———-
——–
—–
落ちて行く。落ちて行く。
響き渡る多くの人々のざわめき。明るい声。楽しそうな笑顔。
ここは一体。
どこ。
『マスター!ねぇ、聞いてる?』
『っ!』
俺は騒がしい店内で、カウンターに座る可愛らしい女性を前に、なんだか、たった今目覚めたような気分だった。
そして、その瞬間思い出す。ここがどこで、俺は誰か。
俺は、思い出した。
『もう、ひどい!マスターが聞きたいって言うから話してたのに』
『あぁ、ごめんなさい。で、何の話でしたっけ?』
『だから、息子から手紙と写真が届いたの!』
そう、此処は俺の営む酒場。そして、俺はこの酒場の店主。皆からは“マスター”って呼ばれている。
『しゃしん?しゃしんって何ですか?』
この可愛らしいお母さんは、俺の店でも古くからの常連の一人だ。ついこないだまでは、山奥の病院に入る事になったせいで、息子さんと会えなくなってしまったと泣いていたのに、今は笑っている。
良かった。なんだか、良い事があったみたいだ。
『えっと、写真っていうのはね。なんていうのかしら。凄く、現実のままを切り取った絵の事よ。それを記念にする為に、大切な時に撮って思い出にするの』
『へえ!いいですね!それ!凄く良い!見たい!』
俺はカウンターの内側から身を乗り出して、女性に向かって頼んでみる。現実をそのまま切り取った絵なんて、なんて素敵なんだろう!
是非、見てみたい!
———–インを探せ!
『っ!』
見てみたい!
そう思ったと同時に、俺の頭の中に強い衝撃を伴った言葉が響く。
なんだ、これは。
『見たい!?そうでしょ!私も見て欲しいわ!もう小さかったあの頃とは全然違って、背も物凄く大きくなっているみたいなの!沢山のお友達と一緒に写ってて、とっても格好良かったのよ!』
『へえ』
———-インを!早く、探し出すんだ!
頭の中に繰り返し聞こえる言葉。強い感情。ただ、目の前で嬉しそうに話す女性を見た瞬間、俺は、またしても強い衝撃が頭の中を駆け巡るのを感じた。
『これは親の欲目だと言われそうだけれど、違うのよ。写真に写っている男の子達の中で、一等格好良かったんだから!あれは女の子達が放っておかないわ!でも、まだまだあの子の一番は私よ。だって、たくさん手紙をくれるんですから』
『……見たいな。手紙と、しゃしん』
———–名前を、名前を聞くんだ!名を!
『見せてあげたいんだけど、今、此処にはないのよ』
『……じゃあ、その手にあるのは?』
俺は、いつの間にか女性が持っていた1枚の封筒を指さした。
そして、その封筒の存在に、女性自身も驚いているようで『あれ?あれれ』と首を傾げている。その在り様が、まるで、うら若い少女のようで、俺は本当に可愛らしい女性だなと心から思ったのだった。
『あぁっ!手紙、あったわ。あの子からの手紙……』
『良かったですね』
『一緒に見ましょう!』
そう言って差し出された手紙の封筒を見て、俺は改めて女性の顔を見た。嬉しそうに手紙としゃしんを取り出す女性。
開けられた封。入っていた封筒。
そこには、大きく、そして少し乱暴に書かれた文字で、こう書いてあった。
<柊 愛子 様>
見た事のない文字で書かれていたのに、俺はその文字をスルリと読み解く事が出来た。
『ひいらぎ あいこさん』
『どうしたの?急に私の名前なんて。それより、この写真よ!見て!ほら!』
それまで名を聞いても『あれ?なんだったかしら?』と首を傾げていたのに、どうしてだろう。
俺が彼女の名を口にした途端、まるで忘れていた事を忘れてしまったかのように、彼女は、そう、愛子さんは、気にした風もなく、その“しゃしん”を俺に見せてきた。
———-インを、探し出せ!それがお前のやるべき事だ!
俺は頭の中に響き渡る声に、小さく頷いた。頷いて、胸に手を置いた。
あぁ、分かった。インを、探せばいいんだな。わかったよ。
『ね!見て!この子よ!一等格好良いでしょう?』
『ん、どれどれ』
頭の中に響く声に頷きながら、俺はひとまず、愛子さんの見せてくる写真を覗き込んだ。そして、覗き込んだ先にある、それは本当に現実をそのまま切り取って絵にしたような1枚の紙があった。
『わぁ!』
そこに居たのは、たくさんの仲間達に囲まれて笑顔を見せる、どこか懐かしい顔があった。あぁ、凄く、幸せそうな笑顔だ。
『本当だ。凄く、立派で格好良い男の子だね。これは確かに、女の子が放っておかないな!』
『ふふ、そうでしょう。これを見て私、凄く安心したの。もう、私が居なくても、大丈夫ねって』
『……うん』
愛子さんの言葉に、俺は静かに頷いた。もう、彼には沢山の仲間が居る。だから、お母さんが居なくても大丈夫。
大丈夫だと、信じた。
『愛子さん。お酒』
『あら』
そう、愛子さんの手元にある酒のグラスが、空になっているのに気付いた。愛子さんは見た目に寄らず酒豪だ。早く次を注いであげないと。
そう思って手元にあった酒瓶に手を伸ばそうとした時だった。
『ねぇ、マスター?』
『ん?何か希望の酒でもありますか?』
そう、写真を愛おしそうに眺め、撫でる愛子さんを前に、俺は改めて思った。
本当に、この人は、なんて可愛いお母さんなのだろう。こんなお母さん、きっと息子さんも大好きだったに違いない。
世界一可愛いお母さんだと、自慢だったに違いない。
『ありがとう』
『急にどうしたんですか?』
急に愛子さんの口から出て来たお礼の言葉に、俺は訳も分からないまま、けれど、なんだかこのお礼は黙って受け取るべきモノのような気がしてならなかった。
『言わなきゃいけないと、ずっと思っていたのよ。だから、言えて良かったわ』
『そうですか。じゃあ、』
———–どういたしまして。
理由の分からないお礼の言葉。
けれど、俺はその言葉を両手でしっかり受け取った。受け取って、愛子さんとカウンター越しに笑い合うと、空のグラスにこれでもかという程、酒を注いであげたのだった。