3:くつしたの可愛い癖

 

 

 警察犬訓練士はあくまで警察犬の育成を専門とする技術職だ。

 育成が終了したら、現場へと犬を送らねばならない。ただ、それまでの犬に囲まれて過ごす生活にも、全く不満がなかった為ずっと独立を踏み切れずにいたのだ。そんな俺の背中を押したのは、訓練所の所長……先生の一言だった。

 

『アンタも、自分の犬を持ちな。人生のパートナーが人間じゃなきゃダメなんて事はないからね』

『人生のパートナー?』

『そうさ。私は夫とはダメだったけど、犬とはずっと上手くやってこれた。アンタもそのクチだと思うけどね』

 

 御年、八十五歳。

 バリバリに現役の女性訓練士である彼女は、訓練士の界隈ではもはや生ける伝説扱いだった。出た大会には必ず表彰台に登る。どんな犬でも彼女の手にかかれば嬉しそうに従う。

 

『犬はいいよ。最高さ!』

『……そんなの、知ってるよ』

 

 そう、軽やかに笑う彼女は、十八歳の頃から、ずっと俺の憧れだ。俺が心の底から「先生」と呼んだのは、後にも先にもこの人しか居ない。

 

『いいや、アンタはまだ何もわかっちゃいないね。この若造が』

 

 そりゃ、先生に比べたらな。

 言いかけて止めた。面倒だからじゃない。先生には言わなくても伝わってしまうからだ。そんな俺に、先生はニヤリと不敵に笑ってみせると、迷う俺の背中を勢いよく叩いた。

 

『そういえば、アンタにピッタリそうな子がウチで生まれたけど、どうする?』

『……』

 

 先生の目は言っていた。

 アンタもそろそろうちから出て一人立ちしな、と。

 

『わかった。その子、もらう』

『じゃあ話は早い、この後うちに来な!あの子もアンタに会いたがってるよ!』

 

 まだ会った事もない、生まれたばかりの犬に対して、どうして「俺に会いたがっている」なんて言えるのか。でも、先生が言うならそうなのだろうと、俺は疑いもしなかった。

 

『先生、今までありがとうございました』

『はいはい、いってらっしゃい』

 

 そんな先生のカラリとした笑顔に背中を押され、俺は長年世話になった訓練所を後にする。俺を見送る彼女の目は、訓練した犬を送り出す時と同じ目をしていた。

 どうやら先生にとっては、俺は犬と同じだったようだ。

 

『……まさか、先生に人生のパートナーの面倒までみてもらえるなんてなぁ』

『わふっ!』

 

 俺の傍らには、先生の家の犬が産んだジャーマンシェパードの男の子がキラキラとした目でこちらを見ていた。キラキラした瞳と目が合う。同時に、目についたのはその子犬の可愛らしい後ろ足だった。

 

『ははっ、お前後ろ足だけ靴下履いてんのか!』

『わふっ!』

『名前、くつしたでいいか?俺、名前付けんの苦手だから』

『わふっ!わふっ!』

 

 何が嬉しいのか。何が楽しいのか。なんでそんなに俺の事を大好きだという目で見るのか。先生の家で初めて対面した時からそうだった。

 だから、そんな子には必ずこう言って出迎えるようにしていた。

 

『久しぶり、くつした。また俺の友達になってくれてありがと』

『わふっ!』

 

 俺は大人になっても、変わらず「前世は犬だったんだ」と信じていた。だから、俺を見て嬉しそうにする子は前世で友達だった犬という事にしている。だって、そう思った方が人生が楽しくなるから。

 

『一生大切にするからな。また一緒に遊ぼう』

『わふっ!』

 

 虹の橋を渡ってサヨナラした友達と、これから先も再会できるかもしれない。それは、人間よりも寿命の短い彼らと共に歩むのに、必要な心の処世術でもあった。

 今は赤ちゃんでも、必ず俺よりも先に年を取る。ただ、訓練所と違うのは、今回は最後まで俺が面倒を見ないといけないという事だ。

 

『先生もお前も、俺より先に死ぬなんて信じられないなぁ』

『わふっ!』

『頼むから、出来るだけ長生きしてくれよ』

『わふっ!』

 

 退所して変に感慨深くなっていたせいか、そんな事を考えていたこの時の俺は……まだ知らない。

 三年後、普通に俺の方が先に死ぬなんて!

 

『……あ、れ』

 

 ワンワンッ!ワンッ!

 遠くで、くつしたの鳴き声が聞こえる。くつしたが外で吠えるなんて滅多にない。しかも凄く興奮しているようだ。これはなにかあったに違いない。落ち着かせないと。

 ただ、ピクリとも体が動かない。あれ、なんでだ?

