6:おはようのタイミング

 

 

 

「お、おはよう。池田く、ん」

 

 

 

その瞬間、クラスの空気が一気に氷点下にまで下がったのを、俺は心の温度計で体感した。

 

おい。

お前らが池田を一人にすんなっつったから、俺はこうして話しかけてんのに何だよ。

どうしてお前らは俺の背後でコソコソ冷たい視線を向けてんだよ。

おい、この状況どうしてくれんだ、女子共。

昨日の女子達の言葉を受け、今日、俺は思い切って、アイツに初、話しかけを行ってみた。

その言葉は「おはよう」のみだったが、それはクラスの空気を凍らせるには十分の威力を持っていた。

俺はアイツを見て固まり、アイツはアイツで俺の挨拶に返事をせず、ただジッと俺を驚きに満ち溢れた表情で見上げていた。

 

おい、頼む池田。

お前もいきなりの事で意味がわからないだろうが、ここは俺を助けると思って。

ここは一言おはようと言ってくれ。

そしたら俺も何食わぬ顔で席につけるんだからな。

俺が内心拝むように池上を見ていると、池上は未だに驚いたような表情で茫然と俺を見上げていた。

が、次の瞬間ハッとしたように表情を一変させると、ヤツは声をあげようと顔の筋肉を動かそうとした。

 

俺はそれをヤツの間近で見ていたからわかる。

ヤツは同じく「おはよう」と声を上げようとしてくれたのだ。

しかし、結局俺はその時、ヤツの口からその挨拶を聞く事はなかった。

 

「はいはーい、早く席につけー」

 

そう、ガラリと教室の扉を開けて入って来た担任に全ての意識は持っていかれた。

俺も、もちろんヤツも。

そして、急かされるような言葉に、俺の足も自然と自分の席へと向かう。

アイツは、そんな俺の背中をどんな顔で見ていたのだろうか。

ただ、感じるのはアイツの視線よりも昨日より急激に増加した、女子の鋭い視線だった。

 

いや、あれはタイミングが悪かったんだよ。

俺だって精一杯やったんだ。

もうすぐで、俺はヤツと挨拶を交わす事が可能だったんだ。

信じてくれ女子!

俺はヤツを嫌って、裏で苛めてるわけじゃないんだ!

俺は今まで女子にはちやほやされてきた。

だから、正直こうゆう女子の目には本当に慣れなくて怖い。

 

俺はがっくりとうなだれながら席につくと、その拍子に隣を通り過ぎていったクラスメイトの男子にポンポンと肩を叩かれた。

顔を上げると相手は口パクで「気にすんな!」と言ってくれている。

周りを見渡すと、他の男子も同じようなフォローの目で俺を見ている。

 

いや、問題はアイツじゃないんだよ、皆。

アイツは問題じゃない。

 

問題は今も尚俺に向かって精神的集団制裁を行わんと睨みを利かせてくる女子共なんだ。

俺が内心怯えながら女子の視線に耐えていると担任が「上白垣はインフルエンザで休みだー」と出欠簿をつけながら言っていた。

 

あぁ、栞。

お前、女子の中じゃ多分スゲェ怖くない方だったわ。

俺がポツンと一つだけ空いた席を見ながらそんな事を思っていると、同じく栞の席をボンヤリと眺めていたアイツが目に入ってきた。

あぁ、そうだよな。

今まで栞と休み時間とか過ごしてきたんだもんな。

 

栞が休みだと、やはりそこら辺は手持無沙汰になるだろう。

もう一度、話しかけてみようか。

 

俺が少しだけヤツを見ながらそう思っていると、次の瞬間アイツも俺の方を見てきた。

 

 

ばちり。

 

 

そんな音がしたような気がした。

形の良い切れ長の目。

しかし、先程俺を間近で見上げていた時は、その目は大きく見開かれて、その目の中に俺が映っていた。

 

それと同じ状況が今、また起こっている。

距離はあるが、俺とヤツは今、互いに互いを認識しているのだ。

しかし、あまりにも唐突に目が合いすぎて、俺はなんだか意味なく慌ててしまってすぐに黒板の方へ目を戻してしまった。

 

初めてだった。

こうして授業中、ヤツと目が合うのは。

だから、なんだか凄く……凄く動揺してしまった。

俺は無駄に手の平に汗をかくのを感じると、小さく息を吐いた。

だから、俺は気付いていないふりをした。

ヤツが俺に向かって、何か小さく口を開いたのを。

 

 

“おはよう”と、

 

 

そう、口を動かした、嬉しそうな表情のヤツを。

 

 

 

