「アウトさん、弟さんがいらっしゃってますよ」
「アボードが?」
あと10分程で終業時間だという時にかけられた予想外の声かけに、俺は思わず目を瞬かせた。
アボード。
2つ下の弟でありながら、俺に対して一切の兄扱いをしない乱暴者。そう、5歳の時の俺の失言から始まった独裁政権は今尚崩壊する事なく健在だ。前世分のリーチを多いに活用し、我が弟は言葉を操り始めた瞬間から今に至るまで、俺に対して横暴の限りを尽くしてくる。暴君だ。
「ん?」
何だっただろうか。どこかで前世の話を聞いた時にコレを表すピッタリな言葉を聞いた気がする。ほんの喉まで出かかっているのに、出てこない。
気持ち悪いったらない。
「何でも、用事があるとか。急ぎ来て欲しいとの事です。ホールにいらっしゃいますよ」
受付の女性の言葉に、俺は思わず眉間に皺が寄るのを止められなかった。
急ぎ?いや、きっとアボードの事だ。大した用でなくとも、待つのが嫌で「急ぎ」と身勝手な方便を使用しているだけに違いない。
ハッキリ言おう。アイツが本当に急いでいる時。
それは俺の所に来るような用事では、絶対にない。
「分かりました。あと15分したらそちらに行くと伝えておいてください」
「15分……いいんですか?」
一応終業時間まではあと10分ほど時間がある。明日の準備を終わらせて行っても問題ないだろう。そして、そこそこゆっくり帰り支度をしたと仮定して、15分。そんなところだ。
「アウト君。弟さんって近衛兵の皇室直轄部の方だろう?待たせては無礼になる。仕事はもう良いから行きなさい」
「…………あー」
——来た。権力にはどこまでも追従する平伏上司。
俺は余計な気を遣ってくる上司に、どんなに努力しても感謝の込められる事のない「ありがとうございます」を単調に口にした。
これで一刻も早くアボードに会わねばならなくなったではないか。ハッキリ言って気乗りしない。迷惑だ。
「では、弟さんにもすぐに来られますとお伝えしますね」
そんな俺達のやり取りに、受付の女性はニコリと笑みを浮かべるとクルリと踵を返して部屋を出て行った。最悪である。
「アウト先輩―!弟さんて、あの超イケメン近衛兵隊の騎士様っすかぁ?」
「ちょういけめん?暴力男って意味か?」
「hoooo!兄弟BLきたー!弟の兄だけに見せる凶暴な一面いただきまーす!外面はめっちゃ良いのを希望しまーす!内と外のギャップ萌え滾るー!」
アバブは今日も今日とて非常に楽しそうだ。俺にはよくわからない言語を多大に駆使して物事を表現してくる。さすがは前世がビィエルの研究職なだけはある。
“ちょういけめん”の意味はよく分からないが、アボードに対して用いられる所から俺が勝手に意味付けして良いのであれば、それは“暴力男”とか“身勝手男”とか、一番あり得るのは“暴君”とか、そんな意味になるだろう。
覚えた。“ちょういけめん”は暴君を表すビィエルの専門用語だ。
「はっ!思い出した!」
「どしたんすか!?アウト先輩!」
ここに来て先程まで喉につっかえていた言葉が急に、俺の喉奥からツルっと出てきた。
「げこくじょうだ!」
「下剋上!?」
そうだ、以前どこかの酒場で聞いたのだ。
下位の者が上位の者を打倒して、上下関係を覆す事って意味だった筈である。
確か、あの時は“てら”という、この世界で言うところの神殿のような場所で遠征中、一夜を過ごしていた際に、部下によって火を放たれたとかなんとか。どんな人生だ。恐ろしい事この上ない。
げこくじょう。
その言葉を聞いた時に真っ先に浮かんだのが弟のアボードだった。
あぁ、やっと出てきた。心の底からスッキリである。
「いやもう!!どこまで私を悶えさせれば気が済むんすか!?兄弟下剋上BLなんて!やっぱりアウト先輩は私の神っす!ありがたてぇ!」
「いやぁ、それほどでも」
アバブはよく俺を無条件で神にしてくる。何故かは分からないが、ともかく俺を意味なく全肯定してくれるので、ありがたい存在だ。こちらこそ、ありがてぇ!である。
これから、俺は意味なく虐げられるのでちょうど良かった。アバブに心からの感謝を。
「アウト君!早く行きたまえ!」
「あっ、ハイ」
「行きたくないなぁ」という気持ちのまま、ダラダラとアバブと話していたらとうとう上司から怒声が飛んで来た。
あぁ、せっかく今日もあの酒場に行こうと思っていたのに。
俺はガクリと肩を落とすと、荷物をまとめて急いでホールに向かったのだった。