 

『……っ、っぅ』

 

 そりゃあそうだ。

 なにせ俺は突っ込んできた車に、見事吹っ飛ばされてしまったのだから。

 

『大丈夫ですか!?』

『救急車!救急車を呼んで!』

 

 おぼろげになっていく視界の中で、目の前にスマホが落ちているのが見えた。そこには【ダウンロード完了】の文字。

 

『く、そ』

 

 突然の事とは言え、ちゃんと前を見ていれば避けられたかもしれないのに。歩きスマホなんかしてたせいで、まさかこんな事になってしまった。

 

『やっ、ぱ……いえに、かえって。ダウンロー、ドすりゃ、よかった』

 

 日本で最も売れているRPGゲーム【ソードクエスト】

 その、初のスマホゲームの配信開始日。それが今日だった。

 使い魔の育成要素も豊富で、たまたま見た狼のモーションもリアルで可愛かったから、どんな狼が育成出来るのかとワクワクし過ぎて我慢できなかった。だから、くつしたの散歩の途中にダウンロードをし始めた。

 

 そしたら、このザマだ!

 畜生、歩きスマホなんかしてたせいでっ!というか、突っ込んでくんなよ車っ!

 

『大丈夫ですか!しっかり!』

『……く、つ』

『靴?靴がどうしました!?』

 

 いや、違うわ!

 そこに居る犬。くつしたって言うんです!道路に飛び出すと危ないんで、リードを持っててやってくれませんか!?

 

『くつ、した……』

『靴下?靴下が苦しいんですか!?脱がせますね!』

『……ち、が』

 

 いや、こんな血みどろの中、靴下が苦しいワケあるか!もっと苦しい所は他にあるだろ!と思ったものの、それを否定するのはさすがに無理そうだった。なにせ、もう視界は殆ど真っ暗だったから。

 

『わふっ!わんっ!』

 

 途切れていく俺の五感を最後に揺さぶったモノ。それは、くつしたの聞き慣れた鳴き声だけだった。

 

 

◇◆◇

 

「わんっ!」

「っ!」

 

 突然の鳴き声に俺はハッと意識を取り戻した。目の前には、くつしたそっくりの姿をした仔狼の姿。狼だというが、この子の見た目は殆どジャーマンシェパードだ。

 

「歩きスマホはダメだ。もう、絶対しないぞ」

 

 まぁ、コッチの世界にスマホねぇけど。

 当たり前の事なのだが、死んで改めて気付いた。歩いている時は前を向いてなきゃだめだ。うん。命をかけて気付いたにしては、バカみたいな気付きだ。

 

「こういう事って本当にあるんだなぁ」

 

 そう、俺は死んだのだ。そして、気付いたらこの世界で前世の記憶を残したまま新しい人生のスタートを切ってしまった。

 そこから向こうで三十年、コッチで三十年。同じだけの月日を生きてきた。

 

「あーぁ。また人間だった。どうせ生まれ変わるなら、俺も狼が良かったのに」

 

 結局、ゲームの世界に生まれ変わっても俺がやってるのは現代でやっていた事と同じだ。

狼専門の調教師(テイマー)。それが、俺のコッチの世界での生業だ。

 

「ん?」

「……」

 

 すると、それまでせわしなく吠えていたくつしたがジッと俺の目を見つめていた。よく見ると、口の隙間から微かに舌を出している。これは――。

 

「もう、おやつはおわり」

「……くぅ?」

 

 くつしたがおやつを欲しがった時にする癖と同じだ。

 

「っはは、お前。ほんとくつしたみたいだな!」

 

 見た目だけじゃなくて、まさかこんなところまで似ているとは。俺はなんだか目の前にいるのが本当に前世で飼っていたくつしたなんじゃないかと思えて、思わず手を伸ばしかけた。

 

「ぐるっ!」

「っ!」

 

 その瞬間、牙を剥き出しにして唸るくつしたに、俺は急いで腕を引っ込めた。

 

——–可愛いからと言って迂闊に手を出すと、腕ごと持っていかれる。

 

「……いけね。今日会ったばっかりの相手に不用意に触ろうとするとか、調教師(テイマー)失格じゃねぇか」

 

 俺はその場から立ち上がると、ひとまず家に帰る事にした。くつしたを撫でるにも、まず先にやる事がある。

 

「おい、今日からお前のこと躾けてやるから覚悟しろよ」

「……」

 

 一年なんてあっという間だ。それまでにこのワガママ狼様を躾けて大会で表彰台に乗せなければならない。

 

「ほら、行くぞ……って、おい!」

「……」

「いや、だからっ!いくらベロ出してもおやつは無しだからな!?」

 

 真っ黒な瞳が、俺をジッと見上げながらピンク色の下を小さく出す。そのあざとく無邪気な表情ときたら。

 

「可愛い過ぎるだろ!?」

「……」

 

 自分が可愛いのも、俺がその顔に弱い事を既に分かっているぞ、とでも言いたげなその顔に、無性に悔しさが込み上げてくる。でも、それより上回ってしまう「かわいい」という感情。でも、ここは堪えろ。堪えなければ。

 

「おやつは無しっつってんだろ!ほら、行くぞ!」

「……」

「だーかーらー!もう、笑わせるなって!」

 

 俺は腰のポケットに手を伸ばしそうになるのを必死に堪えると、明らかに不満そうな表情で、ひたすら舌を出してくるくつしたの姿に何度も吹き出したのであった。