34:本当の汚さ

 

 

          〇

 

 

 

『……来ない』

 

 

 アイツが約束の場所に来なくなって4日が経った。

最初は仕事だと思っていた僕も、だんだんと不安になって、居ても立っても居られなくなった。もしかして、もう僕との約束なんてどうでも良くなったのではないか。そんな考えばかりが頭に浮かぶようになっていたのだ。

 

きっと今頃、アイツは村の子供たちと楽しく遊んでいるのだ、と。

 

 そう思ってしまった瞬間、僕は自分でも制御しきれない程の激しい怒りが一気に湧き上がってくるのを止められなかった。

貧乏人の癖に。せっかく僕が時間を合わせて会ってやっているのに、生意気にも、不敬にも程がある。許さない!

 

そんな衝動のまま、僕はアイツに見せる筈だった本を勢いよく地面に叩きつけた。綺麗だった表紙が泥で汚れる。その瞬間、突然吹いてきた風によって本のページがパラパラとめくれた。

 

—–オレ、初めて“かぜ”を見た

 

 アイツの言葉が頭を掠める。すると、それまで頭と心いっぱいに満たされていた“怒り”が一気に霧散して消えていくのを感じた。その代わり、僕の心を満たしたのは、怒りよりももっと辛くて苦しい気持ち。

 

——もう、アイツは二度と此処にはこないんじゃ。

 

 強い、悲しみ。深い絶望。

こんな気持ちになる位なら、怒っていた方がマシだった。僕は好きでたまらなかった気に入りの絵本を拾い上げ、汚れてしまった表紙を手で払う。どんなに払っても、ついてしまった汚れは、もう取れない。

苦しくて、苦しくて。僕はその場に座り込んだ。

 

『なんで、来ないんだよ……』

 

そう呟いた僕の声は、自分で思っているよりも全然元気が無くて、今にも泣きそうなモノだった。本当はどうしたのか村へ行って確かめたい。けれど、今になって分かった。僕はアイツの事を、何一つ知らないのだ。

アイツの家はどこだろう。誰に聞けば教えてもらえるだろう。いや、そんな事より僕と話してくれる村人など誰も居ないかもしれない。

 

アイツからの『教えて!』という言葉に、得意になって僕ばかり話していた。そう、機会なんていくらでもあったのに、僕はアイツの事を何一つ知ろうとしなかったのだ。

 

『……イン』

 

 知ってるのは名前だけ。名前しか、僕は知らない。

 そう、僕が誰も来ないいつもの場所でインの名前を呟いた時だった。地面に座り込む僕の上に、日を遮るように誰かの影がかかった。まさか、と思い僕は勢いよく顔を上げた。

 

『……インなら来ないぞ』

『っだ、誰だ!』

 

 そこに立っていたのは、予想とは全く別の知らない村の子供だった。体は僕よりも大きくて、きっと喧嘩なんてしたら一方的にコイツが勝つのだろうな、と頭の片隅でぼんやりと思った。

あぁ、なんで、僕がそんな事を思ったのか。コイツの目は、何故だか僕をハッキリと嫌っているのが分かる程、苛立ちと怒気が含まれていたからだ。もしかしたら、僕は殴られるのかもしれない。けれど、それすら僕にはどうでも良かった。

 

『俺の事なんてどうでもいい。俺はニアに頼まれて来ただけだ』

『ニア?誰だ、ソイツ』

『っは、お前本当に何も知らないんだな。インの事』

 

 イン。

 ソイツの口から出て来た、ずっとずっと待ち続けた名前に僕は思わず立ち上がった。コイツはインの友達か。インがここにこない理由を、コイツなら知っているかもしれない。

僕の頭の中には、もうそれしかなかった。

 

『コレをニアから預かった』

『っ!なんで!なんでだよ!?』

 

 誰とも知れぬソイツから差し出された物。それは僕がインに渡した筈の懐中時計だった。インが丸くて綺麗で、まるで月のようだと言ったソレは、あの日のまま、やはり月のように綺麗だった。

 

『ニアって誰だ!インはどうして来ない!なんでこれをお前が持って来る!?なんでなんでなんでなんだよ!』

『お前こそ、なんで毎日インと会ってた癖にそんな事も分からないんだよ!ほら!受け取れよ!?ニアがインから預かって、泣きながら俺の所に持ってきた!お前のなんだろ!?』

 

 そうやって無理やり僕の手に戻された懐中時計に、僕はもう訳が分からなかった。インとの唯一の繋がりだった物すら、こうしてあっけなく僕の所に返ってきてしまった。これじゃあまるで、本当にもう会えないみたいじゃないか。

 

『インは死ぬかもしれない』

 

 死。

 その、子供の俺には何とも縁遠い言葉に、僕は一瞬コイツが何を言っているのか理解できなかった。

インが死ぬ?どうして?あんなに元気そうだったのに?まだ子供なのに?死とは年寄りに一番近いモノではないのか。

 

『っな、んで……?』

『インはずっと具合が悪かった』

『…………』

 

——くしゅん!

