34:その後

その後の話をしよう。

 

“その後”と言うのはその後の春の日々の仕事に関する“その後”である。

決して、春が酔いつぶれて太宰府におぶされて帰路についたり、宮野の店で起こった甘木と香椎花のひと悶着について触れる為の“その後”ではない。

 

「春日さーん!ちょっと経理行ってきまーす!」

「待ちなさい、香椎花」

「えー、なんですか?俺こないだの出張の領収書出しにいかなきゃなんですけど!」

「遅いよ。それ先週の出張だろう?領収書は帰ってきたその日が次の日までに出す。遅くなると経理に迷惑だろうが。それより、ちょっとこっち来て!」

「えー!」

「えーじゃない!もう!それはもう休憩の時ついでに出す!それよりも!」

 

香椎花はあの日の夜の記憶をアルコールによって消される事はなかった。

元来、酒は強くは無いが弱くもない春だ。

あの日はいつになく飲んでしまったが記憶を失くす程ではなかった。

あの時の支離滅裂で要領を得ない春の“お説教”は、当の香椎花にはちっともその真意は伝わらなかったが、単純に春の中のタガを外し、一歩を踏み出すには十分なものだったと言えた。

あれは春に必要なお説教でありショック療法であったのだ。

 

泣き、喚き、鼻水を流したあの姿を後輩に見られた後だからこそ、春はいっそ清々しく言うべきことを、適切なタイミングで威力を持って言えるようになった。

そして改めて分かった事がある。

それは皆、そう、この社会の中で生きている皆がある程度自分を“棚に上げて”生きているという事だ。

 

こんな事を思ってはいけないのかもしれないが、未熟な自分では叱る立場にないという、その甘えであり真実でもあるその考えを春は今や立派に棚に上げる事にした。

棚に上げて、ハッキリ言う事にしたのだ。

どうせ、自分に甘く他人には異様に厳しい新人である香椎花であっても来年、自分よりも年上の後輩がこの部署に入ってきたら、それこそ華麗に自分を棚に上げてモノを言うに違いないのだ。

 

数日前、二人で行った出張先で、すれ違った高校生に対し『いやー、高校生見るとホント若いわーって思いますねー。俺ももう、あんなんは出来ないっすよー。子供って感じっすね』などと言うのだから火を見るより明らかだろう。

つい3カ月前まで高校生だった香椎花がケラケラ笑いながらそう言った瞬間、春日は自分への棚上げに奥する事はなくなった。

どうせ自分の新人時代を、この香椎花が直接目にする事は無い。

棚に上げつつ、上げたついでに自分の背筋も伸ばして行けば、きっとそれは後輩の前では棚上げにはならないのだ。

 

そうやって皆、教え、教えられ、社会という狭い一本道を順番に歩いていくのだ。

 

そういう棚上げの積み重ねをしながら、宮野だって春に色々な事を教えてくれたのだろう。

太宰府も春の歩む遥か前を歩きながら、その都度自らも躓いたりするのだろう。

 

皆、そんなものなのだ。

 

「春センパーイ。今日ちょっとおめかししてるじゃないっすかー。今日は誰と遊ぶんですかー。五郎丸君っすかー?」

「よく分かったね。五郎丸君と、後は太宰府さんとで宮野さんのお店に行くんだ」

「えー!太宰府さん来るんすか!じゃあ俺も行こうっと!」

「え!?」

「昨日彼女と別れて、めっちゃロンリーで暇なんで!それに太宰府さんにも俺会いたいしー!断られてもついて行きまーす!」

「……な、なな!」

「いえい!レリゴー!太宰府さんにラインしよーっと!」

 

終業時間まであと3時間。

春は隣で「とりま休憩いきましょー!」とはしゃぐ香椎花に「待て待て待て」と手を伸ばした。

一体全体どう言う事だろうか。いつの間にこの後輩は太宰府と連絡先を交換していたのか。

(いつの間に、いつの間に)

春は自分でも分からぬ妙な胸の中のざわつきと焦りにワタワタとした。

そんな春の気持など知ってか知らずか香椎花はハタと立ち止まり、春の方へと振り返った。

 

「あ!」

 

突然、声を上げた香椎花に春は目を瞬かせた。

そして続いた言葉に、春の目は瞬きを止めた。

 

「あ、そう言えばー、俺昨日から猫飼い始めたんすよー!」

「は!?」

「猫めっちゃくちゃ可愛いっすね!」

「は!?え!?なんで!?」

「知り合いが飼い主探してたんで!貰いました!」

「え、えええ!?」

「それに太宰府さんも猫飼ってるんすよね!イエーイ!オソロー!」

「…………」

「太宰府さん、クソイケメンすよねー!めちゃくちゃかっけー!いえーい!今日の飲み楽しみ、ふうう!」

「…………」

 

その瞬間。

 

『アイツ、マジでムカツク』

先日、自分の彼女に対し香椎花が慣れ慣れしいと嫉妬し、そう呟いた花畑の姿が春の脳裏に浮かんだ。そして、春は自身の顔を見る事は出来ない為、気付く事はなかったが、その時の花畑と同じ顔で、そして同じように思った。

 

否、口に出ていた。

 

「……なんか、ムカツク」

「早くー!春センパイ!ちょっと甘めのコーヒーでも飲みにいきましょーよー!」

 

誰にでも優しく、めったに汚い言葉など吐いたりしない、近年まれにみる程穏やかな人間性を持つ春ですら、太宰府との関係性の上ではその穏やかさはいっさい発揮されていない。

今ならきっと花畑とも良い酒が飲み交わせそうだ。

 

「あぁぁぁもう!なんか、ムカツク!」

 

 

 

太宰府さん

今日、香椎花もついて来るそうです。

最近、色々とふっきれてきて報告したい事も、聞きたい事もたくさんあるので、よければ飲みの後、太宰府さんのお宅にお邪魔してもいいですか。

 

 

終業時間まであと3時間。

春はその時間、何度も何度も棚上げしながら背筋を伸ばし。

 

「香椎花!香椎花!!!」

 

少しだけ八つ当たりした。

 

 

 

 

 

社会人なんて、大人なんて。

所詮、そんなものだ。

 

 

 

 

 

【心苦しくも私もゆとり世代でございます】

おわり