『オブはインとの約束、忘れてないよ。今でもインの事だけを待ってる。もう、大丈夫。悲しい事なんて何もないから』
そう、腕の中のインへと、俺が溶け込もうとした瞬間、俺の体はインから乱暴に引きはがされていた。
『なにを、言っているの?』
そう、口にしたインは、最早泣いてなどいなかった。ただ、その声は酷く冷たく、それまで誰よりも俺の近くに居た筈のインが、一気に遠のいた気がした。
『イン、どうして。オブに会えるんだよ』
『マスター……いやだ。何を言ってるんだ』
『他にも居る!妹のニアや、友達のフロムも!きっと探せば他にもきっと!』
『ふざけるなっ!』
何故か怒りを露わにし始めたインに、俺は必死に手を伸ばした。けれど、その手は容赦なく彼の手によって、叩き落とされる。
『って』
あぁ、こんな事が、つい最近もあった。そうだ、あの時も、俺は、こんな風に拒絶された。触るな、とでも言うように。お前なんか、いらない、と言い聞かせるように。
———ずっと!お前が“イン”だと思っていた!
『うん、うん。分かってる。だから、インになろう、俺が、インと交代して』
『何を勝手な事を言ってるんだよ!?マスター……いや、』
———-インは“俺”に最期まで会いたがっていた!俺に言いたい事も山ほどある筈だ!そんなインが!鍵を持たぬ筈がないだろうっ!?
耳の奥で誰かの声が響く。
そうだ、俺の中にある、降り注いで来たインの記憶だって確かにそう言っている。オブに会いたい。オブと話したい、オブに触れたい。オブと一緒に居たいと。
それなのに、
『アウト!お前、自分の人生の辛さを、他人に、俺に押し付けるな!?』
アウト。
そう、名を呼ばれてしまった。そのせいで、“マスター”と酒場の店主としての俺の姿しかなかった所へ、大量の記憶が雪崩こもうとしてくる。
いやだ、もう、いやだ!俺はもう、あんな記憶はいらない!
『っちがう!俺はアウトじゃない!この酒場の店主だ!マスターだ!俺は、ただお前らの為を思って!』
『何が俺達の為だ!自分がただ逃げたいだけの癖に、ご立派な理由に俺を利用するなよ!自分の名前も受け入れられないような奴の人生なんて貰っても、俺は迷惑なだけだ!』
俺は必死に鍵をかけた。鍵をかけて、雪崩れ込もうとしてくる不安と恐怖から身を守る。俺はマスター。この酒場の店主で、皆の昔話を聞くのが好きな奴。
ただ、それだけ。それだけのヤツ。他には何もない。
『何が全部分かってる、だ!自惚れるのもいい加減にしろ!お前は全然俺の事なんか分かっちゃいないじゃないか!』
『分かってる!イン!お前はオブに会いたいんだ!ニアやフロムにも会えるもんなら会いたい筈だ!お父さんや、お母さんにも会いたいだろ!?』
『そうだ!俺が会いたいのは“オブ”だ!皆にも会いたいさ!』
『だったら!』
そう、インの溢れ出た心の内を、激しい雷雨に見舞われながら俺は全身で受け止める。受け止めている筈なのに、どうしてだろう。俺は、もしかしたら。
『だったらどうして分からない!アウト!外に居る奴らは、オブか!?ニアか!?フロムか!?彼らが待っているのは“イン”か!?』
もしかしたら、インの事なんて、まるきり見ていなかったのかもしれない。俺が見ていたのは、ずっと、ずっと――。
『違うだろ!?』
『あ、あぁ……』
“俺”だけだった。
『アウト、お前はどうしてそんな残酷な事を俺に求めてくるんだ!いくら記憶があったって、もう皆あの時の皆じゃないじゃないか!俺はもう嫌だ!変化していく世界で取り残される不安は!もうこりごりだ!俺を求めていない世界に放り投げられるなんて、俺はそこからどうやって幸せになればいいんだよ!?』
『でも、ウィズが……』
『ウィズって誰だ!?そんなヤツ、俺は知らない!知らない知らない!』
知らない!
そう叫んだインはそのまま酒場の入口へと駆け出した。あぁ、このままだとインが俺の前から逃げ出して、二度と姿を現さなくなってしまうかもしれない。
それじゃあ、俺はどうやって、あの世界からサヨナラすればいいんだ。どうやってウィズを幸福へと連れて行けばいいんだ!
『イン!逃がさない!絶対に俺と交代してもらう!』
『っ!』
俺はとうとう、自身の醜い本質を表へと表した。
そう、俺はインの為でもオブの為でもない。他でもない“自分”の為に、インを利用しようとしている。
けれど、もうそれしかないんだ。俺があの世界から手を離す方法は。逃げ出す方法は。ウィズを幸福にしてやれる方法は。俺が、傷付かずに済む方法は。
『逃げても無駄だ!イン!今のマスターは俺なんだから!』
俺は酒場の出入口の扉へと手をかけるインよりも早く、扉へと鍵をかけるように念じた。この世界は俺の思ったように姿を変える。まだ交代していないが故に、俺はまだこの世界の“マスター”なのだから。
けれど、俺が酒場の入口に鍵をかけようとした瞬間。
がちゃり
戸が外から開けられた。どうして。今日はお休みです、と店の入り口に書いた筈なのに。この世界の人達で、それを無視して店に入ろうとする人なんて居ない筈なのに。
なのに、どうして。
「ほんと、アウトもお店とは考えたよね。道理で何でも受け入れるはずだ。なにせ“お店”なんだから」
「おい、誰か居るぞ」
戸が開いた瞬間、外から何やら少年のような声と、低く落ち着いた声が聞こえてくる。初めて聞く声だ。どうやら、初めてのお客のようだが。
『っ!その子を捕まえてください!』
『どいて!』
俺の言葉とインの言葉が同時に響く。響いて、もちろん優先されるのは俺の言葉……の筈なのに。
「あれ?アウト?」
「アウトか!?」
俺の言葉が無視された。なんだ、あの二人は。入口の扉といい、今といい、全く俺の言葉に反応しない。確かに、俺はこの世界で、あまり住民達に強制力のある言霊を発してきた事はなかった。
なかったけれど、こんなにも俺の言霊は弱まってしまっているのだろうか。まだ、確かにこの世界の“マスター”は俺の筈なのに。
『っあ!イン!待て!待てったら!』
『自分の真名も受け入れられないヤツの言葉なんて、聞かないよ!』
『っ!クソ!』
聞かない。効かない。
この2つは同義だ。確かにその通りで、自身の名前という、最も生命の核心である真名を思い出した相手に、受け入れない俺の言霊が通用する筈もない。
俺は酒場から一目散に駆けだしたインを前に、どうする事も出来ず、近くにあったテーブルに拳を立てた。今からでも遅くはない。インを追いかけないと。
インに早いところ分からせなければならない。どれ程、自身が思われ、望まれているのか。自覚させなければ。
『本人も、周りも不幸になる!』
俺は着ていたエプロンを手早く脱ぎ捨てると、此方を驚いた様子で見ていた2人の客の方へと駆け出した。