5.不仲な関係

 

 

「ねぇ、起きなよ。カス」

「………う、ぁー?」

「寝ぼけないでよ、カス。寝顔がキモいっつーの」

「っ!?」

 

 俺は腹部に突然走った痛みに、急激に意識が覚醒するのを感じると慌ててソファから体を起こした。目の前には、昨日の美少年こと天使。神の見えざる手。いや、神。

 

 ここまできて、俺が覚醒していたのは体だけで、脳の一番大事な部分は寝ぼけていた事を証明してしまった。

 

「きみは、げひんな、こ……?」

「殺すぞ、お前」

 

 まさか俺の口から発せられた言葉は、昨日思った事の中でも一番相手に伝えてはいけないやつだった。

なぜだ、どうしてだ。俺は夢の中で、もっとこの子に対して、これでもかというほど言葉を尽くして賛美しなかったか。いや、もう今しがたの夢の事なのに、何も一切思い出せそうもない。

 

 夢というのはいつも別れ際は、驚くほど容赦ない。

 

 次の瞬間、俺は華奢で可愛らしい少年のその腕によって、胸倉を掴まれていた。ここにきて、やっと俺の脳内、きっちり起動。

いや、もう遅いのだけれど。

 

「ご、ごめんなさい」

「うわぁ、見れば見るほどアンタの顔って中の下」

 

 胸倉を捕まれながら、かなり酷い事を言われているようだが、目の前の美少年に言われてしまえば否定のしようもない。そう、俺の顔は中の下です。

そして、とりあえず今わかる事はただ一つ。今、俺の目の前に居る上半身裸の美少年は、俺が眠りにつく前、明彦と激しくセックスをしていた男の子だと言う事だ。

その裸の上半身には見事に先程まで二人は愛し合っていたんだなぁという証が大量に彩られている。

 

「キモい」

 

 そこまで思考して、また俺は本能的にやばいと思った。思った瞬間、もう遅かった。

 俺は掴まれていた胸倉からふっと拘束が解けるのを感じると、視界は天井を映していた。背中はソファではなく、硬いリビングの床。落とされた衝撃で背中全体から鈍い痛みを感じると、今度は腹部に激しい痛みを感じた。

 

「あのさぁ。お前、何見てんの。キモイんだけど」

「ごめんなさい」

 

 もう俺はごめんなさいしか言えない人形のようだ。そして腹の上には美少年の白い足。痛み原因はまごうことく、それだ。そして、その足から与えられてくる力は徐々に増えてきている気がする。

 いや、気のせいではい。まじだ。

 

 どうしてこうなった。

 

 なぜ、形式上ではあるが恋人を寝取った筈の美少年の毛一つ生えていない綺麗な御足で、俺は踏まれているんだ。俺にはそういうので喜ぶ趣味はない。

 

「あの。お腹が凄く痛いので、足を下ろしてくれませんか」

「やだね」

「…………」

 

 嫌ときたか。嫌と言われれば、俺もこの状況は好きか嫌いかでいけば嫌いだ。何故なら、腹も背中も今では相当痛いからだ。これ、わざわざ口頭で説明が要るだろうか。

 

「あの、マジで痛いんで……お願いします」

「じゃあさ、一つだけ条件がある」

 

 急な取引提案。そして、圧倒的に良い予感のしない条件。しかし、一応聞くしかない。なぜなら腹と背中が、さっきよりもずっと死ぬほど痛いからだ。

 

「……何でしょう」

「あんたさ、邪魔だからこの家から出て行ってくれない?」

 

 予想以上だった。この御足をどけるという対価が余りにも釣り合っていない。どういうジャイアンだ。現在の日本の銀行の金利よりも悪い。日本の失われた30年はどこへ行ってしまったのだ。

 とうとう、俺の脳内も痛みで錯綜し始めていた。

 

「いや、あの。この家俺の家なんですけど」

 

 俺は戸惑う頭を必死で動かし、やっとのことでそう口にした。この説明を、わざわざ口頭で表現せねばならぬ日がこようとは。

 すると、俺の腹に乗っていた足が更に力を増した。昨日、玄関で綺麗に揃えられていた靴からは一切想像できない、この人間性。鬼だ。

 

 俺……圧死するかも。

 

「あんたさぁ、俺と明彦があんなに愛し合ってんの見てまだ、居残ろうっての?みじめだとか思わないわけ?」

 