——あー、ぐじゃみでだー

 

 一瞬、脳裏に過るのは最後に会った時のインの様子。具合が悪いって、あんなのただの風邪じゃないのか。アイツが髪の毛を濡れっぱなしなんかにしてるから。だから、風邪を引いた。それだけの事じゃないのか。

 

『いつからだったか。インのやつ、毎日川で体と髪を洗うようになった。寒いから止めろって言っても聞きゃしないし。汚いとダメなんだって、あいつ、毎日凍ながら川に行ってたんだ』

『……え』

『アイツ、バカだからやっぱり風邪引き始めるし、それでもアイツは川に行くのを止めないし』

『……なんだよ。風邪だろ?死ぬなんて、そんな大袈裟な』

 

 僕の喉はカラカラで、必死に紡ぎ出したその言葉も、どこか喉がつっかえるような感覚だった。風邪くらいで何を大袈裟な。そう、俺は自分に言い聞かせるように言った筈だった。

 

けれど、目の前のこいつはその瞬間、これでもかという程僕を睨みつけた。憎しみというものを、僕はこの時初めて真っ向から向けられた。ひゅっと呼吸が乱れる。

 

『お前みたいな金持ちならそうかもな!?けど、俺達みたいな貧乏人は違う!風邪だからって、ずっと暖かい寝床が用意できる訳じゃない!栄養のあるものを食べられる訳でもない!薬が買える訳でもない!暖かいお湯なんてないから、体を綺麗にしようと思ったら川に行くしかない!体を拭くにも髪を拭くにもタオルなんて、そんな贅沢に毎日使える訳じゃない!』

『……っ』

 

——だいたい、いっつも髪の毛が濡れてるからいけないんだ!汚いな!ちゃんと拭け!だから風邪引くんだよ!

——汚いな!

——クサイ、近寄るな!

 

『風邪くらいで大袈裟?俺の友達は今まで風邪で何人死んだと思う?俺達みたいな年齢になる前に死ぬ子供が、村には山ほど居るんだ!大人になれるか、俺達はまだ分からないんだよ!なんでもかんでも恵まれてるお前には分からない!』

『……あ、あ』

 

 ソイツが口にしてくる言葉の数々に、僕はもうどうして良いか分からなかった。頭の中はグチャグチャで、意味のある言葉を口から発する事が出来ずにいた。

 

『インの奴……ほんとにバカだ。もう4日も熱が高くてまともに動けないでいる。俺の親父も、もうインもダメかもしれないなんて言うし。インもインで、どうしてもソレだけはお前に返したいからって、ニア……妹なんかに頼んで。どうして良いのか分からなくて、ニアは泣きながら俺のとこに来たんだ』

『…………』

 

 目の前のコイツも、だんだんと言葉に力を無くしていった。きっと、こいつにとってインは長年の友達なのだろう。

子供が大人になれない世界なんて、僕にはまったく理解の出来ない世界だ。自分の世界の当たり前が、皆にとっても当たり前だと、今、この瞬間までは、当たり前のように思っていた。

 

 思っていた自分が、何も知らなかった自分が、憎らしい。

 

『返したからな』

『……………』

『お前みたいな金持ちのバカに付き合わなきゃ、インの奴もこんな事にならずに済んだのに……ほんっとに!大バカ野郎!』

 

大バカ野郎。それはインの事か、僕の事か。

吐き捨てるように放たれた言葉を最後に、ソイツは僕の元から勢いよく駆け出して行った。

後に残された僕はしばらくその場に立ち尽くす。ぐるぐると頭の中にアイツの言葉が木霊した。

 

『インが、死ぬ?』

 

 なぁ、僕は今までインに何と言ってきた?何も知らずに、どれほどの愚かな言葉を放ってきた?

 

汚い、臭い、近寄るな。

何度も何度も口にした言葉達。あぁ、僕の言葉の方がよっぽど汚いじゃないか。

 

 

——会いたい人とすれ違わないようにする為!

——本当だ、しあわせが見えた!

——名前、おしえて。

——オブ!次はオブって書く!教えて!

 

 

 イン、イン、イン。

 

 

『イン、会いたいよぉ』

 

 

 僕は懐中時計と本を手にしたまま、誰に縋る事も出来ずに泣いた。僕にとっての幸せが、あんなに容易に傍にあった幸せが。今では、どこに手を伸ばしても触れる事が出来ない。

 

 

イン、お前こそが僕の幸福そものもだ。