66:言い訳

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『さぁ、どうぞ?』

 

 

 そう言って話を促す僕に、インはもじもじして『えっと』とか『その』とか、意味のない言葉ばかりを並べるばかりだった。

 すると、フワリと冷たい風が僕たちの間を吹き抜ける。空はどんよりとしていて、最近では太陽が出る事は余りない。

 

もう季節は完全に冬の様相へと姿を変えた。

 

 僕がそんな事を思っていると、突如吹いてきた突風によりインの濡れた髪の毛が風に舞う。

微かに聞こえる、インが鼻水をすする音。寒いのだろう。

 

 当たり前だ。加えてインはその両手を互いの手で温めるようにこすり付けあっているようだ。

もちろん俺には見えないように、後ろに隠してやっている。見えないけど分かる。動きが不自然だし、なにより僕はインの事は何だって分かるのだ。

 

『イン、どうしたの?』

『っ』

 

 僕は後ろに隠されたインの手を、ソッと近づいて強引に前へと引っ張った。その手はやはり凍るように冷たくて、その冷たさとは正反対に僕の心はカッと熱くなる。

こんなに冷たくなって、また風邪を引いてしまうではないか。

 

 あぁ、どうして、こんなに寒い中、川に入ろうとするんだ。インだって、きっと寒い川に入る事を好きでやっている訳ではないだろうに。

 

『オブ、手が』

『手が?』

『冷たくなるよ?』

『だから?』

 

 僕はインの手を自分の両手で包む込むようにギュッと握り締めた。それはもう、痛いくらいに。

 

『ほら、僕は聞くと言っているじゃないか。それとも何?寒くて頭が働かない?だったら僕の上着を貸そう。なんなら、僕のシャツも脱いでインの髪の毛を拭いてあげるから、その間に話してくれたらいいよ。もちろん僕なら大丈夫。気にしなくていい。僕は多少風邪を引いても医者が診てくれるから、熱が高くなってもそうそう死んだりしない。ちょっとの間、ここに来れなくなってもインが元気で待ってさえ居てくれれば、僕はまた本を持ってこの場所に来るさ』

 

 言いながら、僕はその手があったか!と心から自分の案に頷いてしまった。

そうだ。もうインが言う事を聞いてくれないなら、僕がどうにかしてあげるしかない。インが冷たいなら、僕の熱を分けてあげればいいだけの話なのだ。

 そう、痛いくらい握りしめている、この手のように。僕の熱さがインに移れば、インが寒がる必要もない。風邪を引く事もないだろう。

 

 僕は黙り続けるインを前に握っていた手を離すと、着ていた上着を脱ぐ事にした。

 

『なにしてるの?オブ』

『言っただろう?インに僕の服を着せるんだ』

『だっ、ダメ!そんな事したらオブが寒くなる!風邪引いちゃうよ!』

『だから、言ったじゃないか。僕は風邪を引いても医者に診てもらえるから大丈夫』

『そんなの大丈夫じゃないよ!だっ、ダメだって!まって!』

 

 なんで僕が言う事を聞いてくれないインの言う事を僕が聞かないといけないんだ。それに、僕は怒っているんだ。

 僕は千切れんばかりに首を振ってイヤイヤと抵抗するインの手首を掴み、無理やり上着を着せた。その握り締めた手首が余りにも細くて、僕はそれはもう、たまらない気持ちになる。

 

 確かに、インは僕の幸せそのものだ。けれど、その反面、僕の中の不安の全てでもあった。こんなに細くて、冷たくて、小さいインは、この世界の悪いモノに飲み込まれたら、きっとひとたまりもない。

 僕が守らないと、僕の幸せが世界に食べられてしまうじゃないか。

 

『オブ、もうやめてよ!だって、仕方なかったんだ!畑の手伝いで肥料を撒いてたら、ニアが走って来て転びそうになったんだ!そんな所で女の子のニアが転んだら、きっと泣くでしょう?それにオレは兄ちゃんだから妹を守らないといけない!だから走ってニアを支えて、その拍子にオレが転んじゃったの!オブ、わかる?肥料ってね、あの、汚いけど、あの、えっとオレ達の……』

 

 やっとの事で必死に言い訳を始めたインを横目に、僕は自分の着ていた白いシャツのボタンを一つずつ外していった。

 気のせいだろうか、インの顔が少し火照っている気がする。もしかしたら、もう熱が出始めたのかも。

 しかし、僕の今日の服は普段よりボタンが多く、あと半分程開けなければ脱げない。あぁ、面倒な。早くこれでインの髪の毛を拭いてあげなきゃいけないのに。

 

