大事件が起こった。
俺の息子、インが死にそうだ。俺の説教が遅かった。
遅すぎた。
熱が下がらず、数日間、インは高熱にうなされた。
娘のニアや妻のヴィアには、ひとまず寝室には近づかせないようにした。二人には悪いが、居間に簡易のベッドを作って寝てもらっている。
ただの風邪とは言え、まだ幼いニアに移ったりしたら、それこそひとたまりもない。ヴィアにはニアの面倒を見てもらいつつ、インに近づかないように見張ってもらっている。
ニアは極度のお兄ちゃん子だ。
そのせいで、ニアも最近では一切元気を失ってしまっている。
あぁ、イン。早く良くなるんだ。
俺は毎晩寝ずにインの看病をした。高い熱にうなされ、時には吐き、時には漏らし、事ある事にシクシクと泣く。怖い夢でも見ているのだろう。夜中になると震えて飛び起きる。飛び起きたかと思えば嘔吐する。
日に日に衰弱していっているように見えるのは、きっと気のせいではないはずだ。
『これは……』
ある日、いつものようにインの額に置いていた氷袋を変えてやっていると、俺はインの秘密をポロリと見つけた。それは、まるで満月のような美しいナニかだった。
中を見ると、数本の針が動いて何かを示している。
あぁ、きっと“時計”という奴だろう。
俺でも分かる。これは物凄く高価なモノだ。
こんなモノ、一体いつから持っているのだろう。
『新しい、友達かい?』
『はぁ、はぁ、はぁ』
返事が来る筈もない事は分かっていたが、それでも問いかけられずにおれなかった。早く元気になって、またお父さんと駆け回ってくれ。
キミが居るから、お父さんはまだまだ子供で居られる。
イン、これをくれたキミの友達についても、まだまだ何も知らない。
お父さんの観客の事も、まだ話して居なかったよな?
——–可愛い子、はやく、太陽の下へ戻っておいで。
夜の散歩は、しばらくお休みだ。
—————————-
俺は実に10日ぶりに夜の散歩に出かけた。
インがやっと全快したのだ。
インはと言えば、今朝全快した途端、まるで矢のように駆けて遊びに行ってしまった。まったく、子供というのは本当に元気だ。
俺はと言えば、そうだな。
少し疲れた。体も疲れたが、何より心も疲れた。あとはホッとした。家族を失わずに済んだ事による気のゆるみが、張りつめていた体を一気に崩した。
そういえば、あの夜の男は居るだろうか。俺の歌が無くて、きっと大層残念に思っていたに違いない。今日はサービスの為に、いつもより多めに歌ってやらなければ。
『…………』
と、思ったのだが。
俺の予想に反する事が起こった。男が居なかったわけではない。男は居た。夜の男はそこに居た。
いつも俺が乗って歌う大岩の上に。何か瓶に入った飲み物を片手に。どうやら、また遠くを見ているようだ。
しかも、何か小さな声で歌っているではないか。俺は夜の男によって舞台を奪われてしまった!あぁ!10日も舞台に穴を空けてしまった報いか!
しかし、俺は非常に安心した。
男の歌は非常に下手くそだったからだ。これなら俺が舞台を奪還するのも瞬く間に違いない。
——–可愛いあの子が、かえってきた。太陽の下に。たくさんの笑顔を引き連れて。
俺は歌いながら大岩の周りで踊った。さぁ、俺の上手い歌に恐れをなしたであろう!早く舞台を俺と替われ!
しかし、俺の歌を聞いた男は一瞬驚いたような顔でこちらを見下ろしてきたが、いやしかし、一向に大岩から降りてくる気配はない。終いには、また遠くを見ながら瓶に入った飲み物に口を付ける始末。
一体何をやっているんだ!そこは客席ではない!早く下りろ!
——–お似合いの明るい場所で、あの子の笑顔が弾けることが、
しかし、俺も大岩の下で気分良く歌い始めてしまっていた為、引くに引けない。舞台役者は途中で舞台を投げ出したりしないのだ。
——–わたしの、いちばんの幸福
しかも、大岩の上よりも原っぱの方が断然広く、動き回る事の出来る場所が広い為、俺はなんだか楽しくなってきた。
昨日までは“お父さん”をしっかりやった。今日くらいは、お父さんでも変わり者でない、ただの“スルー”で居ようじゃないか!
