徒会長を務めていた。

 俺はアルファで、家柄も申し分なく、ハーフという事も相成って、その見た目の良さから、生徒の人気も高かった。だから、当たり前のように人前に立ち、誰もが無理だと思った事を、その手で成し得ていった。

 

『おいっ!皆、聞いてくれ!去年より来場者も売上も三倍以上になったぞ!これで来年の予算も大幅に組める!』

 

 正直、毎日が楽しくて仕方が無かった。俺は、昔から、困難や、数字や、勝負事が……大好きで、自他ともに認める負けず嫌いだった。

 それは、俺がアルファだからではない。俺は元々、そういう「性格」なのだ。

 

 

 そんな中、俺は出会った。

 自らの“運命”に。

 

 

『ジル!コイツ、俺の友達!すっごい良いヤツだから!ベータだけど仲良くしてやってな!』

『……ベータ?』

『っ!』

 

 その出会いは、偶然だった。

 いや、偶然を人は「運命」と、大仰に呼ぶのかもしれない。季節外れのやってきた転校生が、俺を『運命』と巡り合わせた。

 

『お前、ベータなんて嘘だろ』

『俺、ベータです!だって……ほんとに、ベータだったんです……俺も、こんなのっ初めてで』

 

 どうやら、俺の『運命』は、第一次検査の時はベータの診断を受けていたらしい。そして、実際にずっとベータだった。俺と出会った事で、その性が変化したのだ。そんな事、起こるのは稀だ。しかし、それは起こった。

 

『俺の所に来い、お前は俺が一生守る』

『……ジルッ』

 

 俺は目の前に現れた運命に、そりゃあもう翻弄された。それは向こうも同じだったようで、若い俺はすぐにアイツのうなじを噛んで『番い』になった。コイツのフェロモンが俺ではない誰かを惹き寄せる事が許せなかった。

 

 幼い俺達は「一生」や「運命」という言葉に、ともかく酔っていた。

 

『お前は、俺のモノだ』

『うん、俺はジルのモノだよ』

 

 番った直後、元々ベータのアイツは周囲からの嫉妬で、そりゃあもう大変な目に合った。「運命」という言葉に酔いしれ、全ての敵からアイツを守った。本能に従ったその行動は気持ちよく、俺を腹の底から歓喜させた。

 

『じるっ、も……早くキて』

『っはぁ、っは……っく』

 

 定期的に、そして突発的に訪れる発情期には、互いの境がどこにあるのか分からなくなる程、互いを求め合った。

 体中が「運命」を求め。そして「運命」からも求められる。腹の底から幸福だと、あの時は心の底から言う事が出来た。

 

 

 しかし、そのせいで失ったモノも確かにあった。

 

 

『お前には、もう生徒会長は無理だろう』

『え?』

『お前は……その、番を大切にしろ』

『……ああ、分かった』

 

 そう、運命に身を狂わせ過ぎた俺は「社会的地位」に見合うだけの責任を果たしきれなくなっていたのだ。

 

『ジル、ごめ……ジルの匂いが欲しくて』

『あぁ、かまわないさ。でも、本物が居るんだ。そんな俺の服なんかより俺の所へ来てくれないのか?』

『うんっ!』

 

 けれど、まだその時の俺は、それを不幸だとは一切思っていなかった。番が愛おしい。俺が居ない間に、俺の私物をかき集めて、全身で俺を求めてくる様も、可愛くて堪らなかった。

 運命を前にした俺は、それまでの人間性を一切失っていた。その頃の俺は、獣と何も変わりなかった。

 

 俺は「運命」によって、本来の人間性を「麻痺」させられていたのだ。

 

『愛してる』

『俺もだよ、ジル』

 

 確かに、当時の俺は幸福だった。

 しかし、その麻痺も少しずつ、少しずつ。日常という静かな川の流れに穿たれて鋭利さを失くしていった。

 

 

