怒髪天を衝く。
この言葉を、俺はアボードから教わった。この言葉を、俺は大層気に入っているのだ。だって、“とても怒った”よりも、ずっとずっと“怒っている”ことが相手に伝わるからだ。
怒った髪の毛の、その天を衝かん勢いが、そりゃあもう大層な怒りを表現してくれている。
だから、俺もアボードも二人して“怒髪天を衝いていた”ってワケだ。
だからだろうか。
十年ぶりに食らわせた頭突きは、アボードだけでなく俺への被害も大きかったようで。
俺はアボードに頭突きを食らわせた瞬間、コテリと意識を失ってしまっていた。
〇
『ねぇ、ねぇ。マスター。見て見て』
『っは!』
俺は意識を失った事により、一気に意識がマナの中まで落ちて来たようだった。これはいつもそうで、俺は外界での意識が希薄になるタイミングで、よくこちら側へと落っこちてくるのだ。
『ねぇ、マスター!聞いてるの?』
『あ、あぁ、聞いてるよ。愛子さん』
『うそ!うそうそうそ!マスターってば、たまにボーっとする事があるから困るわ!こっちは一生懸命話してるのに』
『いや、ごめんなさい。愛子さん』
今日も今日とて騒がしい店内で、俺は古くからの常連でもある愛子さんを前に、苦笑しながら謝った。そういえば、以前もこのタイミングに当たって愛子さんを怒らせて事があった気がする。
『愛子さん。お詫びに、今日は5杯までっていう約束、無しにしてもいいですよ?』
『えっ!いいの?だったら許してあげる!』
愛子さんは、さながら可憐な少女のような見た目に反して、かなりの酒豪だ。生きている時に“女だから”と飲ませて貰えなかった反動なのか、止めなければ、この店の酒を飲みつくさん勢いで酒を飲むのだ。
だから、俺は愛子さんの飲酒に制限をかけた。
お酒は1日5杯まで、と。
客に酒量の制限をかける店主というのもおかしな話だが、このマナの残滓という、肉体を持たない彼女達にとって、飲もうと思えば無限に飲めてしまう。
この世界の全ては、俺の意思一つで自由に増減が可能なのだが、正直、多種多様な酒の種類を管理、保管するには、在庫の管理概念が必要不可欠だった。
というか、その辺を雑に行うと、管理をしているオブが、本当に驚くほど冷たくキレてくるのだから怖くて仕方がない。
インに対しては何をどう失敗しても怒らない癖に、俺にはビックリする程、厳しい。
——–その頭に付いてるモノは飾りなわけ?しっかり管理しろって、何度言えば分かるんだよ?
最早どっちがマスターか分からない。
そんな訳で、俺は愛子さんに酒は1日5杯までの制限をかけているのだが。今日はもういいか、と俺は思った。何故そう思ったのかは分からないが、今日は愛子さんには、思い切り笑顔で居て欲しいと、そう思ったのだ。
『マスター、じゃあ。おかわりをお願い!』
『はいはい』
俺が愛子さんに、彼女の大好物たる和酒を注ごうとした時だった。
「なんだっ!ここは一体!?」
店の入り口から、聞き慣れた怒号が響き渡った。
え、なに、まさか。
『アボード!』
「やっぱテメェの仕業か!?このクソガキ!ここは一体どこなんだ!事と次第によっちゃ、マジでテメェ許さねぇからな!?」
『ちょっ!はっ!?えっ!なんで』
店の入り口から、さながらチンピラのような様相で、アボードがドスドスと足を鳴らして店の中へと入ってきた。
いや、なんでアボードが此処に居るんだ!?
