137:妹をあやすように

 

 

 

 目覚めると、そこはいつもの見慣れた天井があった。

 

 

 俺は布団から出た顔が冬の空気でツンとするのを感じると、毛布を口元まで持ってきてガサガサと寝がえりをうった。頭の半分はまだ眠っているような感覚であり、なかなか夢と現実の区別がつかない。

 今、ここに居る俺は何だっけ?

 

「ぅううん、あぅ」

「…………あ」

 

 すると、隣から聞こえてきたとろんとした呻き声に、俺はようやく自分自身のぼんやりとした意識と決別する事が出来た。

 寝返りをうった先。声のする方を薄目を開けて見てみれば、そこには真っ赤な髪の毛を布団の海にたゆたわせて眠るバイの姿がある。その髪色は本当に鮮やかで、一気に目が覚めてしまった。

 

「あぁ、」

 

 そうだった。昨日、ヴァイスと共に酒を飲んだ後、俺はすぐに家に帰ったのである。いつもであれば、その後は必ずウィズの酒場に向かうのだが、何故か昨日はウィズの所に行く気になれなかった。

こんな気持ちは初めてだ。バイの事も確かに原因としてあるのだが、何故か昨日はウィズの顔を見るのが憚られてしまったのだ。後ろめたい、とでも言うのだろうか。

 

 何がどう後ろめたいのか、俺自身にもさっぱりわからないのだが。

 

「そういえば、昨日……俺、ヴァイスと何をしてたんだっけ?」

 

 俺は未だに寝ぼけが取れないのか、必死に昨日の記憶の糸を辿ろうとするが上手く思い出せない。何か女性の話を聞いた気がするのだが、あれはヴァイスの前世の話だったのだろか。

 そうかもしれない。なんだか、酒を前に喜んでいたようだったし、きっとそうだろう。ヴァイスの前世の話は俺も興味がある。また今度会った時に詳しく聞いてみよう。

 

「ぅううん、さむい」

「ったく、こっちの気も知らないで」

 

 隣から聞こえてきた呑気な寝言に、俺はとっさにバイのズレた毛布を肩まで掛けてやった。

 

「はぁっ……もう」

 

 まぁ、そんな訳で俺がまっすぐと家路につくと、まさかまさか。家の前で蹲るバイと鉢合わせたのだ。この部屋でビィエルの教本を真剣に読んでいた時のように、寮の入口で足を折り、小さくまとまったバイの姿が、俺の寝起きの頭に鮮明に蘇ってくる。

 

『どうして、店に来ないんだよ』

 

 帰ってきた俺に、バイは目を真っ赤にしたまま鼻をすすり、恨みがましそうに此方を見上げて言った。

小さく震える体に触れてみれば、バイの体は氷のように冷たく『一体いつからここに居たんだ!』と怒鳴り付け、急いでバイを部屋に入れてやった。すぐに部屋を暖め、毛布でグルグル巻きにして、最後にはこれでもかと言う程熱いパウの乳を無理やり飲ませた。

 

本当は暖かいシャワーでも浴びさせてやりたかったのだが、未だに熱結石は壊れたままであるため、毛布と熱いパウの乳でどうにかするしかなかったのだ。

 

『お兄ちゃん』

『俺はお前の兄ちゃんじゃない。俺の弟はアボードだけだって言ってるだろ』

 

 何度やったか知れないこのやり取りも、もう何の感慨もなく口から放たれる。まるで機械仕掛けの人形のようだ。

 

 分かっていた事だが、バイはウィズやトウのように聞き分けが良くなかった。違うと言っても聞きゃしない。

 ファーを紹介してやったあの日から、バイは諦める事なく俺に対して『お兄ちゃん』と呼び掛けてくるのだ。自分よりも大きな男に呼ばれる、その幼い子供のような呼び名は、聞く度に違和感しかなかった。

 特にアボードから殆ど「兄」という呼び名を使われてこなかった俺からすれば、特に、だ。

 

 違うと言えば、泣き喚き。ウィズとトウが止めても暴れて手が付けられない。あの日は、本当に大変だったのだ。

 興奮に興奮を重ね、俺から離れず暴れ散らかすバイに、最終的にはアボードの鉄拳制裁という名の拳がバイの腹に一発ぶち込まれた事で、全ての幕が強制的に下ろされた。

 

「おい、バイ。そろそろ起きろ。朝だぞ」

「ぅぅう、もう少し……もう少しねる」

「ったく、遅刻しても知らないからな」

 

 そう、俺が隣の布団から体を起こした瞬間、俺の腕は物凄い力でバイに引っ張られた。そのせいで、俺の体はまたしても暖かい布団に勢いよく引き戻されてしまった。しかも、そのままバイの寝ていた布団に引きずり込まれるのだから堪らない。

 

「バイ…お前なぁ!」

 

 二人で潜る布団の中というのは、一人のソレと比べて遥かに暖かい。

 あぁ、もう。ただでさえ寒くて起き上がるのに相当な精神力を要したのに、こんな事をされたら、また毛布から抜け出すのに苦労するではないか!