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栞が居ないとなると、ヤツは休み時間、どうするのだろう。

もしかして、一人になったりしないだろうか。

そんな俺の心配は杞憂に終わった。

 

「一君、ここがわかんないんだけど」

「あーっ、私も私も!教えて欲しいとこがあるの!」

「ずるい!私もー!」

 

栞が居ないからと言って、カリスマの代名詞の周りからは人が居なくなるわけがなかった。なんたってカリスマなのだから。

逆に、栞が居ない事によって転校初日の女子鉄壁バリアーが見事復活して、俺は更にヤツに近付けなくなってしまった。

女子は、昨日、そして今朝、俺に向けてきたような般若のような恐ろしい目を、一体どこに収納したんですかと問いただしたくなるくらい奇麗さっぱり表面から消し去ると、互いにキャイキャイと自分のノートを持ってアイツの席へと駆け寄っていた。

蛇足だが、ヤツは転校してすぐ行われた中間でいきなり学年3位を獲得する程の頭の良さを誇っていた。

その為、女子は受験前と言う忌々しい称号をフル活用して、栞の居ない隙をつきせっせとヤツの元に通うのだ。

 

まぁ。ちなみに、俺は学年4位。

だから。

 

「おい、善ぃ。ここっ!ここ教えてくれよー!次俺ここ当たるんだってー」

「善!ここの英文の訳、お前どう訳した!?」

「善!宿題写させて!」

 

俺は男子に囲まれて予習やら、問題やらに一つ一つぶつかっていた。

まぁ、女子と違うのはその内容が、かなり受験生としてどうかと思うぜ!と言う内容だと言う事だ。

 

「宿題くらいそろそろ自分でやってこいって」

「いやぁ、ついつい昨日の俺は宿題より睡眠をえらんじゃって。てへ!」

「お前それいつもだろうがー、もう。ほら」

「ひゅう!善大好きぃ!男前愛してる!」

 

俺はふざけながら本気で俺に抱きついてくるクラスメイトを振りほどきながら、またチラリとヤツの方を見てみた。

うん、ヤツも現在、あのお得意の、少し困ったような愛想笑いで女子達へ勉強を教えている。

お互い大変なもんだ。

俺が何だかよくわからない連帯感をヤツに覚えていると、俺から宿題を奪って抱きついていたクラスメイトが同じくヤツへと目を向けた。

 

「アイツ、無視する事ねぇのにな。善、マジであぁ言うの気にすんなよな」

「女子に何言われたか知んねぇけど、女子の事も気にすんなよ、善」

「悪いのは向こうなんだからさ」

 

またしても男子全員からのフォロー大会。

まぁ、そうだろう。

傍から見れば、俺はヤツから挨拶を無視されたように見えたのだろうから。

あれ、最近の俺、傍から見たら相当不憫な人じゃないか。

 

転校生により、今までチヤホヤしてきた女子からは睨まれ。

転校生により、彼女には捨てられ。

転校生には、無視され。

高校最後の年にしちゃ、けっこうヘビィな出来事ばっかなような気がする。

姉ちゃんの少女漫画の主人公くらいヘビィだ。

けど、それは傍から見た状態であり、実際はそうでない事を俺は知っている。

まぁ、一番上のだけはリアルっちゃあリアルだが。

 

実際、俺は栞に捨てられたわけではないし、池田がタイミングさえ外さなかったら、きっと挨拶をしてくれていた。

全て、タイミングが悪かっただけの事なんだよな。

そう思うと、俺は少しだけ残念な気がした。

もし……、もし、だ。

あの時、先生が教室に入ってくるのがちょっと遅くて、俺とアイツがきちんと笑顔で挨拶できていたら、今、この状況も少しは何かが変わっていたのだろうか。

 

まだ、愛想笑いしか見た事ないけど、もしかしたら、アイツの愛想笑いじゃない笑顔を見れるくらいの関係を築けたのだろうか。

そう思うと、俺は本当に、心から、心底、まことに、残念な気がしてならなかった。

やっぱり、俺はヤツが転校して1カ月たった今でも、ヤツのカリスマ臭に当てられた一般人の一人なのだ。

 

「……あーぁ、なんか……どうして、こう、上手くいかないかねぇ」

 

俺が小さく呟くと、俺の宿題を持ったクラスメイトがウンウンとしみじみ頷いて俺の肩を叩いてきた。

 

「だな。人生、上手くいかない事ばっかだ」

「……おい、またお前チャック開いてんぞ」

 

まぁ、とりあえず、チャックに関しては気を付ければ何とかなるぞ。

 

その後、ソイツのあだ名は露出狂になった。