252:降り注ぐ雨

 

『マスター。風邪って物凄く辛いんだよ。知ってる?』

 

 そんな、なんて事のない問いかけから始まった彼の話に、俺は、うん、うん、とひたすら静かに頷いた。ぽつり、ぽつりと語られる彼の言葉は、まるで降り始めたばかりの雨のように、少しずつ俺の身を濡らしていく。

 

 それは、とても心地の良い感覚だった。

 

 これまで店の客の様々な昔話を聞いてきた時も、同じような感覚になった。皆の大切な思い出は、まるで俺に暖かい恵の雨のように、優しく降り注ぐのだ。

 

『体が熱くて、熱くて、頭はぼーっとして、目は開けると世界は歪んで、涙が出る。けど、あんまり熱いから、出た涙までどんどん乾いて空に行っちゃう』

 

 彼の話を聞きながら、俺も、また少しだけ“自分”について思い出していた。俺は、彼の話を聞くのは初めてではなかったのだ。

———-皆みたいに、自分の昔話が欲しいの?なら、俺の昔話をキミにあげるよ。

 

 そう言って、涙を流す俺に入れ代わり立ち代わり、色んな人が“俺”に、自分の大切な記憶の断片を教えてくれた。

 その中に、彼の話もあった。彼の話が一番お気に入りで、そして、彼から少しそのお話を貸してもらった。

 

『天井はグラグラになって、音も、大きいような、名前を呼ばれても、その音はグルグル回転して、上手く聞き取れないんだ。いっぱい気持ち悪くなるし、夜になると凄く怖い夢を見る。そして、物凄く心細い』

 

 夜の心細さ、怖い夢。それは、どうやら“俺”にも経験があるようだ。うん、うん、の間に、わかるよ、と言って深く頷く。

 

『ねぇ、マスターには会いたい人っている?』

 

 会いたい人。なんだろう、それは。

 俺に、そんな人は居ただろうか。自分の名前すら思い出せない俺にはなかなか難しい質問だ。

そんな俺に、彼は先程まで浮かべていた泣きそうな顔を、パッと明るくすると、その途端『俺には居るよ!』と、笑顔になった。

 

 俺は、先程薄暗くした店の灯りを、自分達の居るカウンターの席だけ明るくした。できれば、もっとはっきりと、この少年の顔を見たかったのだ。

 

『オブって言うの!』

『オブ?』

『そう、オブ。また明日ねって言ったのに、俺、風邪引いて約束を破っちゃったんだ』

 

 こんなのは、初めての事だ。

 どうやら、この少年は自分の名前よりも“会いたい人”の名前を思い出したらしい。

 

 今までの店の客達は、大切な記憶と共に自分の名前を思い出した後、そこから、まるで宝箱の鍵でも見つけたみたいに、一気に様々な記憶と、それに伴った人々の名前を思い出していた。

 

 けれど、この彼にとっては自分の名前よりも先に“オブ”という人間の記憶が、大切の大切で、そして強烈だったのだろう。

 彼にとっては自分の名前よりも、オブという名前こそが宝箱の“鍵”だったに違いない。

 

『だから、俺、早くオブに会いに行きたくて、早く元気にならなきゃって思った。だから、治ったらすぐに会いに行ったよ!そして、すぐオブに会いに行った。たくさん会えなかったから、俺の事忘れてたらやだなぁって不安で、物凄く走って行った』

『オブは覚えてくれてた?』

『うんっ!会った瞬間、初めて俺の名前を呼んでくれたんだよ!』

———-インって!

 

 やっぱりそうだった。

 俺は自身の体に、一際大きな雨粒が降り注ぐのを感じると、静かに目を閉じた。インを、見つけた。見つけ出してしまった。

 

———-早く、インと交代しろ!