 

「いい加減にしろ!お前も仕事だろ!?」

「……俺は非番だもん」

「お、ま、えは!非番でも!俺は仕事なんだよ!」

「……いやだ」

 

 いやだ。そう言って口を突き出すその顔は、まるで子供。本当に小さな女の子のよう。末っ子末っ子と思ってきたが、本当に末っ子だとは思いもよらなかった。

 

俺は「はぁ」と小さく溜息を吐くと、至近距離にあるバイの顔に目をやった。寝起きで髪の毛が縦横無尽にハネているとは言え、やはりその顔は驚くほど整っている。その腕の中に居るのが自分だと言うのが、またなんとも可笑しな状況である。

 

「何がそんなに嫌なんだ?」

 

 俺はギュウギュウと力強く俺の体を拘束してくるバイに、その耳元にそっと呟くように尋ねた。この体格差では無理やり抜け出す事など叶わない。それに、俺だってもうバイがあんな風に泣くのは見たくないのだ。

 

 バイが泣き顔は、何故だから俺の胸を酷く締め付けてくるのだ。

 

「だって、お兄ちゃん、すぐに俺を置いてどっか行くじゃん。起きたら居なかったし、酒場にも来なかったし。それに」

「…………」

 

 それに、の後に言葉が続く事はなかった。きっと、それは俺の記憶にはない「それに、」だ。バイがまだバイではなかった時に、俺ではない人に置いていかれた記憶。言われても否定する事しかないから、言わずに黙ってくれて良かったと思う。

 

「バイ。そんなに嫌なら、今日はここに居ていいよ」

「…………どうせそんな事言って帰って来ない気なんだろ」

「何言ってんだよ。ここがどこか分かってる?俺の家なんですけど?」

——-ここに帰って来なかったら、一体俺はどこに帰るんだよ。

 

 俺の言葉にバイは少しだけ迷っている様子で、拘束する腕の力が少しだけ弱まった。これはもう一押しでどうにかなるかもしれない。俺は、目の前にあるバイの顔を両手で挟んでやると、しっかりと目を合わせて言った。

 

「なんと!まだ言ってなかったけど、実はバイに良い知らせがあります!」

「……は?」

 

 俺は未だに寝起きのまま、まだ声の出慣れていない喉を必死に叩き起こすように声を弾ませた。そんな俺に、バイは「なに」と少しだけ迷惑そうな表情で答える。

そんな顔をしていられるのは今のうちだ。きっと、バイは次の瞬間には完全に笑顔になるに違いない。

 

「アバブから教本の続きを頂きました!」

「ホントに!?」

 

 俺からの突然の朗報に、バイはみるみるうちに笑顔を浮かべると勢いよく布団から起き上がった。そのせいで、それまで人肌と柔らかい毛布で暖かかった空間が、一気になくなり部屋の冷気が体を纏っていく。

ここまで一気に起き上がられると、心の準備の一切出来ていなかった俺としては、毛布の温もりが恋しくて仕方がない。戻ってこい!バイ!

 

「見せて!」

「ハイハイ、後で出してやるから。まず顔洗ってこよ」

「うん!」

 

 バイは一気に機嫌が直ったのか、俺の部屋から1階の水場に向かうべく、飛び跳ねて靴を履き始めた。この寒さへの順応の早さは、さすが北部生まれ北部育ちと言ったところか。

俺が「寒すぎ」と軽い上着を羽織っていると、先に部屋から出ていたバイがヒョコリと開いたままの部屋の戸から顔を出してきた。

 

「ねぇ、お兄ちゃん!今日すぐ帰ってくる?」

「お兄ちゃんじゃないし……帰る帰る。帰りますよ」

「絶対だからな!ウィズの酒場なんかに寄ってきたら承知しねぇから!」

「ハイハイ」

 

 俺の返事に安心したのか、バイはそのまま笑顔で部屋から駆け出して行った。

 どうやら今日も俺はウィズの所には行けないらしい。けれど、何故だろう。いつもなら口惜しく感じられるその事実に、俺は少しだけホッとしていた。

 

 ホッとした拍子に、俺は無意識のうちに自身の唇に手を触れていた。触れた唇は冬の乾燥した空気のせいで、妙にかさついていた。