「ちょっと、さっさとメシ作れって。昨日も明彦が激しすぎてお腹すいてんだよ」
「わっかた、わかった。今日は肉じゃがとみそ汁だぞ」
「はぁ、何だよそのシケたメニュー。もっと他にないわけ?」
「明彦が好きなんだよ」
「なら仕方ないね。明彦が好きなものは俺も大好き」
「……そうかい」
———-
いつの間にこうなった。
俺はアパートの狭いキッチンでリビングから飛んでくる罵声を浴びながら、手だけはサクサク動かした。料理の7割は食材を切る事と、食器洗いで占められている。頭はぼけっとしていても、手だけは止めてはいけない。
手さえ止めなければ、いつの間にか目の前には出来立ての料理が並んでいる、筈である。
「あぁー!もう何でこの部屋こんなに狭いわけ!?俺の荷物置くスペースがどこにもないじゃん!」
「…………」
俺はふうと一息つくと意識を遠くへと飛ばした。
いつの間にこうなった。その答えとなる、
あの、美少年初めて遭遇した日へ。
◇
あの日、結局俺はゼミでの発表を避ける事はできなかった。
しかし、意外にも、俺が決死の覚悟で挑んだゼミ発表は評価C-という、直前に書き上げ、発表はほぼアドリブだったにしては及第点の結果に終わった。
だが、発表を終えた後、教授からは「来週、もう一度きちんと準備をして発表してくださいね」と、すべてを見通した優しい目で言われてしまった。このC-という評価は保留措置という事だろう。
あぁ、チャンスが貰えたと思うべきか、面倒が先延ばしにされたと思うべきか。ひとまず、その日は単位を失わずに済んだので良しとしよう。
そんな綱渡りの1日を終え、俺がクタクタになってアパートへ帰ってみると、玄関には昨日同様脱ぎ散らかされた靴と、綺麗に並べられた靴があった。
だから、靴は揃えて上がれと何度言えばいいんだ。と、言っても聞きやしない明彦に一人ごちると、明彦の靴を美少年の靴の隣に揃えて置いた。
そうして、俺が昨日と同じ服で、同じように体を引きずりながらリビングに入ると、そこでは美少年と明彦がピッタリと体をくっつけてテレビを見ていた。
「ただいまー」
俺の言葉で明彦は顔だけこちらに向けると「おかえりー」と、いつもの笑顔で迎えてくれた。そんな明彦に、隣に座っていた美少年はピクリと肩を揺らすと同様に俺の方へと向き直る。
俺のジャージは着られる事はなかったようで、美少年は明らかにサイズの大きな、どこからどう見ても明彦のシャツを羽織っていた。結局それでは寒そうなのは変わらない。風邪を引かなければよいが。
その間、幹夫はこれ見よがしに明彦へと寄りかかりながら、今朝同様、ゴミでも見るような目で俺を見てきた。
ヒデェ。
『ねぇ、あーきーひこ』
『ん、なに?みき』
このままキスでもするのではないか。そのくらい、ほぼ0距離な顔の位置で、二人は何か囁き合い睦み合う。その間、みき、と呼ばれた美少年が口元に笑みを浮かべながらチラチラとこちらを見てくる。
感じが悪いなぁ、もう。
あぁ、やばい。このまま二人を見ていれば、また今朝同様、美少年に足蹴にされるかもしれない。あの美少年は、華奢に見えて普通にガッチガッチに強かった。お陰で、俺のお腹と背中はくっつくところだったのだ。
俺は避難の意味もこめて手に持っていた買い物袋の中身を冷蔵庫に移す事にした。ひとまず生鮮食品を冷蔵庫へとしまわなければならない。今日は少し荷物が多いのだ。
そのうち、隣から明彦の幸せそうな声で『いいよ』と頷く声が聞こえてくる。そして、俺がちょうど肉を冷蔵庫に入れ始めた時。
『ねぇ、あっきー』と、俺を呼ぶ声がした。
俺はなんとなく、この後に明彦が言う言葉が予想できていた。
『何だ、明彦』
俺はいつもより少し多めに買った肉を冷蔵庫へ入れ終えると、明彦に向き直った。
