133:ある記事

 

 

 

 

 ある日のプレス紙に、教会の記事が掲載された。

 

 

 それは、とある神官職の者達が自身の職権を乱用して、訪れた信者を慰み者にしていたというものだった。

 

そして、その被害者である信者の殆どが、幼い子供だったという。

 その者達は皆、体内のマナの在り方に不安定さや疾患を持つ子供達で、その多くは“治療”目的で親に連れられて教会へやって来ていた。

 

 犯行の動機を神官達はこう答えている。

 あれは、異端者を浄化する為の儀式だったのだ、と。

 

 宗教改革から1000年以上の時を経ても尚、生まれ続ける差別を孕んだ愚行に教会側は厳しい対応をしていくと答えている。

 

 と、その文章はあっさりと何事もなかったかのように締めくくられていた。

しかも、その記事はプレス紙の最も目立たない紙面の片隅に、ほんの数行程度で報知されているだけ。加害者の神官について個人名が挙げられる訳でもなく、被害者へのケアや保障を謳う文面は一行だってない。

 

「…………」

 

 きっと多くの人間はその記事を読む事もなければ、読んだとしても、だからと言って教会に大きな非難の声を上げる訳でもないのだろう。

人々は変わらず教会へと祈りを捧げに行くし、きっとこれからもマナに疾患を持つ子を持った親は、子供の手を引いて教会へ向かうに違いない。

 

 それもこれも、人々の記憶には確かに“前世”が存在するから。教会への支持や信仰は揺るがない。説明のつかない神秘を司る者達を、人々は疑わない。

 

それが、“信仰”というものだ。

 

 子供一人が犠牲になった所で、何も変わらない。

 そう、世界は何も、変わらないのだ。

 

 俺は仕事帰り、ふと手に取ったプレス紙を書棚へ戻すと、なんとも言えない気分で書房を後にした。