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「アバブ―!」
「なんすかー、アウト先輩」
終業の鐘が鳴る。
待ちに待った終業のその鐘に、俺はすぐに向かいの机のアバブの元に走った。アバブもきっとこの時を心待ちにしていたのだろう。朝は死んだような顔をしていたが、今は幾分マシになっているようだ。
それでも、その顔はどこか青白い。どこか悪いのだろうか。確かにアバブは今日一日、いつもの元気はナリを顰めており、ずっと静かだった。
「アバブ、大丈夫?」
「あー、大丈夫っす。いつもの事なんで」
「いつもの事?」
「……こっちの話っす。で?アウト先輩、どうしたんすか?」
明らかに体調が悪そうなのだが、アバブはそれ以上、俺のその問について言及する事はなかった。言わない相手に無理に聞き出すのも躊躇われるので、俺はアバブから借りていたものを返すべく、紙袋から1冊の書物を取り出した。
「アバブ、これ面白かった!ありがとう!」
「なっ!ななななななな!」
「これ、続きはないの?」
「ちょっ、ちょっ、ちょっ!」
俺が取り出した書物。
それは俺がアバブと二人の夜勤の際に貸してくれた、“ビィエル”の初級教本だ。返すのが遅くなってしまい本当に申し訳なかった。とても絵が綺麗で、物語も引き込まれたので、俺はついついこの話を何度も読んでしまったのだ。
特にビッチウケの主人公が本当は学窓の隣の席の男が大好きなのに、わざと嫌な事を言ったり、わざと目の前で他の男と仲の良さそうな姿を見せる様に、俺は「一体お前は何をやっているんだ!」と何度も拳を握りしめたものだ。
というか、読みながら何度も口に出して叫んでしまった。
——-やめろ!本当に嫌われてしまうぞ!
まったくハラハラさせてくれる。
俺がこの本の登場人物なら、あの日得た3つの教訓を、このビッチウケの男の子に教えてあげられるのに、と何度悔しい思いをしたかしれない。
「こんな職場のど真ん中で何爆弾ぶん投げてくれちゃってるんですか!?」
「え?」
「あぁ、もう!わかりました!楽しんでくれたようで何よりです!」
アバブはそう勢いよく言い切ると、俺の手にあった教本を素早く自身の鞄へと仕舞い込んだ。
「アウト先輩、これからこういった本の貸し借りは、私と先輩が夜勤の時限定にしましょう」
「そんな事したら本を返すのが遅くなるぞ?」
「いいんです、いいんです。別にそんなに急いで返してもらわなくったって」
どこか疲れた様子で肩を落とすアバブに、俺はなんだかよくわからないが申し訳ない事をした気がした。でも、それなら次はいつ、続きの教本を貸してくれるのだろう。
「アバブ、その本の続きは?」
「……そんなに楽しんでくれて申し訳ないっすけど、続きはないっす」
「っ!そんなぁ!」
すげなく返ってきた言葉に、俺は余りのショックさに胸がキュッとしてしまった。なにせ、この話は最後が明らかな途中だったからだ。
なんと言っても、ちょうどビッチウケの主人公に好敵手が現れた所で終わったのだ。しかも、その好敵手というのはビッチウケの主人公よりも素直で可愛らしいときた。
そのライバルの登場により、俺は「ほら、言わんこっちゃない」と、ビッチウケの主人公の自業自得を責めたものだ。
しかし、何故だろう。
読み進めるうちに、素直で可愛らしいその好敵手が、俺にはとても憎らしく見えて仕方がなかった。別に悪いヤツではないのだが、素直になれないビッチウケが可哀想で、俺は何度悔ししい気持ちを飲み込んだか知れない。
というか、読みながら何度も口に出してしまった。
——-やめろ!二人の邪魔をするな!
そして、なんと好敵手がよろけてしまった所を男が支えた瞬間を、ビッチウケが目撃してしまった所で、この初級教本は終わりを迎えた。
いや!ここで終わりなんて、こんなのってないだろ!