 しばらくして、俺は学生の身分を脱ぎ捨て、就職し、新しい世界へと飛び出した。そして、少しずつ俺は思い出した。

 

 

『今年度の営業成績の目標は、前年度比4.8%増だ!絶対に、コレを下回るな!』

『っはい!』

 

 大人の世界は、過去、俺が夢中になっていた、困難や、数字や、勝負事が……ゴロゴロと転がっていた。

 

『……あぁ、楽しい』

 

 俺は久々の感覚に、運命では感じられない喜びに、その身を震わせた。

 

◇◆◇

 

 

『あの、部長!俺も、そのプロジェクトに入れてください』

『……ジョー、でもお前。そろそろアレが来るだろ』

『あ、でも……』

『今回のプロジェクトは社を上げた大規模なモノだ。その、なんだ。大事な時に、居てもらわなければこちらも困るんだよ』

『……でも。あの……迷惑はかけません。お願い、します』

『分かった。何かあったら、すぐ相談しろよ』

 

—–すぐに、メンバーから外すからな。

 

 

 本当は、もっと積極的に参加したい仕事が山のようにあった。でも、無理は出来ない。

 

 

『二次会へは、俺は行けない。皆だけで楽しんでくれ』

『そうか、おつかれ。じゃあな』

『……ああ』

 

 

 パートナーの発情期。

 それが、本来の俺の心が沸き立つ場所へ向かう事を拒んだ。俺ならもっとやれる。もっと上手くやれる筈なのに。しかし、俺には発言に伴う責任を果たせない。だからこそ、口をつぐむより他なかった。

 

 悔しくて堪らなかった。

 

『ジル、ごめんね。俺、これからは抑制剤を飲むようにするから』

『パートナーの俺が居るのに、そんなモノ必要ないだろう。俺は何も気にしちゃいない』

『……ジル、でも。俺も』

『この話は終わりだ。自然に来るモノを、薬で止める必要なんてない』

『そう、だね』

 

 しかし、それは俺自身が望んだ事でもあった。

 どんなに悔しくとも、運命を前にすればその気持ちは全て吹き飛ぶ。庇護欲を誘う愛らしさ。全てをかなぐり捨てても幸せにしてやりたいと思うアルファの本能的真理。その中で、発情期を迎えたパートナー前に、俺は一瞬でそれまでの思考を吹き飛ばす。

 

 

『部長、俺も沖縄プロジェクトに参加させてください!俺なら必ず数字を上げられます!』

『何言ってるんだ。ジョー。お前、もうすぐ結婚するんだろう?あそこは今地獄だ。行ったら最後、家族との時間なんて持てない。悪い事は言わない。今は、プライベートに専念しろ』

 

 

 本能と意思。

 

『……くそっ!』

 

 その齟齬が年々大きくなっていく。正直、どうしたら良いのかわからなかった。あれほど熱く甘美に感じていた『運命』が、成長した俺にとっては、決して開けられない『檻』になってしまっていた。

 

 

 

 そんな、ある日の事だった。

 

『……ジル、一緒に占いに行かない?』

『占い?俺はそう言ったモノは、あまり』

 

 信じない。

 そう言おうとした俺の言葉を、アイツは最後まで聞かなかった。

 

『お願い、一緒に来て。ジル』

 

 初めてだった。俺の運命が、強い意思を持った目でそんな事を言ったのは。

 その目に、俺はただ頷くしかなかった。

 

『……分かった』

 

 

◇◆◇

 

 

『……手つなぎさん?目隠しさんの間違いだろ』

『ジル!失礼だって!』

 

 

 その占い師は明らかに「変なヤツ」だった。

 目隠しなんかして、それなのに、ごくありふれた格好のスーツ姿。正直、どこからどう見ても不審者以外の何者でもない。

 こんなモノに世の女共は夢中になるのだから、本当にワケが分からない。頭がおかしいとしか思え……。

 

