7:勇者ヒスイは見送った。

 

 

とうとう、“その日”は来た。

 

 

「イシ君! 今日はとうとう出発の日だよ! 心配しないで! 気を付けて行ってくるから!」

(ダメだ! 行くな、ヘマ!)

 

ヘマは十八歳になった。ヒスイが魔王討伐の旅に出たのと同じ年だ。結局、ヘマがヒスイの身長に届く事はなかった。

 

「うーん。すぐには帰っては来れないかもしれないけど、大丈夫だよ! ちゃんと魔王を倒して立派になって帰ってくるから! あ、イシ君! 次にオレがここに帰ってくる頃には、立派な家を建てられるようになってる筈だよ!」

(“アイツ”はお前らじゃ倒せない!)

 

ヒスイにはハッキリとした確信があった。サンゴやヘマを下に見ているワケではない。ただ、どんなに脳内で「もしこうしていれば」「ああしていれば」とシミュレーションしても、あの魔王に対しては一切勝ち筋が見えてこないのだ。

 

あの魔王は別格だ。誰も倒せない。

 

「そしたら、イシ君? キミもオレの立派な部屋で、オレのベッドの横に居るんだよ! なに? それじゃあ、今と変わらないじゃないかって? そう言わないでよ。イシ君はどんなに広い家に引っ越しても、オレの傍に居てくれなきゃダメなんだから!」

(殺されるぞ!)

 

ヒスイは必死に叫んだ。あらん限りの力を込めて。でも、その声がヘマに届く事はない。

ヘマはヒスイの周囲を行ったり来たりしながら、大きな鞄に旅の荷物を詰めている。サンゴと旅に出るのが余程嬉しいのだろう。今日の独り言は、どこか鼻歌交じりだ。

 

「なぁに? イシ君、オレを心配してくれてるの? 大丈夫だよ! オレは剣も攻撃魔法も使えないけど、回復は得意だからね! イシ君も知ってるでしょ? オレが回復出来れば、サンゴは戦い続けられる! そうそう! サンゴは物凄く強くなったんだよ!」

(お前が一人にしないでとか言って俺を此処に連れて来たくせに……)

 

サンゴ、サンゴ、サンゴ。

口を開けばずっとその名前ばかり。ここに来てからの八年間。ヒスイがその名を聞かぬ日は無かった。いつからだっただろうか。ヒスイがその事に腹を立てるようになったのは。

 

「イシ君、これは二人だけの内緒だよ? 本当はずっとサンゴと二人パーティがいいんだ。だって、その方がサンゴを独り占めできるでしょ? え? それはワガママ過ぎるって? だよねぇ」

(ヘマ、魔王は怖いぞ。死ぬ間際になって俺を呼んだって助けてやれねぇからな)

 

ヘマの準備が終わった。荷物はパンパンになり、身なりも冒険者らしくなっている。

まるで、あの日一緒に旅立った幼馴染のようだ。

 

(あ……)

 

そう思った所で、ヒスイはハッとした。今、ヒスイの頭の中に浮かんできた相手。それはヒスイの幼馴染ではなく“ヘマ”の姿をしていたのだ。

 

(もう、顔を思い出せもしないのか……)

 

どう必死に思い出そうとしても浮かんでくるのは、目の前で笑顔を浮かべるヘマだけ。

そう。長い長い時の流れは、大事な幼馴染の姿すら濃い霧の中へと隠してしまったようだ。きっとその霧が晴れる事は二度とないのだろう。

 

「イシ君」

(たのむ、ヘマ。いかないでくれ)

 

ヘマが荷物を床に置いて、いつものようにヒスイの体に抱き着く。もう、こうして自分を抱き締めてくれる人間は、二度と現れないかもしれない。

 

いや、絶対に現れないだろう。

 

「イシ君、ずっと一緒に居てくれてありがとう。え? 勝手に連れて来たんじゃないかって? そうだったね。オレが勝手にイシ君を連れて来たんだ。でも、それでもオレはキミのお陰で、寂しくなかったよ」