"明彦"そう美少年の口からでた名前に俺はチラリと寝室の方を見た。やはり、誰とやってもあいつは半日はぐっすり寝てしまうらしい。電池0まで腰を振り続けられる明彦は、体だけ成長して心が5歳で停止しているのではないだろうか。

 

「明彦なら疲れて寝てるよ。だって夜はあんなに激しくやっちゃったから。無理もないよね」

 

 そう、うっとりしながら寝室の方へ目をやる美少年は、やはりまごうことなき美少年だった。頬を少し染めて遠くを見つめるその姿は、可憐ともいえる。

 ただ、俺の腹を足蹴にする図が、可憐の言葉を喉で止めてしまうのがとても残念だ。

 俺がいつの間にか名も知らぬ美少年を見上げていると、それに気付いた美少年が明からさまに嫌そうな顔で俺を見下ろしてきた。もう唾でも吐きかけん勢いだ。

 

「キモイからコッチ見んな」

「……ごめんなさい」

 

 辛辣過ぎて心が折れそうだ。そして、肋骨と背骨も折れそうだ。

 

「つーかさぁ、さっき俺が言った事聞いてた?あんたさ、俺達の邪魔だからとっとと荷物まとめて出てってくんない?」

「いや、だってこのアパート1年契約だから今出て行くと違約金が……」

「はぁ?なに言ってんの?あんただけ出て行けば問題ないじゃん?ここは俺と明彦の家なの。邪魔だから出てけよ」

 

 まぁ、なんということでしょう。いつの間にかこの家の所有権が俺じゃない人に移っている。俺が寝ている間に何があったんだろうか。そんな事は、明彦にいくら笑顔でお願いされても無理な話だ。

だって学校に通えなく、

 

「学校?」

 

 今、何時だ。

 俺はリビングにかけてある時計に目をやると、その瞬間一気に血の気が引くのを感じだ。

 

「あぁぁぁぁぁ!!!!」

「うわっ、なに!?」

 

 10時20分。

 2限が始まるまであと20分程しかないではないか。俺は美少年の足が乗っている事など忘れ去り、勢いよく飛び上がった。その衝撃で、俺の上に足を置いていた美少年が後ろへ倒れ込む。

 

「あぁ、ごめん!でも俺、今日ちょっとゼミの発表があって、準備もあるからもう行くわ!」

「はぁ?ちょっ、まだ話は終わってない!」

 

 美少年が何か叫んでいるがこっちはそれどころではない。今回のゼミの発表は1年の必修単位なのだ。落としでもしたら、大学1年早々留年の危機である。

 出発の準備はある意味完璧だ。幸い昨日風呂にも入らず寝たので、格好は普段着のままなのだ。問題があるとすれば、汚いという事だけ。

 汚いがなんだ。背に腹は代えられない。先ほどまで、背中と腹が同化しそうな状態だった俺にとって、その言葉は本当に人生の座右の銘になりそうなほど、心の中に重く横たわった。

 

 背中と腹は互いに代えられるものではない。当たり前だ。単位も清潔さには代えようもない。

 

 混乱と焦りの嵐は、思考回路を見事に動乱させ、俺はこの瞬間座右の銘を"背に腹は代えられない"として生きていく事を決意した。

 

 そして、俺は部屋の中から必要なものをひっつかむと、急いで玄関へ駆け出す。

が、一つ気になっている事があったので、少しだけ立ち止まると尻もちをつく美少年に向かって口を開いた。

 

「あ、キミ。明彦が起きたら冷蔵庫の中のカレーを温めて二人で食べておいてくれ。あとは………そうだ、あとは上に何か着た方がいい。あっちのクローゼットに俺のジャージが入ってるから、嫌でなければ着て!じゃ、俺はもう行くから!」

 

 あぁ、本当に留年の極み。まだ、発表する原稿の下書きすら終わってないこの状態で、あと20分ときた。教授に頼んで発表の順番を変えてもらえないだろうか。

 

 俺は入口に置いてある鞄をひっつかむと、そのまま急いで家をでた。

 やはり、後ろで何か叫び声が聞こえていたが……もう何を言っていたか全然聞こえなかったし、聞こうともしてなかった。

 

 これが、俺と美少年、幹夫との最初の出会いだった。