 と、思った所で俺の隣で、占い師に謝る俺の運命に、俺は考えを改めた。それ以上言うと、完全にブーメランになってしまう。

 しかし、俺の不躾な態度を前に、相手は酷く穏やかだった。

 

『ふふ、いいですよ。俺が“目隠しさん”なのは、その通りなので』

 

 いや、穏やかというより一切此方の事など意に介していない。そんな感じだった。

 ただ、手を繋げと言われた時は、正直嫌悪しかなかった。なんで、こんなワケの分からない……しかもベータの手を握らなければならないのか。

 

『ジル、お願い』

『……分かったよ』

 

 そう思ったものの、隣には何故か真剣な顔で占い師の手を握るアイツの姿。ここまで来て四の五の言っても仕方がない。

 

 俺は指先だけで、ソッと占い師の手に触れた。

 ただ、話される内容はごくごく一般的な、誰にでも当てはまるような内容ばかり。世界から「運命」を約束された俺達に対して、こんなエセ占い師の言葉が通用する筈もない。

 

 それなのに――。

 

 

『別に、今の運命と番わなくても死にませんよ』

 

 

 占い師は、目隠しをした状態で俺の方を見てハッキリと言った。俺だけ取り残されて、こんな変なヤツと二人きりにされて、正直苛立っていた。いや、苛立っていた筈だった。

 しかし、占い師は俺の言葉など気にせず淡々と言葉を続ける。

 

『幸福は“運命”だけで決まるワケではないからです』

『大丈夫ですよ。今の運命と番わなくても死にはしません。ベータの俺達にも出来るんです。アルファの貴方に、自分自身を幸福に出来ないワケがない。それに』

 

—–自分の意思より強い“運命”なんて、この世界にはありませんから。

 

 

 まるで、誰にも言えなかった俺の心の全てを覗き見られているような気持ちだった。

 

 

『……意思は、運命に勝る。本当に?』

 

——おめでとうございます。貴方はアルファですよ。

——運命の番と結ばれるなんて、お前はなんて幸福なんだろうな。

——ジル。お父さんみたいに、責任もって一生大事にしてあげるのよ?

 

 本当に大丈夫だろうか。「運命」に従う事は、何よりも幸福ではないのか。アルファの俺はオメガを幸福にする義務があるのではないか。

 

『……「運命」を手放して、俺は幸せになれるのか?』

 

 その自問自答の度に、声が聞こえる。

 

—–大丈夫。運命と番わなくても死にませんよ。

 

 俺はあの占い師の言葉が『大丈夫ですよ』と口元に笑みを浮かべて伝えてくる。まるで、幼い子供に言い聞かせるように。見えていない筈の目が、優しく微笑んでいるような気がした。

 

—–自分の意思より強い“運命”なんて、この世界にはありませんから。

 

『確かに、その通りだ』

 

 自らの「意思」と、世界が決めた「運命」。

 その狭間の檻に閉じ込められていた俺。コイツはアッサリとそのカギを開けたのだった。

 

 

『なぁ、少し。話さないか?』

『うん、いいよ。ジル。話そう』

 

 

 その日、俺は初めて運命ではなく、“アイツ自身”の目を見た気がした。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 結局、俺達は婚約を解消した。

 ただ、番の解消を解く事はなかった。そんな事をすれば、オメガであるアイツが今後、まともな人生を歩めなくなる。それだけはどうしても避けたかった。

 

 そんな俺に、アイツは見慣れた顔で笑った。

 

『ふふ。ジル、君は本当に真面目だなぁ』

『……真面目なものか。本当にすまない』

『いいよ。俺も……同じだから』

 

 そう、俺だけではなかったのだ。

「運命」に疲れ果てていたのは。

 

『俺も……もう普通に生きたいんだ。オメガの本能は、普通に生きるにはキツ過ぎる』

 

 アイツは、元ベータだ。

 定期的に訪れる発情期も、本能的にアルファを求める性も、オメガ性によりもたらされる全ての欲求が、アイツから“当たり前の生活”を奪っていた。今なら分かる。俺達は“運命”によって、自らの“意思”を抑え込まれていたのだ、と。