『アッキー、俺と別れてよ。俺、みきと付き合いたいから』
『…………』
予想通りだった。
明彦はやっと恋を愛に昇華させる事のできる相手を見つけたらしい。そして、俺は"恋人役"の仕事を終えた。今日はめでたい日だ。俺も留年せずに済んだし、明彦はやっと恋を実らせた。
『わかったよ。別れよう、明彦』
俺は今度は冷蔵庫に野菜を入れるために袋から様々な野菜を取り出した。今日の夜はご馳走を作らないといけない。
『今日はすき焼きだ、二人とも。たくさん食えよ』
俺が春菊片手にそう言うと、明彦は目を輝かせて『やったー!ありがと、あっきー!』と嬉しそうに叫んだ。それはどちらに対しての感謝なのか。別れ話了承への感謝か、それとも今晩がすき焼きである事への感謝か。
まぁ、そんな事はどちらでも良い事だ。
『……すきやき?』
そんな明彦と俺に、美少年は先ほどまで口元に浮かべていた嫌らしい笑みを完全に消しポツリと呟く。
『そうそう、みきもお腹すいたよね?今日もいっぱい食べていっぱいシような!』
今晩ももちろんするらしい。若い性欲の留まる事を知らぬことよ。
美少年は自然と自分も夕食のメンバーに入っている事に戸惑っているのか、小さくコクリと頷いた。悪意のない無垢な表情は、やはり天使と呼ぶにふさわしい。
『明彦、俺もずっとここに居ていい?』
『もちろん、当たり前だよ。みき』
ーーそれは俺に聞けよ。
内心突っ込んでみるが、口には出さない。面倒な事になるのは目に見えているから。この際、居候が1人から2人に増えたところで、何も変わりはしないだろう。
それにしても、この二人は男同士でも絵になる。一般教養で取った西洋絵画の授業で、こういう構図の宗教画があったような気がする。なんか、ソレ。まさにソレ。
俺が若干そんな事を思いながら二人を見ていると、それまで明彦しか映していなかった美少年の瞳が、急に俺を映した。
その瞬間、昨日の二人の情事のを思い出し、俺は少しばかり落ち着かない気持ちになった。俺はそんな落ち着かなさを振り払うように、自分でも自覚する程ひきっつった笑顔で口を開いた。
『食べれないものがあったら、言ってな?えーと、みき?くん』
『幹夫』
『え?』
『みきって、呼んでいいなんて言ってないよ』
あぁ、どうやら"みき"と呼んでいいのは明彦だけ、という事らしい。
というか"みき"って名前じゃなくて、名前の一部なのか。初めて知ったし、知る由もなかったのだから許してほしい。
しかし、少しだけ眉間にしわの寄った美少年こと幹夫に、俺はまたしても身の危険を感じるとコクコクと何度も頷いた。その隣では、そんな幹夫を蕩けるような顔で見つめる明彦。
外見だけで判断するなら意外性のある男らしい名前だ。しかし、昨日のゴリゴリに強い腕っぷしを体験した俺としては、似合うと思わざるを得ない。似合ってるよ、幹夫。
『よろしく、幹夫』
俺は心の中で"明彦を"という言葉を付け足しながら言うと、幹夫は不満そうな顔で、しかし、しっかり頷いた。
『これからよろしくね、アッキー』
『…………よろしく』
お前は、いきなりアッキー呼びかい。
明彦が俺をそう呼ぶから自然とそうなるのは仕方ないのだろうが、その表情とのギャップよ。
こんなに「よろしく」したくなさそうな「よろしくアッキー」は生まれて初めてだ。
そりゃそうだろう、今朝は出ていけとまで言ってきたのだ。本当は俺とはよろしくするどころか、おさらばしたいに違いない。
『じゃあ、すき焼きができるまで俺たちはアッチに行ってシてようか?みき』
『そうだね、明彦』
まさかの食前セックス。
二人は言い終わるや否や、颯爽と寝室へと去っていった。
俺はそのまま寝室に向かう二人を春菊片手に見送ると、なんとも言えない疲労感に襲われたのであった。