244:地獄への鍵

         〇

 

 

 

「おい、何でコイツは起きないんだ」

「…………」

 

 アウトが眠りについて3日が経った。

 あれから、俺は仕事にも行かず、ずっとアウトの様子を見ている。見ているが、アウトが目を開けた瞬間は、一時もなかった。

 

 ずっと、ずっと眠り続けている。

 それは、もう明らかに異常事態だった。

 

「なぁ、マスター。なんでだ?」

 

 ベッドに横たわったまま、一切目を開けようとしないアウトの姿を茫然と見下ろすのは、アボードだ。

 その後ろには、バイやトウ、そしてアウトの同僚でもあるアバブまで居る。皆、いつものようにアウトに会いに来ていた。

 

 そう、いつものように。

 そして、いつもとは全く違うのは、アウトだ。アウトが目覚めない。どんなに声を掛けても、体をゆすっても。

 アウトの目が開かれる事はないのだ。

 

「…………」

 

 答えられない。アウトがどうして目覚めないのか。その答えを、俺は正確に把握出来ていないからだ。

 けれど、本能的にハッキリと分かる事がある。

 何故、アウトがこうして長い、長い眠りについてしまったのか。

 

 それは――。

 

「俺の、せいだ」

 

 俺は穏やかな寝顔を見せるアウトの姿を、アボードの隣で見下ろす。呼吸はある。死んでいる訳ではない。むしろ、3日間も寝ているのに、体のどこにも異常がない。

 

 異常がないのが、異常だ。

 

「なんだと?」

 

 上手く出来ない呼吸の中、必死に口にした俺の言葉に、アボードの低い声が響く。この男には、知る権利がある。義務がある。なにせ、アボードはアウトのたった一人の弟だ。たった一人の家族だ。

 

——–俺の弟はアボードだけだ!

 

 そう、俺は何度アウトの口から聞いただろう。

 そして、その言葉に、何度、嫉妬しただろう。こんなにアウトに想ってもらえるなんて、無償の愛を貰えるなんて。

 まるで、前世でニアに対して思ったように。何度、密かに思った事だろう。

 

「俺が、アウトに言った」

 

 アウトは命を賭けて、この弟の為に飛んだ。弟の幸福の為に。

 

———ずっと!お前が“イン”だと思っていた!

———インじゃないっ!じゃあ、お前は誰なんだ!?

———同じような事を、同じような表情で俺に言って!惑わせて!期待させて!

———インに会わせてやる?お前なんかに何が出来る!?

 

 脳裏に過る言葉達。

 あの日、まるでモヤがかかったように曖昧だった記憶は、時間と共に、まるで“誰か”の記憶が定着するように俺の中に染みわたって行った。

 

 思い出し、自覚し、眠り続けるアウトを見つめる。これで、分からない方がおかしい。最後に見たアウトの顔は、どこまで行っても笑顔ではない。

 全てを諦めて、もうその目は俺を見てはいなかった。

 

 アウトは、俺のせいで。

 

「インに、会わせろ、と。俺はずっと、お前を、インだと、思っていた、と。お前は一体だれ、なんだと」

 

 長い時の眠りについてしまった。

 

「ふざけんなっ!?」

 

 次の瞬間。俺の体は、掴まれた胸倉から物凄い力でアボードに引き寄せられていた。目の前には、爛々と怒りと憎しみを募らせる強い瞳。

 

「おいっ!?俺は言ったよな!?」

 

 悲痛な怒声が俺の耳を貫く。それと同時に、部屋に居るバイやトウ、アバブ達からも息を呑むような悲鳴が上がった。

 

「何度も、何度もっ!俺はアンタに言ったよな!?」

 

 此処に居る人々は皆、取り戻せない“過去”ではなく“今”を、“アウト”を愛する者達だ。俺とは違い、幸福の在処を今この手に抱いていた。

 

 それを、俺が。

 

「アイツは何も覚えてない、ただのガキだったんだって!アウトって名前は父さんが付けたモノで!アイツはそれを大事にしてたって!言ったよな!?」

 

 壊した。

 

「なぁ。アンタにそれを言われたコイツは……どう思っただろうな?!」

「……すま、ない」

 

 怒りと憎しみから、じょじょに移り変わる感情の色。俺の眼前に在る、アボードの瞳に映し出されるのは、最早悲しみしかなかった。

 

「お前も……あの女と同じだ。勝手に期待して、違うと分かれば突き放す。どいつもこいつも勝手だ。……その周りの勝手に、コイツは何度、傷付けられてきたか。お前に分かるか?」

「すまない」

 

 くしゃりと歪むアボードの表情。けれど、その目から涙が流れる事はない。ただ、ほんの少し、薄い涙の膜が目を覆う程度だ。

 きっと、この男が素直に泣けるのは“兄”の前だけだったのだろう。

 

「なぁ、ウィズ」

「……なんだ」

 

 それまで掴まれていた胸倉から、スルリとアボードの手が落ちて行く。ストンと、落ち、肩を落とすアボードの姿に、いつもの威風堂々たる姿は、欠片もなかった。

 最早、アボードは俺の事など見ておらず、ベッドに横たわるアウトの、兄の事だけを見ている。

 

「かえせ」

 

 俺は、この咎を待っていたのかもしれない。

 この3日間。目覚めぬアウトの隣で、少しずつ霧が晴れるように開けていく記憶を、この手にとりながら。

 

「かえせ。俺の家族を、兄さんを、かえせ」

「ごめん、なさい」

 

 俺は、完全に理解した。

 

———-約束する!俺が必ず、お前を幸福に連れて行くから!

 

 アウトとインを“同じ”だと信じる事で保ってきた意識が、今は完全に分かれてしまっているのを感じる。ハッキリとこの身に宿る2つの意識のうち、俺は完全に一方の幸福を手放してしまったのだ。

 

 アボードの隣で、俺は共に眠るアウトに目を向けた。

 今、こうして目を開けないアウトを前に、押しつぶされそうになっている俺。心の中で、インはどこだと叫ぶ俺。

 

———-ウィズ。俺は“アウト”だ。

「……アウト」

 

 そう、何度もアウトは俺に言った。伝えてくれていた。

 

———-俺はお前の事が好きだよ。だから、お前が幸せになる手伝いを、俺はしたいと思う。

「俺は、」

 

 こんな俺を、好きだと言ってくれた。笑いかけてくれた。

 

———ウィズ。一緒にインを探そう。

「お前のことを、」

 

 俺の幸福を、心から願ってくれた。

 

 俺は無意識のうちに、眠るアウトに手を伸ばしていた。片方の意識が、アウトに触れたいとそう叫んでいるのだ。

 けれど、その俺の手は、すぐ隣に立つアボードの手によって止められた。腕が掴まれる。触れるな、とでも言うように。

 

「もう、それ以上言うな」

「っ」

 

 アボードは俺を見て、もう怒ってはいなかった。掴まれる手も、力などなく、殆ど触れるようなもので、振り払おうと思えばいくらでも振りほどけただろう。

 その感触に、俺は共に同じベッドで眠りについた時に添えられていた、あのアウトの手を思い出した。

 添えられただけの手。それは何かを掴み取る事すら諦めた、アウトの意思そのもののようだった。

 

 もう、アウトは俺の手を掴む事すら出来なかったのだ。

 俺が、アウトを拒絶したから。

 

「頼むから。もう、何も言うな」

 

 これから、俺がもし“イン”に会えたとしても。

 きっと、俺の手には“鍵”がもたらされるのだろう。

 

 地獄の扉を開く鍵が、この手に。