 

『大丈夫。今はね、俺みたいなオメガも少なくないみたいで。抑制剤も体に負担がかからないものが多いから』

『そう、なのか』

 

 番関係を残したままであれば、アイツのオメガとしてのフェロモンが、他のアルファを惑わす事もない。それに、アイツはずっと抑制剤を飲みたがっていた。それを拒んでいたのは、他でもない、この俺だ。

 

『……その金は、俺が払う』

『いい。ここからは、俺は俺の人生を生きるから。ジル……いや、ジラルド。君も、自分のやりたい事を全力でやるんだ。だって、人生は一度きりしかないんだから』

『……そうだな』

 

 どこかスッキリした顔で口にするアイツは、妙に幸せそうで。

 

『ねぇ、ジラルド』

『どうした?』

 

 そんな、“元”俺の運命を前に、あの占い師の言葉を思い出した。

 

『占い、行って良かったでしょ?』

—–自分の意思より強い“運命”なんて、この世界にはありませんから。

 

 

『あぁ、行ってよかった』

 

 

 その日、俺は自らの意思で、再び“手繋ぎ占い”の予約を取った。

 

 

◇◆◇

 

 

 婚約を解消してからの俺は、それまで抑え込んでいた全ての“意思”を蘇えらせた。

 

 

『今この会社で動いているプロジェクト。全部に参加させてください』

『おいおい、待て。そんな事をして、自分の仕事はどうするんだ』

『やれます。やらせて下さい!』

 

 それまでセーブしていた仕事に、俺は全力で取り組んだ。そう、元々の俺の性質はここにある。

 困難や、数字や、勝負事が……大好きで、俺は自他ともに認める負けず嫌いだった。中学時代を最後に、それら全てから目を逸らしていた。

 

 しかし、今なら本気が出せる。

 

『営業部の関わるプロジェクトには、全部参加させてください。迷惑はかけません』

『……わかったよ。各担当には、俺から連絡しておこう』

『ありがとうございますっ!』

 

 そこから、俺の毎日は目まぐるしかった。会議に次ぐ会議。営業成績も落とすワケにはいかない。更に各課との連携も大事だ。俺は、ともかく数字を追い、順位の付くモノは全てトップを目指した。

 

『どうして、ここでそんな腑抜けた意見が出るんですか!?それで数字が達成できると思っているんですか!?』

『そうは言うが!お前のやり方はあまりにも現場の意見を無視し過ぎている!このままじゃ企画自体が空中分解するぞ!』

『それでも、その中で実行する為にはどうするか、それを考えるのがこの場所の意義じゃないんですか!?』

 

 その中で、少し……まぁ、いや。多少の軋轢を生む事もあった。

 その辺は、学生時代とはまるきり違う。あの頃は、皆俺の言う事に従ってくれていたが、会社ではそうはいかない。特に俺には、個人の実績しかない。こういった、プロジェクトの中で意見を通す“実績”や“経験”は殆どなかった。

 

 でも、それがむしろ俺には楽しかった。

 

『それでも、やると言ったらやるんです!』

 

 あぁ、自らの意思に従って動く事の、なんて気持ち良い事だろう。反対意見など、俺が実績さえ上げれば、そのうち勝手に――。

 

『あの、ひとついいですか?』

『なんだ、また何か意見か?』

『いいえ、意見ではなく質問です』

『質問?』

 

 そうして、軽く手を上げた相手に、俺はヒクりと眉が動くのを止められなかった。ソイツには見覚えがあった。

 そして、この流れにもまた……デジャヴを感じた。

 

『やると言ったらやる……はい。確かにそうですね。えっと……ジョーさんの考えは素晴らしいと思います』

 

 ニコリと柔和な笑みを浮かべて此方を見つめる、ベータの男。

 少し動く度にズレかかるメガネのせいで、ソイツはいつも慌ててメガネを抑えていた。

 