「ええー!まだ途中だったじゃん!どんな裏のルートを駆使しても、もう手に入らないのか?」
「……裏ルートっていうか……はぁ。わかりました。ちょっと頑張ってみるっす」
「よろしく頼む、もし金がかかるようなら俺にも言ってくれ。ちゃんと払うから。俺はあの主人公の男の子が今後どうなるか気になって仕方がないんだ」
「……それは、それは」
俺の必死の言葉に、顔色の悪かったアバブは少しだけいつものアバブの顔に戻った。そこには、ビィエルの研究職として日夜元気いっぱいに“好き”を語る、あの姿。
何でも見通す魔法使いのような顔だ。
「なぁ、どうしてあのビッチウケの男の子は素直になれないんだろうな。きっと、相手の男もビッチウケの男の子が好きなのに。好きなのに好きって言えないのは、生きていて大変だと思うんだ。見ていて腹が立つよ」
「でも、そんなビッチ受けをアウト先輩も応援してるんでしょう?」
「そうなんだよ!最初は俺もビッチウケの事が嫌いだったんだけど、どんんどん応援したくなって」
「今はライバルの事が嫌いでしょ?」
アバブの、まるで俺の気持ちを見透かしたような言葉に、俺は思わず首が千切れんばかりに縦に振った。
そう、そうなんだ!やっぱり“ビィエル”を極めると他人の心をも見通す事が出来る力を得るのかもしれない。
「そうなんだよ!あの子は別に悪い事をしている訳じゃないのに!もう見ていたらハラハラして仕方がないんだ!」
「アウト先輩ってそういうとこありますよね。ほんと……時代劇見てたお爺ちゃんみたい」
「え?また、お爺ちゃん?ジダイゲキ?え?そういうとこって、どういうとこ?」
「ふふ、良い意味っすよ」
「良い意味の爺さん扱い……?」
弟やバイからはガキ扱いを受けるのに、アバブからは途端に爺さん扱いを受けるのは何故だろう。
極端過ぎる。そう、俺は贅沢を言っている訳ではない。ただ、俺は年相応の扱いを受ける事が出来れば、それで満足なのに。
あぁ、そうさ。爺さん扱いをされて、俺は再び中々のショックを受けたのだ。
「アウト先輩、もし私に気を遣って急いでこの本を返そうとしてるなら、まだ全然返さなくていいっすよ。まだ持っててもらっても全然かまいません」
「え!?いいの!?」
しかし、次の瞬間アバブから出た提案に、俺は爺さん扱いによるショックを一瞬で消し去った。この本の中に描かれる絵は、アズの描くような絵とは全く異なるのだが、これはこれで綺麗で可愛くてとても好きだ。
真似してみようと練習したが、とてもじゃないが真似出来るものではなかった。
まだ貸してくれるというのであれば、まだまだ借りていたい。
「ありがとうっ!アバブ!この教本の絵、綺麗だからまだ見ていたかったんだよ!」
アバブは余り良いとは言えない顔色の中、フッと微笑んで俺に向かって、今しがた俺がアバブに返したばかりの教本を差し出してきた。
「出来れば早く受け取って、可及的速やかに鞄に仕舞って欲しいっす」
「わかった!返すのは」
「いつでもいいっすから。続きは……まぁ期待せずに待っててください」
「期待するよ!本当に面白かったんだから!」
「アウト先輩のそういうとこ、罪っすよねぇ」
そう言って小さく笑うアバブに、俺は満面の笑みで教本を受け取った。今日も寝る前にこの本を眺めて眠ろう。
「アバブ、途中まで一緒に帰ろう」
「まぁ、途中までと言ってもここ出て私ら真逆の方向が家っすけどね」
「ははっ、確かにそうだけど。それでも」
それでも、ここを出るまでは一緒に帰る。正しいじゃないか。
俺はいつもの横掛けの鞄を肩に掛けると、顔色の悪いアバブの隣に立った。本当は家まで送ってあげたいのだが、きっとアバブは断るだろう。
わかっているから聞かない。けれど、一緒に居れるところまでは見てあげていないと、なんだか心配なのだ。
「アバブ、あんまり無理するなよ」
「はは、まぁ。はい」
ちょっとだけ恨めしそうなその声は、何故か俺を羨ましがっているような気がした。