 これからは脱ぎやすい服を執事に頼んでおかないと。

 

『えっと、オレたちの“えーど”。えーどって伝わるかな?』

『あぁ、めんどくせぇな!イン!何恥ずかしがってんだよ!今更だろ!俺達のうんことおしっこって言えばいいじゃねぇか!いいか!?オブ!畑の肥料は俺達のうんことおしっこを混ぜたヤツを使ってんだよ!ハッキリ言わないと、オブは金持ちなんだから分からないだろ!?』

『~~~~っ!』

 

 そう、隣からフロムが大声で言い放った瞬間。それまで、微かに桃色に色付いていたインの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていった。

 あぁ、この顔も初めて見る。大切に僕の中に取っておかないと。

 

 僕はボタンを一つずつ外す手を止めず、ただ視線だけはインから離さなかった。

 

『フロムのバカ!なんでそんな恥ずかしい事、平気でオブに言うの!?』

『恥ずかしくねぇだろ!イン!お前オブの前でだけ、意味わかんねー事言い出すのやめろよ!普段は普通に言ってるじゃんか!うんこ!おしっこ!って!』

 

 いつの間にか糞尿について二人で騒いでいる。肥料が何で出来ているかをどう表現しようかで、インは迷っていたようだ。顔が赤いのも照れているせいだろう。

あぁ、体調が悪い訳ではなくて良かった。

 

『だから?』

『だからって……汚いだろ!そんな格好でオブの所になんて来れないよ!臭いし、汚いし!オブだってそんなオレが来たら嫌でしょ?嫌いになるでしょ?』

 

 ここに来てやっと僕のシャツのボタンが全て外れた。やっとだ。

 僕は急いでシャツを脱ぐと、そのシャツをインの頭にフワリとかけた。そんな僕の行動にフロムが『うそだろ』と驚いたような声を上げている。何が嘘なのか、僕には分からない。

 だって、僕は当たり前の事をしているだけだ。

 

 僕にとって『嘘だろ』と言いたいのは、先ほどのインの言葉だ。まさか、インは未だに僕がそれっぽっちの事でインを嫌いになると思っていたなんて。

まったく信じられない。

 

『いいにおい……っは!ちがうちがう!』

『あぁ、違うね。僕はインがたかが糞尿まみれでここに来たくらいじゃ、嫌いになんてならない。そんな事で僕との約束を破るなんて、信じられないよ』

『やめて!やめて!オブ!寒いでしょ!お願いだから服を着て!髪なんて放っておけばそのうち乾くから!体だって森を走ってたらあったまるから!ほら!大人になる薬を探しに行こうよ!』

『あぁ、でも糞尿まみれのままだと感染症になるかもしれないから、その時はこっそり僕の屋敷に行こう。体はやっぱり洗わないと』

 

 インが何か騒いでいる。でも僕は今後の事を考えるので忙しいのだ。もう、きっとインは僕の言う事を聞いてくれない。聞いてくれないなら、次を考えないと。

 あぁ、インの仕事では糞尿も取り扱うのか。だったら、このインの事だ。怪我なんてしょっちゅうするだろうし、その傷口から菌が入って感染症にだってなるかもしれない。

 

——-インを守らなきゃ。

 

早く、早く、もっと、もっと僕は賢くならないと。お父様の認めるような当主になって、それでもってどんな病も怪我も治せる医者にもなるのだ。

 

——-あぁ、そうだ。僕が、インをこの世界から守るんだ!

 

『オブ!』

 

 その瞬間、僕は思考の世界から急に引っ張り出された。僕をあの深さから引っ張りだせるのはインだけ。インの声だけ。

 

『なに?イン』

『オブ、僕、強くなるから。心配しないで。僕はもう風邪なんか引かない。だってオブの所に来れなくなるなんて、絶対嫌だもん』

 

 そう、僕のシャツの中から、必死に僕だけを見つめて声を上げるインに、僕の頭の中はパンと音を立てて思考を停止させた。いけない。先の事ばかり考え過ぎて、今のインを見逃す所だった。

 このインも、僕の。僕だけのモノ。僕だけの大切。

 だから、見逃す訳にはいかない。

 

『イン』

 

白いシャツの中。なんだかそこは僕達だけの世界のようで、僕は胸がいっぱいになって張り裂けそうな気持ちになった。この世界の中なら、僕はキミを守り通せそうだ。

 

『オブ、オレは大丈夫。何があってもオブの所に帰ってくるよ。だから、オブ』

 

——絶対に、オレの事、待っててね。

 

 その瞬間、僕は凄まじい幸福に囚われた。