『三久地先輩。下手なお世辞は結構です。本題をどうぞ』

『あっ、はい。だとしたら、まず何をしていけばいいんでしょうか』

『まず?』

『はい、そうです。大きい目標は分かりました。そこに到達する為のプロセスも、凄く分かりやすかったです』

 

 

 三久地 吉。

 俺の二個上の先輩。他の参加メンバーと比べると、特にコレと言った能力や発案力があるワケではない。事務部からの数合わせ要員。

 

 そう思っていた時期もあった。しかし、どうやら違った。

 

『ジョーさん、俺にも出来る。この行動計画の第一歩目を教えてくれませんか?』

 

 俺の参加する会議の全てに、ソイツは居た。

 三久地が、微かに微笑みながら発言をしたその瞬間。会議の中に漂っていた重い空気が、一気に変わったのを俺は肌で感じた。

 

 

◇◆◇

 

 

 俺が自らの能力を、全て仕事に傾けるようになる中で、同時にもう一つの別の習慣が出来上がった。

 

『来たぞ、手つなぎさん』

 

 週末、俺は必ずあの占い師の元に通うようになっていた。番に無理やり連れて来られているワケではない。自らの意思で足を運ぶ。俺を夢中にさせる“数字”も“勝負”もない、その場所に。

 

『こんにちは、ジルさん。今日も午前中二時間、そして午後六時間。どうぞよろしくお願いします』

『あぁ、頼む』

 

 いつものようにゆったりと告げてくる相手は、やはり今日も変わらず目隠しでスーツだった。そんな相手の前に、俺は現金の束を置く。

 

『それと、これが今日の分の金だ』

『あ、あの……ジルさん。後払いで大丈夫なんですけど』

『後も前も変わらん。それと、いいのか?その目隠しを取って、現金を確認しなくても。少ないかもしれないぞ』

 

 コイツが目隠しを取る事などしないのを分かっていながら、俺は毎度期待を込めて口にする。ただ、毎度その期待は裏切られる。しかし――。

 

『ジルさんがそんな事しないの、分かってるので』

 

 口元に薄く笑みを浮かべながら、俺の望み通りの事を口にする手つなぎさんに、俺は静かに息を吐く。

 

『ふーーーっ』

 

 あぁ、良い。

 この人と居ると妙に落ち着く。数字も競争も、勝ち負けも。そして、運命を前にしたような激情もない。手つなぎさんは俺の欲しい言葉を、何の意図もせずスルリと差し出してくる。

 俺が人生を左右されたあの一言にしたってそうだ。

 

—–お前は、運命と番わなくても死なないと言ったな。

—–え、何の事でしょう?

 

 手つなぎさんは、俺の事など欠片も記憶に残っていなかった。

 この人にとって、俺の人生を変えたあの一言すら、その他大勢に対して口にする言葉と、何ら変わらないらしい。まぁ、それもそうだ。手つなぎさんはそういう職業だから。仕方が――

 

——気を付けてお帰りください。

 

 無いワケあるかっ!!

 そう思った瞬間、俺は元来ある“負けず嫌い”が激しく腹の底から燃え滾るのを感じた。そして、気付けば占いの予約を俺だけで埋め尽くすようになっていた。

 

『お金を仕舞わせていただきますね』

『ああ』

『……あ、あれ?』

『ここだ』

『っぁ、はい』

 

 そう言って手を握り札束を握りしめさせる。その瞬間、目隠しの下で微かに頬の色が淡く色付くのを見た。

 

『……さぁ、金は仕舞ったな。だったら手を』

『はい』

 

 ここには、俺の追い求める“数字”も“勝負”もない。しかし、この人を前にすると、俺は俺の中の負けず嫌いの欲求と、自己肯定感の二つが上手い具合に撫で上げられてしまう。

 