 

 頭の中で響く声が、大きく、強くなる。インと交代しないといけない。先程から、背筋に走る寒気のような感覚は次第に強くなっている。早く、早く、早く。

 けれど。

 

『そこから、オブとは毎日遊んだよ。お話を聞かせて貰ったし、文字も教えてくれた。森を駆け回ったし、木にも登った。喧嘩もしたけど、それはすぐに仲直りした。二人でしかできない事も、たくさんした』

 

 何か恥ずかしい事でも思い出したのか、少しだけ頬を染めて、幸せな記憶に浸る彼の話を、もう少し聞いていたい。もうすぐ、俺は彼と交代する。俺が、彼の一部になる。俺という個人は、居なくなる。

 

 だから、もう少し“俺”が“俺”で居る間に、この暖かい雨を全身に受けて、受け尽くしたい。大切な記憶を持つ人達の、おこぼれに預かる事で、自分も“誰か”の特別で、大切だったんだと思いたい。

 勘違いでもいい。“俺”でなくてもいい。聞いているだけで、幸せなのだから。

 

『毎日、毎日、楽しかった。ずっと、このままがいいと思った。けど、“ずっと”はなかった。分かってた。だって、身長は伸びるし、声は低くなったし、俺達は子供から大人に近づいていった。オブとは毎日遊んでたのに、毎日は遊べなくなった』

 

 うん、うん。俺は頷きながら、俯く彼の頭を撫でた。柔らかい彼の髪の毛が、俺の指の間で気持ち良く滑る。

 

 時間はいつだってそうだ。誰にでも平等で、誰であっても、何であっても、全て飲み込んでいく。容赦なく、引きずり込む。

 そんな事を思った時、俺の中で“つなみ”という、聞いた事のない言葉が頭を過るのを感じた。

 

 つなみって何だろう。

 分からないけれど、自分ではどうしようもない力で引きずり込まれるソレについて思った時、確かに頭の中に過ったのだ。

 

 冷たくて、怖くて、大きくて、深い。

 時間って“つなみ”みたい、と。

 

『俺はオブが大好きだったから、毎日会えなくなったのは嫌だったな。でも、大人は我慢ばっかりで嫌だなーってお父さんがたまに言ってたから、そういうモノだと思って我慢した。でも、毎日不安だったよ』

 

 不安。変化への不安。先が見えない事への不安。

不安はいつも、幸せの隙間からスルリと現れて、俺達の手首を掴む。幸せが暖かければ暖かい時ほど、不安の冷たさに、俺達は背筋を震わせる。

 

 あぁ、今の俺のこの背筋に走る違和感は“不安”か。

 

 風邪ではないようで良かった。俺は、背筋に走るこの寒気の正体を暴いてやった。不安め。俺に何の用だ。そして、お前は一体、何に対する“不安”だ?

 もうすぐ居なくなる俺に、一体何の用だと言うんだ。

 

『大人になったら、オブと離れ離れにならなきゃいけなくなるんじゃないかって。不安だったから、俺は必死にオブと約束した。大人になったら一緒にアレしよう、コレしようって。二人で話している時は、不安もどこかへ行くんだけれど、でも、口での約束だけじゃ、どうしても不安になって』

 

———–だから、俺。毎日思うようになった。

 

 少年も話ながら“不安”に寒さを覚えたのだろう。両手を交差させ、自身の腕を掴むと、その身を縮こませて、不安と戦っていた。

 ちょうど、俺も不安で寒かったので、椅子を近付けて少年と身を寄せた。二人だと、少しは寒くないかと思ったからだ。

 

『どう、思ったの?』

 

 俺は少年の肩を抱きながら、けれどちっとも暖かくならない自身の体と、少年の体に首を傾げた。“二人”は暖かい筈なのに。どうしてだろう。

 どうして俺達がくっついても暖かくはならないのだろう。

 

 俺達は二人なのに、もしかして“二人”じゃないのか。

 

 俺の問いかけに、少年は俯かせていた顔をゆっくりと上げた。上げたその顔で、俺を見つめてくる。見つめてくるその目は、揺れていて、口に出すか出さないか、凄く迷っているようだった。

 

『いいよ。何でも言っていいから。何でも聞くから。否定しないから。知ってるだろ?俺は、皆の話を、うん、うんって聞くだけだよ』

『……マスター』

『ほら、イン。言ってごらん』

『俺、大人になったらって、たくさん言ってきたのに、本当は』

 

 彼は、震える声で俺を呼ぶと、ゴクリと唾液を飲み下した。飲み下して、右手で自身の心臓に手を当てると、低い声で、吐き出すように言ったのだった。

 

 

『大人になんて、なりたくなかった』

 

 

 その時、俺に降り注いでいた暖かい雨が、一気に激しさを増した。