「狭い部屋でも、家主の選択権の許されるものが2つある」
「え!なになに!」
聞きつつ、グイと一呑みする。どこか癒やされる香りと共に、本来持っているであろう強い風味が白酒によってまろやかになっている。一度、ロックで呑んでみるのも良いかもしれない。
「光と香りだ」
「へ?」
「……灯燈の種類や色を変えてみると印象が大分変わる。借部屋でもその辺は簡単に変えられるようになっている筈だ」
「灯燈だけで変わるもんなのか」
確かに部屋の灯燈は色砂の調合の仕方によって簡単に変える事ができる。
しかし、だからといってそれだけで変わるだろうか。俺の部屋の灯燈は部屋を借りた時のまま、白を基調とした一般的な明かりをしている。
「やってみればわかる。此処も場所によって灯燈の色砂を変えている。カウンターは黒だ」
確かにそうだ。俺は最初にここに来た時の、あの、えも言われぬ程の怪しげで心躍る感覚を思い出した。そう、この酒場の怪しげな雰囲気を演出している、その大部分は灯りによるものだ。
カウンターは男の言うように他と違って灯りを大分抑えた色味をしている。それだけでなく、よく見れば各テーブル付近の灯りは、しっかり見なければ気付かない程度にオレンジ色を濃く作ってあるようだ。
「ほんとだ」
「この酒場内だけで15種類は場所によって灯りの色味を調整している」
「すごいな!」
「インテリアと同様、灯りというのも常に視界に映るものだからな。それで大分印象が左右される」
「じゃあ、俺の部屋も、狭いけど場所によって灯りを変えたりするといいのか」
「狭い部屋の場合、場所というかその時の状況によって色が変わるように、色砂とマナ水を調整するのがいい。普段、モノを書いたり、本を読んだりするときの灯りと、寝る間際にかける色味を変えるといった使い方がいいんじゃないか」
「待って、待って。ちょっと、メモさせて」
「このくらい、メモせずとも覚えたらどうだ。鳥はメモできないんだぞ」
「あいにく俺はれっきとした人間なんでね!」
いつまで俺と鳥と俺を引き合いにすれば気が済むんだ。しかし、男はそんな俺の憤りなど知ってか知らずか、口元に薄い笑みを浮かべたまま、クイと一気に酒を飲みほした。
良い飲みっぷりじゃないか。
「なぁ、この木の酒ってやつさ。ちょっとロックで飲んでみたいんだけど」
俺は鞄の中から手のひらサイズの小さな手帳を取り出しながら聞いてみた。こんな事もあろうかと仕事用の鞄をそのままひっつかんで出て来た甲斐があった。
まぁ、何も考えずにひっつかんで来ただけなんだけど。
「気に入ったのか」
「ああ!特にこの木の香りが良い。落ち着くし、癒される。出来れば白で割る前のも飲んでみたいんだよ」
「強いぞ、いいのか」
「これで最後にしておくから大丈夫」
手帳にペンを走らせながら、俺は残った白割の酒をクイと飲み干した。やはり爽やかな香りが鼻孔を心地よくすり抜けていく。
すると、予想外にも目の前には既に別のグラスで先ほどの酒のロックが用意されていた。
「あ、ありがとう」
「何をそんな驚く」
「いや、また自分で準備するんだとばかり……」
殆ど呟きに近かった俺の言葉に、男は反応する事なく空になった、その独特のシルエットをした酒瓶を見て「また買ってこないとな」と独り言ちていた。これが正真正銘この酒瓶の最後の酒のようだ。
大事に頂こうではないか。
「部屋の香りは木の香油を使ったらどうだ」
「あぁ、確かに。それいいかもな!」
「光も香りも一定空間を要せず、しかし、視覚、聴覚に常に入ってくる情報だからな。気に入ったモノを選べば、おのずと部屋に愛着も沸くだろう」
俺は目の前におかれた、白割よりももちろん強いスパイシーとさえ思える木の香りに、早く口を付けたくて仕方がなかった。しかし、同時に男から香りについての情報が滝のように勢いよく流れてくる。
「北部に群生する針葉樹。まだ先だが、寒くなる時期には心身を温める効果もある。香りはこの酒の香りとよく似ている」
俺は仕事で培った手元を見ずに素早くメモを取るという普段ではあまり役に立たない特技を使う時が来たと、カウンターに手帳を置き、静かな男の語りに耳を傾けた。男の声は、今更だがとても心地よい。この酒が木から作られているのだとすれば、男の声はまるで木々が風に揺れる囁きのようだ。
「…………」
いかん、こんな事を思うなんて、完璧に酔いが回りきっている。
しかし、酒は飲ませてもらう。
せっかく男が注いでくれた酒だ。我慢できない。