『もっと金額を上げるといい』

『……んっ、ぅ。やっ』

『俺以外、予約なんか出来ないように』

『っぁ、……ッひぅ』

 

 指を絡め、指先で手の甲を撫で上げる。毎週毎週、そうやっていやらしく手つなぎさんに触れるのが常習化していった。こうすれば、俺の事など「客の一人」と認識していた筈の手つなぎさんの感情を大きく乱す事が出来ると知ったからだ。

 

『ん?どうした、どこか具合でも悪いのか』

『……い、いぃえ。手が、その』

—–気持ち良くて。

 

 そう、目隠しをしたまま頬を染める相手に、俺は冷静に思ってしまった。

 

『……まいったな』

『え?』

『いいな、手つなぎさん。アンタは、とても素晴らしい』

 

 これは、俺の方が夢中になってしまっている、と。

 ついこないだ、運命の番と別れたばかりで、なんとも不誠実だとは自分でも思う。後ろめたさもある。でも、いいじゃないか。コレを、俺の“運命”にすればいいのだから。

 

 この人を俺のモノにして、今度こそ“最後まで”大事にすればいい。

 

『っひ……んっ、っぅ』

『本当に良いな……』

 

 手つなぎさんは、ベータだ。

 

『だから、これは……確かに俺の“意思”だな。なぁ、手つなぎさん』

『……ぅ、ちょっ。っひ』

 

 顔を真っ赤に朱色に染め、甘い息を吐く。もしかして、下半身も反応しているのかもしれない。何度も何度も、落ち着きなく椅子に座り直している。そうやって、全身で俺の与える快感に酔う手つなぎさんに、俺はほくそ笑んだ。

 

『俺も、気持ち良いよ。手つなぎさん』

 

 本能に左右されていない劣情は、ともかく温くて心地良かった。

 

 

◇◆◇

 

 

 そんなある日の事だった。

 

『ジョー!お前いい加減にしろよ!上から言うのは簡単だけどな!現場の事も考えろ!』

『現場は、上からの期待に応えてこそでしょう!?職務放棄されるという事ですか!?』

『あのなぁっ!何でお前はそんな言い方しか出来ないんだ!現場の事を少しは――』

『現場を貴方の怠慢の理由に使わないでくださいっ!』

『なにっ!?』

 

 その日の会議も、俺の意見で周囲は大いに沸いていた。

 いや、沸いていたは……良く言い過ぎか。あぁ、そうだ。今日も会議は俺の無理難題のせいで、おおいに“揉めて”いた。

 

『あの、すみません。一つ良いですか』

 

 しかし、揉めた傍からアイツ。

 三久地 吉が口を挟む。最早、いつもの流れと言って良かった。

 

『すみません、俺が勉強不足で分かっていないので、技術部の事を教えて頂きたいんですが』

『……何だ。三久地』

『この……えっと、ジョーさんの意見を全くやらなかった場合と、全部取り入れた場合。技術部のどの行程に、どのくらい負荷がかかるのか知りたくて。作業工程の一覧とか……見せて頂いてもいいですか?』

『まぁ、確かにそうか。ビジュアル化した方が分かりやすいか。ちょっと待ってろ。デスクから取ってくる』

『お願いします!あと、一緒に現場の方とか……柏木さんとかも来て頂けると……俺がイマイチ、ピンときてなくて。直接教えて欲しくて』

『柏木か……いいな。連れて来よう』

 

 先程まで俺の意見に『現場の事も考えろ』と突っぱねていた技術部が、三久地の言葉で途端に柔和になる。しかも、「やる」か「やらないか」の二者択一が……いつの間にか「やった場合どうなるか」という意見に、知らぬ間にシフトさせられている。

 

 しかも、それだけじゃない。

 

『そうだ、三国さんはどう思われますか?この案の場合の予算とか。概案で良いので、すぐ、計算出来たりしますか?』

『えー……まぁ、出せなくは無いけど』

『三国さん、仕事早いから』

『早く終わらせてサボりたいだけー』

『結果は同じですよ。凄いです』

『あいあい、ちょっと待ってな』

 