———ララララ、ララ、ラララ
俺はクルクルと一人で原っぱの舞台を好きなように踊り散らすと、思ったのだ。
今日から舞台はこちらに変えよう!と。
やはり、あの大岩の上では俺の素晴らしい踊りが全力で披露できない。それに、客は高い所から見ていた方が、きっと見やすかろう。
『はーっ!気持ちいい!』
俺は一曲歌い終えると、勢いよく原っぱに寝こけた。
もう冬間近だ。正直呼吸する度に白い吐息が空中に舞うのだが、俺は歌いながら踊り散らしていたので、全く寒くない。
やっぱり、夜の散歩は最高だ!
『その曲は』
『ん?』
『その曲は、なんという曲だ』
驚いた。まさか客が俺に話しかけて来た。夜の男のその声は、やはり最初に聞いた通り、夜のような声だった。静かで、濃紺のような声だ。
どうやら俺の舞台の愛好者になってしまったらしい。どおりで、最初にこの男が歌っていた曲も、俺がいつも歌っている曲だと思った。
とうとう俺にも愛好者が出来てしまったか!これは本格的に家族に自慢した方が良さそうだ。
『知らん!』
『……知らない、だと』
『ああ!知らん!生まれた時からこの歌の事を知っていたが、曲名は知らん!歌の事しか、俺は知らない!』
俺は原っぱから勢いよく体を起こすと、大岩の上に座る男を見上げた。手に持っている瓶には、なにやらレイゾンの果実のような絵が描いてある。
『さすが、変わり者と呼ばれるだけの事はある』
『なんだって?』
『…………』
男が何か言ったような気がしたが、もう聞き返しても男は何も答えなかった。答えないので、ひとまずもう一曲歌う事にした。
今日は久々の舞台なので、愛好者も出来た事だし存分に奉仕活動をしなければ!
———おぼえてる?はじめて話した日のことを。ル、ララ。
—————————-
『イン、お父さんに愛好者が出来たんだぞ!』
『あいこうしゃ?』
俺はさっそく元気になったインに、俺の歌の愛好者について教えてやった。ニアは「ハイハイ」と言って余り聞いてくれなかったし、ヴィアは何故か『あははは!!スルーったら!もう本当におもしろーい!』と言って、いつものように笑っていた。
俺は、ひっとつも面白い話をした覚えはないのだが。
仕方がないので、俺は満を持して、インに教えてやった。インが一番俺の話を真剣に聞いてくれる。男同士だし、話の分かる奴なのだ。
『愛好者っていうのは、そう、好きな人だ。お父さんを好きな人が出来た!つまり、お父さんは人気者だ!』
『へえ!その人はなんていう名前の人?』
『知らん!』
なんていう人、なんて返されるとは思わなかった。
“夜のような男”と俺は勝手に呼んでいるが、名前となれば話は別だ。知らん、全く知らん。
すると、俺の返事にインは驚いたような顔をすると、すぐに俺を可哀想なモノでも見るような目を向けてきた。なんだ!インにこんな顔を向けられた事など、未だかつて一度もないぞ!
『お父さん、名前も知らないんじゃ。そんなの、お父さんを好きかどうかなんて分からないじゃないか。友達はね、名前を知ってからちょっとずつなるんだよ?』
『ちがっ!違うぞ!イン!愛好者は友達とは違う!父さんの事を一方的に好きな人を言うんだ!』
『お父さん、名前がない人なんていないよ?名前がないんじゃ、きっとその人はいない人なんだよ』
残念だけどね。
そんな調子で息子から肩を叩かれた父親の気持ちを、察する事など出来るだろうか。いや、出来よう筈もない。
『名前が分かればいいんだな!?』
『まずはそこからだよ。オレだって、最初はオブの名前も知らなかったけど、今は知ってるし、オブの名前だって書ける。オブとオレは一番の仲良しだからね。……それなら、オブはオレのあいこうしゃって事になるのかな!』
『くぅぅ、またオブの話か!』
俺は途中からオブの話一辺倒になってしまった息子に、心の中で拳を作り上げた。作り上げて『名前、名前、名前』と何度も心に刻んだ。歌うのに夢中で聞くのを忘れないようにしなければ。
そうしなければ、俺はインの中で空想のお友達と遊ぶ“可哀想なお父さん”になってしまう!
