254:吐露と交代

         〇

 

 

 

『子供の頃は、大人になったほうが何でも出来るんだって思ってた。けど、それは違ったんだ!』

 

 それまで穏やかだったインの声が、徐々に大きく、そして激しくなっていく。それはまるで、鉄砲雨のように激しく俺の身に降り注いでいた。

 もう、相槌も不要だろう。インの中の記憶が、勢いよく、逆に止める事など出来ぬとでもいうように溢れ出てくるのだから。

 

『大人に近づけば近づく程、それまで当たり前に出来た事が出来なくなって、ずっと一緒だと思ってた人とは、その“ずっと”が本当は違ったんだって思い知らされる!』

『イン』

 

 インはくっ付いていた俺から体を離すと、それまで座ってた椅子から、勢いよく立ち上がった。立ち上がって、その両手に拳を作ると、きゅうと眉を寄せる。もう、今にも泣きだしそうだ。

 

『でも、本当は何も変わってないんだ!俺もオブもずっと変わらず“イン”と“オブ”だったのに、それなのに、大人って言葉に流されて、どんどんオブは俺から離れて行こうとした!約束したのに!一緒に首都でお店を開こうって!大人になっても一緒だって!なのに!』

 

 否。もう泣いている。

 涙は流れていないけれど、泣いている。インは“あの日”からずっと泣いていた。

 オブから森で手を離され、背を向けられた”あの日”から。

 

『オブは嘘を吐いた!俺に酷い事を言って、俺を叩いた!痛かったけど、オブの方が痛そうだったから、平気なフリをして我慢したけど、本当は俺だって痛かった!サヨナラするときだって、俺が見送りに行った時に、またね!って言ったのに、オブは無視したんだ!』

 

 あぁ、知っているよ。だって、聞いたもの。昔昔。俺が一人で泣いていた夜に、インが話してくれたもの。

 またねと言っても、オブは顔も見てくれなかったんだよな。「さよなら」ではなく、頑張って必死に泣かずに「またね」と言ったのに。ちゃんと、聞こえるように大きい声で言ったんだよな。

 

『もう、オブは一緒に酒場を作ってくれないって分かったから、俺は最後だって我慢した!もう一人でだって首都に行って、酒場を作ってやるって思った!だから、オブはお客さんになってって最後に約束ねって言ったのだって、オブは絶対に覚えてない!俺がうるさいから、適当に頷いたんだって、俺は知ってる!』

 

 わかってる。もう、一番近くに居れなくてもいい。ただのお客さんとしてでもいいから、また会いたかったんだよな。イン。

 確かにオブは、ちょっと約束を勘違いしてた。けれど、覚えていない訳じゃないよ。

 

『俺の事が、一番好きだって言ってくれたのに!俺だけしか好きじゃないって言ったのに!アイツは嘘つきだ!オブは結婚する為に首都に連れ戻されるって事も、他の人から聞いたんだよ!オブは俺の事をバカにして、何も教えてくれないけど、俺だって分かってた!いつかはこうなるかもって、ずっと怖かったからいっぱい“約束”をしてたのに!』

 

 そうだよな。イン。

 お前は笑ってたくさん我慢してたんだよな。オブを困らせたらいけないって思って。知らないフリをしてきたけど、本当は不安で不安でたまらなかったんだ。

 

『我慢ばっかりで、辛かったな。イン』

『っ、うん……我慢したっ。オブばっかり、つらいって顔して。俺だって、辛かったのに、俺だって、悲しかったのにっ。あんなやつ、もう、きらいになりたかった。でも、おれ、バカだから……オブが、また会いに来てくれるがもしれないって……まいに、ち。まいにち。っう、ああああん』

 

 ここへ来て、とうとうインの目からポロリと涙が流れた。我慢していた気持ちを、オブという名の鍵を使って解放した。

 やっと、泣いてくれた。やっと、ここまで来れた。あの日、泣いてばかりだった10歳の“俺”に、寄り添ってくれた彼へ、俺はやっと”お返し”が出来る。

 

 俺は少しだけ心の奥がスッキリする感覚に陥ると、泣きわめくインに、一歩、また一歩と近づいた。そして、顔を上げて服の裾で乱暴に涙を拭うインを、ゆっくりと抱き締める。あの時は、すごく大きく見えたお兄ちゃん。けれど、今、俺は彼より大きくなった。

 

 あぁ、俺も無意味に、大人になった甲斐があったな。

 

『イン、もう大丈夫だ』

『……ますだー?』

 

 俺の聞いて来た様々な人々の昔話は、どれも皆、精一杯生きていた。

楽しい時も、苦しい時も、悲しい時も、幸せな時も。どれも全部重なって、一人の人間の人生を作っていくのだ。

 

『俺は、全部分かってる。全部、インの事は分かってるよ』

 

 それを最初に教えてくれたのが、この、今俺の腕の中で目に大粒の涙を抱えるインだった。

 あの日、インの口から語られるお話は、たった15年間の出来事だったのに、涙を流す俺に、生きる力をくれた。まだまだ、希望はあると、教えてくれた。

 希望と絶望を繰り返しながら、彼は一度きりの人生を、精一杯生きたのだから。

 

『インは最期まで我慢ばっかりしたよな。本当は独りぼっちは嫌だったけど、お父さんが何を言いたい分かってたから、笑って「いいよ」って言って、家を出たんだもんな。寒かったよな、苦しかったよな、寂しかったよな』

『うん、うんっ』

 

 いつの間にか、語り手と聞き手が入れ替わってしまった。

 涙を流すインの代わりに、俺がインの最期を語る。もう、俺はインの一部だ。準備は整った。

 

『実際は、一人ぼっちで誰も居なかった。ただ、これでもう大人にならずに済むって、ホッとしたんだよな』

『う、ん』

 

 本当は、インの最期の瞬間は、誰も居なかった。本当に寒いのか、熱いのかも分からない状態で、納屋の隅で蹲って、呼吸が止まるその時まで、インは我慢をした。

 だから、インは俺に話して聞かせる時も、最後の部分だけ、嘘を吐いた。嘘を吐いてくれた。

 

———–だから、最後は全然寂しくなかったよ?皆来てくれたもん!皆で死なないでって泣いてくれたもん!

 

 そう、話してくれた。

 

『イン、イン、イン』

『ますたー、どうしたの?』

 

 きっと、きつく抱きしめる俺の腕が苦しいのだろう。腕の中のインが戸惑ったような声を上げる。けれど、俺は抱きしめずにはおれなかった。

 本当は出会った瞬間に分かっていたのに。彼がインだと、知っていた筈だったのに。

 

『ごめん、もっと早く替わってあげてれば良かったのにな』

『え?』

 

 俺は俺を諦めきれず、彼をファーと言う名に閉じ込めた。閉じ込めて、選ばれる訳もない世界で、必死に手を伸ばし続けた。

 

『イン、交代しよう。外で、オブが待ってる』

 

 伸ばしていた手を引っ込める時が来た。おこがましく、見苦しくも伸ばし続けた手。そんな、空しい俺の希望はインに託して、俺はインの中で降り注ぐ幸せのおこぼれに預かろうじゃないか。

 

 それくらいは許してくれるよな。