134:誰かの特別

 

 

 

 知らぬ間に俺は真っ暗になった広場に立っていた。どうやら知らぬ間に、足を向けてしまったらしい。鞄の中には2本の酒瓶。

 

——-来週は、アウトの分の酒も持っておいでよ!

 

 あのヴァイスとの約束が、ウィズの酒場を紹介した今、有効なのかは分からなかったが、俺は今この広場に立っている。

もしかすると、ヴァイスが居るかもしれないと思ったが、どうやら居ないようだ。さっそくヴァイスはウィズの酒場に向かったのかもしれない。

 

俺は一見すると誰も居ない広場をただぼんやりと無意味に歩く。吐く息は白く、冬はどんどん濃く寒さを増すばかりだ。

 

「……ウィズの酒場、行きづらいなぁ」

「どうして?」

「うわっ!?」

 

 返事など想定していなかった呟きに、なんと返事がくるとは思ってもみなかった。

俺は一瞬、心臓がキュッと縮こまったような感覚に陥りながら、とっさに声のする方に目をやった。

 そこには、闇夜の中でも変わらず明るい笑顔を灯すヴァイスの姿。最初に此処に来た時は誰も居ないと思っていたのに、どうやらそれは勘違いだったようだ。

 

 本当に風のように急に形もなく現れるヤツである。

 

「こんばんは!アウト!昨日ぶり!今日も良い日だった?」

「あー、うん。今日は特に何もなくて、良い日だったよ」

「ふーん、じゃあ。昨日は?」

 

 昨日は?と聞かれて俺は一瞬言葉を詰まらせてしまった。昨日は勿論“良い日”だった筈だ。ウィズとの約束は果たせたし、窓掛は買えなかったが次週の約束まで取り付けた。アバブからは待望の教本の続きを貰う事も出来たのだ。

 

 楽しい1日だった筈だ。

 

 それなのに、俺は「もちろん!良い日だったよ!」と笑顔で口にする事が出来ない。それもこれも全て最後のウィズの酒場での出来事が原因である。いや、決定的な一つの固有名詞だけ挙げて良いのであれば“バイ”が原因だ。

 

「……良い日じゃなかった?」

「どうだろ。わからないや」

「ふーん、アウトって変だね。自分の事なのに分からないんだ!」

 

 変だね。そんな風に笑って言われてしまえば、確かにその通りである。元はと言えば昨日のウィズの、あの心配そうな顔も、ソレが原因なのだ。

俺が、自分の事すらまともに理解出来ていないせい。

 他人の事はおろか、自分の“ぎょうかん”すら読めない。俺は本当におかしなヤツだ。

 

「まぁ、そんな事はどうでも良いさ!さぁ、アウト!これは約束のものだよ!受け取って!」

「へ?」

 

 俺が自身の不甲斐なさに密かなもどかしさを覚えていると、話しを振ってきた当のヴァイスは、気にした素振りなど一切見せず俺に向かって1枚の銀貨を投げて寄越した。

 

「っとと!」

 

 空中でキラリと煌めく銀貨を、俺は思わず両手で掴み取る。人間、金への本能はどんな状態でも遺憾なく発揮できるらしい。あぁ、なんて事だ!呆れてものも言えない。

 

「よし、受け取ったね。そしたら、その鞄の中にあるモノを1本、僕に渡してくれたまえ!」

「ははっ。分かったよ。ヴァイス」

 

 いつもと変わらぬヴァイスの言葉に、俺は先程まで胸の中に巣食っていた、どうしようもないモヤモヤが少しだけ晴れるのを感じた。ヴァイスは本当に颯爽としている。

 

こちらの気持ちなど気にしないその風のような気軽さが、今の俺にはとても心地良かった。

 

「ヴァイスはもう此処へは来ないと思っていたよ」

「なんで?」

「だって、こないだウィズの酒場に招待されていただろう?だから、今日はさっそくヴァイスはウィズの所に行ってるものだとばかり思ってた」

「うーん、あの光景を見て“招待された”って表現するアウトは、とっても個性的だよね!」

「ん?」

 

 俺はウィズと共に広場の片隅にある長椅子に腰かけると、星の輝く空を見上げた。

見上げた空に月は見えない。今日はどうやら“初月”らしい。そのお陰か、いつもよりも星の輝きがはっきりと見える気がする。

 

「どちらにせよ、あの石頭との約束より、アウトとの約束の方が先だったじゃないか。それに、アウトは僕のお気に入りだからね。キミが望む時、僕はいつでもアウトの傍に居るよ」

「ははっ、ありがと。今日は本当にヴァイスに会いたかったから、会えて嬉しいよ」

 

 ヴァイスの言葉はいつも真っ直ぐだ。真っ直ぐだから“ぎょうかん”なんて読まなくても、スッと心の中に染み入ってくる。

本当に、ありがたい。

 

「アウト。僕は……僕からは何も聞かないよ?聞かないけれど、キミが隣で何かを口ずさむのであれば、もちろん聴かせてもらう。僕はいっつもアウトに僕の歌を聴いてもらってるからね」

「…………」

 

 ヴァイスはさっそく酒瓶を勢いよく開け放つと、此方を見てニコリと軽やかな笑みを浮かべた。その笑みにつられるように、俺は思わず口を開いてしまった。それこそ、歌でも口ずさむように、軽い気持ちで。

 

「ヴァイスは神官だから、“見えて”るよね。俺にマナが無い事」

「…………」

 

 俺の言葉にヴァイスは頷く訳でも、否定する訳でもなく首を横にコテンと傾げた。ただ、口元には小さく笑みを浮かべたままなので、俺は気にせず話を続ける事にする。

 

「俺って皆と違って“前世”の記憶が無いからさ。だから、その……昔はよく“誰か”の望む“誰か”になってた」

 

——–イン!やっと会えた!俺だよ!フロムだよ!

——–ずっと、会いたかった……イン!

——–お兄ちゃん、お兄ちゃん!

 

 あぁ、そうだ。そうなのだ。あんなの、今に始まった事ではない。まだ幼かった頃、何度もあった事だ。