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「くつした、ほら。家だ。入れ」
「……」
急いで家に帰って部屋に入る。そうして、俺はやっとくつしたの前に膝を付くと、その顔を両手で挟み込んでやった。真っ黒な、透き通るような瞳がジッと俺の事を見ている。
「くつした?」
「……」
いつも、家ではこれでもかというほど饒舌なくつしたが、この時ばかりは何も言わなかった。何も言わずにジッと俺を見ている。きっと、俺がシーザーと話している時も、ましてやストローを見ている時も、くつしたはずーーっと俺の方を見ていたのだろう。
——–こっち、みて。
くつしたの、消え入るような寂し気な声が耳をついて離れない。
「くつした、ごめんな。初めての場所で不安なのに。俺が悪かった」
「……」
やはり、くつしたは何も言ってくれない。
機嫌を損ねてしまったのか。どうしたのだろう。あぁ、俺とした事が。くつしたが喋れるせいで〝言葉〟に頼り切ったコミュニケーションに依存していたせいだ。
だから、くつしたの異変に気付くのが遅れた。
「くつした。森で一緒に遊ぼうか?ほら、行こう」
「……くつしたは」
ひとまず、広場で走り回れなかった分、これから思い切り遊んでやらねばと思った矢先、くつしたがいつもより小さな声で話し始めた。
「くつしたは、くつした」
「あ、あぁ。そうだ」
一体何を言いたいのか分からず、ただただ頷く。どうやら、くつしたは怒っているワケではないようだ。静かだが、微かに興奮したような目をしている。水晶玉のような瞳が、窓から差し込む光を反射して、キラリと光った。
「お前は人間かと思っていたが、ちがった」
「あ、いや。俺は人間だが」
「うそをつくな。お前は、人間じゃない」
「え、え?いや、俺は」
人間だよ。そう、再び口にしようとした時だった。
「お前は、いあんー」
「っ!」
「そうだろう?」
首を傾げ、ジッと此方を見つめながら口にされたその名前に、俺は体の芯からビリッと痺れるような衝撃を受けた。こんなの初めてだ。前世でも今世でも。ただ「名前」を呼ばれただけで、こんなに感動してしまったのは。
今、俺は「くつした」に名前を呼んでもらえたんだ!
「そう、そうだよ!俺は……イアンだ!」
「そだろー?くつしたは、自分で、よくわかった。お前は、人間ではなくいあんーという。そう、自分できづいた。すごいだろー?」
「うん、すごいよ。くつした」
「いあんー」
「~~っっ!」
くつしたに「イアン」と名前を呼んでもらえるたびに、俺は柄にもなく泣きそうになってしまった。イントネーションは変だし、名前の最後に変な伸びまで入ってるせいで、一瞬何の事だか分からない。でも、そういうのも含めて、なんか震えた。
「くつしたっ!お前、えらいな!可愛いな!」
俺はあまりの嬉しさにくつしたの顔を挟んでいた手を両手でグリグリと撫でまわすと、そのまま、その体に勢いよく抱き着いた。
「なんだー?いあんはくつしたが、そんなに好きかー?」
「うん、うんっ。大好きだ!」
「そうかー。でも、くつしたは、それを前から知ってた。くつしたは、すごく賢いからなー」
「うん、うん、うんっ」
温かい体。柔らかい毛並み。甘えた、優しい声。
学校で、仕事先で、人と上手く関われない事で悩んだ時、いつもこの温もりが俺を助けてくれた。
——–あーぁ。俺も来世は犬がいいなー。
「いあんー、くつしたは良い子かー?」
「ああ。くつしたは、良い子だ」
今世。俺はゲームの世界でも人間になっちまったけど、「くつした」のお陰で、子供の頃の夢がどんどん叶っている。