(おれを、おいていくな……)

 

抱きしめられる感覚。温かく柔らかいヘマの体がヒスイの固い体を包み込む。もしかしたら、これが最後かもしれない。それは本当に愛おしい感覚だった。

そして、いつものようにヒスイの唇に、ヘマの柔らかい唇が押し当てられた。

 

「ふふ、シンアイのキスだよ」

(へま、へま。へま。おいて行くならおれを、ころしてくれよ)

 

ヘマは最後にヒスイの開かれた掌に自分の掌を重ねると、満足そうに笑った。

 

「いってきます! イシ君!」

(ヘマ!)

 

ボロボロの家の戸が軋む音を立てて開かれる。

自分に背を向けて去って行くヘマの後ろ姿に、魔王を前に逃げ出して行った仲間達の姿が重なった。「待て!」と叫んでも誰も振り返ってもくれない。魔王にその身を放り投げられた時もそうだった。魔王はヒスイを振り返ったりしなかった。

 

誰も、誰もヒスイを振り返らない。

 

(また、俺は置いていかれるのか……)

 

そう、ヒスイが絶望した時だった。

 

「イシ君!」

 

これから待っているサンゴとの楽しい旅路を前に意気揚々としているかと思っていたヘマが、ピタリとその足を止めた。そして、開いた扉に背を向け、勢いよくヒスイの方へと振り返った。

 

(ヘマ? お前……)

 

そこには、今にも泣きそうな顔を浮かべるヘマの姿があった。そして、再びヒスイの体に向かって飛び込んでくる。

一体、何が起こってるのか。ヒスイには全く分からなかった。ただ、その身を包み込む温かさだけは、いつも以上に愛おしく感じた。

 

「イシ君……! 絶対に帰ってくるからね! 絶対に待っててよ! 寂しがらないで! え?寂しいのはお前だろって? そう、寂しいのはオレだよ! キミと離れるのが寂しいんだ! 変だね、イシ君は……ホントは石なのにっ」

(う、あ……へま。おまえ)

「返事もしてくれないのに! 抱きしめてもくれないのに! 固いし、温かくもないし! いっつも苦しそうな顔をしてて! なのに、どうしてだろうね?」

 

ヘマはボロボロと涙を零しながら頬ずりした。ヘマの涙がヒスイの頬に触れる。温かい。ただ、あまりにも涙が沢山流れるモノだから、ヒスイの頬に零れ落ちる涙が、まるでヒスイの流した涙のように零れ落ちていった。

 

「オレは、キミと離れるのがさみしいんだっ!」

(へま、へま……おれも、さみしい。お前と離れるのがさみしい!)

 

寂しい寂しいと言って抱き着いて泣くヘマの姿に、ヒスイは真っ暗な闇の底に落ちていた心に光が差すのを感じた。

 

「ぜったいに、かえってくるから。まっててよ? どこにもいかないで、ここにいるんだよ?」

(わかったよ。ここに居てやるよ。だから、早く帰って来てくれ)

 

また置いて行かれる。そう思っていたヒスイは考えを改めた。ヘマは帰って来ると言っているのだ。だったら、自分は置いていかれるのではない。

 

“待っている”のだ。

 

「いってきます。気を付けていってくるからね。だいじょうぶ、ちょっと時間はかかるかもしれないけど、ぜったいにかえってくるから」

(ああ、行ってこい。気を付けろよ。怖かったら逃げていい。怪我したら自分を一番に回復させろ。俺はここに居る)

 

「いってきます! イシ君」

 

涙を拭ったヘマは、今度こそヒスイに背を向け扉の外へと出て行った。そんなヘマの後ろ姿をヒスイは静かに見つめていた。

 

(いってらっしゃい、ヘマ)

 

勇者ヒスイは、愛しいヘマを見送った。