———————-
『なあ!お前!名前は何というんだ!』
『……は』
俺は今日はこの男に奉仕しに来た訳ではない。歌は二の次。今日は父親の威厳を取り戻す為に、まずはこの男の事を知らなければならないのだ。
『いいから!名前を言え!それともお前は本当に俺の空想上の人物なのか!?』
『……なんの事やら』
男は今日も大岩の上で、瓶を片手に、葉巻をくゆらせていた。葉巻のせいか、もったいぶって、一向に口を割ろうとしない。俺はと言えば、そんな男の先へと進まない態度に頭を掻きむしりたい衝動に襲われた。
襲われたので、今日は俺も大岩に登る事にした。
『おいっ!お前、名前があるのか。ないのか。まずはそこからだ!』
『……やかましい』
仕方がない。余り愛好者に舞台裏を見せるのは憚られるが、まずは俺の名を教えてやる事にしよう。
『仕方がない。まずは俺の愛好者であるお前に、特別に俺の名を教えてやろう』
『変わり者のスルー』
『そうだ、ソレだ』
まさかの知られていた。
俺は一瞬にして自身の律動を崩されるのを感じると、次の一手を思案すべく、岩の上に腰かける男の隣で腕を組んだ。すると、葉巻を岩肌へとこすり付け、火を消した男が、視線だけ此方へ向けて来た。
『お前は“変わり者”である事を否定しないのだな』
『俺を変わり者と決めるのは、俺ではないからな。俺を呼ぶ相手の自由さ』
『周りから、変人、酔狂人、奇人などと呼ばれていても、か』
『俺が関与するところではない』
『……痴人と蔑まれていたとしても、か』
正直、俺は夜の男の使う言葉が、余りにも多彩過ぎて殆ど意味などわかっちゃ居なかった。けれど、まぁ、どれも“変わり者”という意味の言葉だろう。葉巻が終わると、男は次にレイゾンの実の描かれた瓶を口に付け始める。
『周りの人間からの評価について、俺がどうこう言える立場ではない。周りの勝手さ』
『……大愚か、それとも奇傑か』
『なんだ?お前はなにか。周りからの評価がそんなに気になるのか?』
『…………』
黙る男に、俺はこの男が、実は思ったより“頼りのない男”だと知った。
確か、昼間に見た時は、もっと堂々としていたような気がするが、なんだ。葉巻と飲み物と、俺の歌がないと不安で眠れない、ただの大きな子供であったか。
仕方がない。名前は今度にして、今日も歌って寝かしつけてやろう。
———-おとうさん、きょうも暗い、暗い、夜がきた。
久々にこの大岩の上で歌った。広い地面も良いが、高い目線というのも、やはり捨てがたい。冬の空気が非常にツンとして、気持ちの良い気がする。
———わたしを、たべる。すべてを飲み込む真っ暗の闇。けれど、ちがったの。
チラと隣を見てみれば、男は静かに目を閉じて、俺の歌を聞いているようだった。そういえば、俺の歌をこうも黙って最後まで聞いてくれたのは、家族以外では初めてではないだろうか。
やはり、歌は聞いてくれる人間が居て、また一つ上の段階へと昇るのだろう。俺は今、とても、非常に満足だ。満足な気分で歌い終えた。
『……名など知ってどうする』
『息子に証明してみせる』
『なにを』
『お前の存在を』
『…………見えてこん』
『息子が言うには、名前のないモノは無いのと同じらしい。だから、ひとまずアンタの存在を証明するのに名が居るんだ』
『…………』
そこから、男は何も答えなかった。そのせいで、俺はこの夜の男が、本当はこの世には居ない、俺の世界の中だけに居る奴なのでは?と心底ゾッとする想像をしてしまった。
なので、そのゾッとを消す為に、一つ考えた。
『けどまぁ、どう呼ぶかは他人の自由だしな。俺はお前を勝手に好きなように呼ぼう』
『…………』
『頼りないヨル。そう呼ぶ事にしよう』
『……頼りない、だと?』
『怖がりのヨル、でも良いが』
『……不愉快だ』
男は吐き捨てるように言うと、瓶を口に付けて一気に飲みほした。ソレを飲むと、どうやら気分が高揚するのか、白かった顔がじょじょに赤くなっているような気がする。
『ヨル、お前自分の“頼りなさ”や“怖がり”から目を逸らすと、自分で自分が見えなくなって、そのせいで、他人の評価に翻弄される事になるぞ』
『……この大愚が』
ヨルは大岩から勢いよく飛び降りると、俺の言葉から耳を塞ぐように去って行った。去る方向は、あの大きくて広くて、その割に住む人間は非常に少ない、あの屋敷。
俺は子供のように怒ってしまったヨルの背を黙って見送ると、先程ヨルが大岩の上に押し付けて残して行った葉巻を手に取った。
『ほほぉ。これが、葉巻か』
俺はヨルがしていたように、短くなったソレを咥えてみる。
『ぐふっ』
苦い、臭い、最悪。
特に臭いは最悪だ。最悪なので、ポイと葉巻を投げ捨て、俺はいつものように草原を勢いよく駆け出した。