———-
——-
—–
インが死ぬかもしれない。
それを知った僕は、ひとしきり泣いた後、急いで家まで走った。
『っはっは、っはっは!』
こんなに走った事は、人生で一度もなかった。ここに来てから、体調を崩す事は少なくなっていたが、僕は余り体が強い方ではない。小さい頃は、よく夜中に咳が止まらなくなって何度も医者を呼ばれたものだ。
だから、激しい運動も、同年代の友達と遊ぶ事も、全部禁止された。
『はっ、はっ!』
初めてなんだ。こうして苦しくなるまで走る事も。誰かの為に走る事も。誰かを大事に思う事も。
こんなにもたった一人の人間に“会いたい”と思う事も。
僕は屋敷についた瞬間『おかえりなさいませ、ぼっちゃま』と頭を下げてくる執事に、勢いよく詰め寄った。
『お父様!お父様はどこにいらっしゃる!?』
『っどうされました?呼吸が乱れていらっしゃるようですが』
『僕の事なんかどうでもいいんだよ!お父様はどこかと聞いてるんだ!』
僕の余りの権幕に執事も最初は戸惑っていたようだった。けれど、僕が余りにも父を呼ぶものだからポロリと零した。
『旦那様なら、今、書斎にいらっしゃいますが』
『……わかった』
『誰も入れぬようにと、仰せつかっております』
駆け出そうとした僕を執事が止める。僕だって分かっている。父が書斎に居る間は決して入らぬようにと、昔からきつく言われているから。けれど、今はそんな事はどうだっていい。そんな事を言っている場合ではないのだ。
『お前は黙っていろ!これは僕の判断だ!』
『ぼっちゃま!』
執事によって掴まれそうになる腕を引っ込め、僕は階段を駆け上がった。お父様の書斎2階の一番奥。一番立派な扉の向こうにある、大きな部屋だ。僕は一瞬ゴクリと唾を呑み下すと、勢いよく扉を開いた。
開けた瞬間、冷たい声が耳の奥に響く。
『誰が入っていいと言った』
思わず乱れていた呼吸が自分の意思に反して止まった気がした。いや、呼吸だけではない。部屋に入った瞬間、自分の体が思い通りに動かいような、そんな錯覚に襲われる。
そんな事、ありはしないのに。けれど、一歩、また一歩と歩を進めるその動きが、どうしてもそれまでと違い思うように動けない。
『ぼ、いや、私です。オブです』
『……私からの言いつけを、お前は忘れてしまったのか』
そう言って机に向かっていた父の目が、静かにこちらを向けられる。その目には、欠片も暖かさなど垣間見る事は出来ず、どこまでいっても冷たかった。
『出ていけ』
『……っ』
心臓が早鐘のように鳴り響く。手は体温をなくしてしまったかのように冷たく、喉はカラカラだ。怖い。そう、これは圧倒的な恐怖だった。けれど、僕は知っている。本当の恐怖はこんなモノではない。
本当に怖いのは、失う事だ。
『お願いです!医者を呼んでください!私の、私の……だ、大事な者が苦しんでいます!村に医者をやってください!』
『……何を言い出すかと思えば』
『お願いします!なんでもします!もっと立派になれるように、今まで以上に励みます!』
『…………はぁ』
必死に叫ぶ。お父様への恐怖。失う事への恐怖。
もう、自分で自分が何を言っているのか訳が分からなかった。片手に抱えたままになっている本を必死に握り締める。
どうしてもこの本を、インに読んでやりたい。ポケットにある懐中時計を渡して、また明日この時間にと言って約束を交わしたい。
一緒に居たい。
『出ていけ』
『お父様!』
『お前は何か勘違いをしていないか』
『……な、なにを』
お父様はもう僕の事など見てはいなかった。既に手元にある資料を見ながら無感情に手を動かしている。
『お前が交渉の材料としてもってきたモノは全て、取引をする前から当たり前にお前に課せられたものだ。立派になるように努める事も、励むことも。お前にとっての義務だ』
『…………』
『出ていけ。子供の駄々に付き合っている暇はない』
そこからは僕がどんなに声を上げても、お父様の目が僕に向けられる事はなかった。
どこかで分かっていた。こうなる事は最初から。
そのうち、騒ぎを聞きつけた使用人達に、僕は引きずられるように連れ出された。僕は何も得る事は出来ず、成す事もできなかった。それもそうだ、僕は裕福な家に住まわせてもらっている、ただの透明人間に過ぎないのだから。
分かっていた。この屋敷では、誰も僕を見ない。名前を呼ばない。
僕には力がない。何かを変えるだけの力、動かす力、助ける力、守る力。何一つ持っていない。ここで何かを成すには、この僕だけの力が必要なのだ。一族を頼らない、血筋に寄らない、僕だけの持つ、誰にも冒されない力が。
『イン、イン、イン……インッ』
思い知らされる。今、僕に出来る事はない。唯一出来る事は、待つ事だけ。あの場所で。約束の時間に。インが来るまで、僕は待つしかないのだ。
もしあの場所にまた来てくれたならば、僕はインの全てに応えてみせる。インの望む事を全てする。僕は、もう“一人”はいやだ。
『イン、ずっと、待ってるから』
だから、早く帰ってきて。