 更に、実力はあるのに、サボリ癖があり手を抜きたがる総務部長の三国さんも、三久地の言葉で椅子の背もたれから体を起こす。

 

『おい、三久地。作業工程持ってきたぞ。あと、柏木も』

『ありがとうございます!柏木さんもお久しぶりです』

『おっ、久々』

『ふふ。……あ。あの、ジョーさん。これ、どうですか?』

 

 俺に軽く会釈しながら手招きをする三久地先輩に、俺は先程までの燃え上がっていた気持ちが、静かに鎮火していくのを感じた。

 

『……はい。ありがとうございます。三久地先輩』

 

 ギスギスしていた会議の空気は一気に消え失せ、資料と現場の技術者との建設的な意見交流会に変わる。

 

『じゃあ、一旦コレでやってみるか』

『よろしくお願いします』

『おう。難しそうなら、また報告する』

『はい』

 

 そして、ふと気付けば三久地先輩はまた、ひっそりと会議の脇に身を潜めていた。まるで最初から、何も発言などしなかったかのように。

 

『……三久地先輩』

『あ、はい。ジョーさん。どうされましたか?』

『渡しておきたい資料があるので、俺のデスクまで来て貰っていいですか?』

『わかりました』

 

 三久地 吉。

 コイツが俺同様、現状、社内に発足する全てのプロジェクトに参加する唯一の人間だ。しかも、自薦でプロジェクトに入った俺とは違い、他薦で加入させられている。

 

—–三久地?あぁ、事務部のヤツだろ。アイツが居ると、会議がスムーズに回るんだよ。だから、重要なプロジェクトには必ず入るように上からお達しが来るんだと。

 

 ふと、課長の言葉が頭を過る。

 そう、三久地先輩自身は特に何もしないのだ。会議の空気が淀んだ瞬間だけ、ほんの少し言葉を挟む。そして、周囲から不協和音を取り除く。そう、まるで――。

 

『ジョーさん?』

『あ、すみません。コレです』

 

——運命と番わなくても死にません。

 

 まるで、相手がどんな言葉を求めているのか知っているかのように。

 そういえば、三久地先輩。手つなぎさんの声に似ている気がする。

 

 ふと、過った考えと共に、俺が資料を手渡した時だった。

 

『いてっ』

『っ!大丈夫ですか?』

『あ、はい!全然、大丈夫です。紙で切っただけなので』

 

 そう言って書類を差し出す左手の人差し指には、紙によって綺麗に傷がついていた。そして傷からスッと赤い血が浮かび上がっている。

 

『絆創膏をした方がいい』

『……あ、いえ。持ってないので』

『総務から貰ってくればいい。あそこには救急箱も……』

『大丈夫です。このくらいだったらすぐに止まるので』

 

 そう言ってアッサリと俺に背を向ける三久地先輩は、やはりどこか手つなぎさんを彷彿とする。

 

——お気を付けてお帰りください。

 

『まさか、三久地先輩が?』

 

 週末占い師、手つなぎさん。

 うちの会社は、先だって副業が全面的に許可されたところだ。そして「週末だけ」という占いスタイル。着ている服がスーツという事。

 

 ただ、断定するには、三久地も手つなぎさんも、あまりにも“一般的”過ぎた。

 当てはめようと思えば、その特徴は誰にでも当てはまる。声も、断定するには中々曖昧なところだ。

 

—–いたっ。

 

『明日、確認してみるか』

 

 

 今日は金曜日。明日は占いの日だ。

 

 

◇◆◇

 

 

 三久地先輩は、手つなぎさんだった。そう、手つなぎさんの親指にも、昨日の三久地先輩と同じ場所に傷があったのだ。

 

 

『手つなぎさん、この傷。どうしたんだ?』

『昨日。ちょっと紙で切ってしまって……』

『へぇ、そうか』

 

 予想はしてた。だから、別に驚きはしなかった。薄っすらと親指に入った傷を、俺は指でスルリと撫でる。

 

『んっ、ちょっ。……っぁ、ジルさん、痛いです』

『あぁ、悪い。こうして手を繋いでいると……当たってしまうんだ』

『ひっ、んっ』

『……絆創膏を貼らないのが悪い。貼るように言ったじゃないか』

 

 ねぇ、三久地先輩?

 しかし、その後。俺がどんなに三久地先輩の前で自らをアピールしても、ちっとも俺には気付いてくれなかった。

 正直、三久地先輩と違って、俺には特徴がある方だと思っていたが、彼の前だと、どうやら俺は有象無象と何ら変わらないらしい。

 

『すみません、ジョーさん。どちらかのプロジェクトで、仕事が被ってたりしましたか?その場合、行く前にちゃんと引き継ぎを……』

 

 

 俺は、三久地先輩にも、手つなぎさんにも、ずっと負けっぱなしだ。

 負けず嫌いの俺にとって、ソレは悔しいようで、何故だかとても嬉しかった。

 

————

——–

—-

 

「ん、ぅ……」

「……手つなぎさん?」

 

 穏やかな寝息が聞こえる。西日が眩しいのか、目隠しの取れた顔を隠そうと、俺の体に擦り寄ってくる。

 

「あぁ、堪らないな」

 

 その寝息に、俺はぼんやりと天井を見上げた。もうすぐ、予約時間が終わる。それなのに、俺と手を繋ぐ相手は、未だに服一つ纏っていない。まだ、しばらくこうしていたい。

 

「いい」

 

 自分に、こんな穏やかな情事の後が訪れるなんて思いもしなかった。なにせ、いつも番とのセックスの後は、泥のように眠り、目を覚ましても再び互いのフェロモンに当てられ、体を求め合うような激しいモノしか体験してこなかった。

 発情期が終わる頃には、お互い体はボロボロ。正直、きつくて仕方が無かった。

 

けれど、今はどうだ。

 

—–ジル。仕事もあるんだ。恋愛なんて、気楽にやろうよ。

 

「……気楽だ。それに、なんだか楽しかった」

 

 こんなのセックスで良いのだろうか。もっと、ちゃんとすべきでは。ふと、過った考えに懐かしい声が響いた。

 

——ジルは本当に真面目だね。

 

 アイツからも同じように言われていた。アイツも元ベータだ。自分では意識した事は無かったが、どうやら、俺は真面目らしい。

 知らなかった。番ったら、幸せにしなければならないと思っていたし、最後まで添い遂げる覚悟が要るのかと思っていた。でも、そんなに深く考えなくていい。

 

「苦しくなったら離れればいい、か。いいな、ベータの恋愛は……こんなにも気楽なのか」

「……ふふ」

 

 微かに聞こえてきた笑い声に、隣で眠る“運命”ではない相手を見下ろした。

 すると、そこには擦り寄って来た拍子に、俺の右手に手を添える手つなぎさんの姿があった。起きたワケではないようで、楽しい夢でも見ているのか、口元が微かに微笑んでいる。次いで、その口元から更に楽し気な声が漏れ出た。

 

「……じる。きもちぃ」

「なんだ。夢でも、俺とセックスしてるのか」

 

 でも、さすがにもう勃たない。

 俺は手だけをしっかりと繋ぎながら、眠る相手に、先程までの情事の姿を重ねた。

 

『っぁん……じる。もっと』

 

 耳の奥に響く甘い声に、静かに手つなぎさんのうなじを撫でた。そこには、俺の歯型の痕が幾重にも重なって残されている。

 噛んでも番にはなれない相手だが、俺は何度も何度も彼のうなじを噛んだ。

 

「あー、幸せだ」

 

 ふと漏れた言葉に、俺はハッとした。

 どうやら、俺は「運命」と番わなくても、幸せになれたらしい。