そう、俺が和酒の瓶を片手に近寄ってくるアボードから距離を取るべく、カウンターの中で一歩後ろに引いた時だ。
『それはね、アウトの入口が、今非常にガバガバだからだよ?』
『ヴァイス!?』
そこには、今や、いつも突然の登場でお馴染み。
飲んだくれショタジジイのヴァイスが、愛子さんの横にチョコンと腰かけていた。
『ガバガバって……』
『そう、ガバガバ。アウトの入口は、最早、僕とウィズが入ってきた事を契機に、ずーっと開けっ放しになっちゃってるんだよ。アウト、深層心理で誰かが入って来てくれる事を、望んでるね?僕らが来て、楽しかったんでしょ?』
そう、ヴァイスにイタズラっぽく言われてしまえば、なるほど確かにと納得してしまう部分は割とあった。
あの時、外からやって来たヴァイスとウィズ、そしてオブの3人のお陰で、なんだか、俺の中は騒がしくも、楽しさが増した気がする。
でも、だからって――。
「おいっ!クソガキ!こりゃあ一体どういう事だ!?説明しろっ!?」
ドンッ。
アボードがカウンターを殴る鈍い音が、店に響き渡る。このアボードのせいで、先程まで明るく楽しく盛り上がっていた店内が、一気に静まりかえってしまった。
なにせ、アボードは非常に恐ろしい顔をしているのだ。兄の俺ですらビビるのだから、面識のない皆からすれば、恐怖の対象でしかないだろう。
『まぁ、急に別のマナが入って来たら、悪い奴かと思って焦って飛んで来たけど、無駄足だったみたいだね』
『いや、わりと悪い奴かも』
「あ゛ぁ!?んだと!このクソガキ!」
ガンッ。
今度は椅子を蹴った。
『もう、いちいちモノに当たるのは止めろ!アボード!他のお客さんの迷惑だろ!?』
いや、どれだけ育ちが悪いんだ、コイツ。同じ家で同じように育って、どうしてこうも俺とアボードは違ってしまったのか!
お父さんが居たら、鉄拳制裁で一発なのに!俺じゃそれは無理だ!出来て相打ちの頭突きしかない。なんて俺は無力なんだろうか。
「知るか!?なんだこの訳わかんねぇ店は!説明しろっ!」
そう、アボードが再度カウンターに拳を突き立てようとした時だった。
『もう!もう!もう!もう!なんなの!なんなの!私のお酒はいつ頂けるの!?』
ヴァイスの隣で、それまでグラスを俺に差し出そうとした体制で固まっていた愛子さんが、我慢の限界とばかりに声を上げた。
さすが愛子さん。
皆アボードの勢いと怒鳴り声に身をすくめる中、彼女だけは自身の酒の心配しかしていない。
『ごっ、ごめんなさい!愛子さん!今すぐ準備しますから!』
『はやく、はやくよ!私はずっと待ってたんだから!』
愛子さんのプリプリとした怒りの声が、店中に響き渡る。その、確かに怒ってはいるものの、けれど殺傷能力なんてまるでない怒声に、店内の雰囲気は一気に和んだ。
『私は、お酒が飲みたいの!』
愛子さんの言葉はいつもそうだ。何故だか相手の力を抜かせてくる。のんびりとした、その可愛らしい容姿のせいなのか、それとも――。
『あなたもよ!急に入ってきて、順番抜かしはいけないわ!お母さんにそう習わなかった?順番は守らないといけませんって!』
「…………」
彼女が“おかあさん”だからなのか。
愛子さんはヴァイスの隣の椅子からひょこりと立ち上がると、急に黙りこくったアボードに向かって説教をし始めた。
「っ!」
そんな愛子さんに、アボードは何故だろうか。俺でも初めて見るような、目を丸くした、まるで小さな男の子のような顔で、彼女を見ていた。
「あ、あの」
『貴方、ここはどこかってさっき言ってたわよね?という事は新入りさんね。いいわ、私が教えてあげるから座りなさい』
愛子さんは大人しくなったアボードをカウンターの席に座らせると、自分はアボードの隣に座った。
『あぁ、これは“始まって”しまったね』
『だね』
俺とヴァイスは二人で目を合わせて肩をすくめると、アボードと愛子さんと言う、全く種類の異なる二人の様子を見ていた。
ただ、愛子さんに酒を出すのは忘れない。
『はい、愛子さん。それに、アボードも』
『うふ、待ってました!』
「お、おぉ」
まぁ、外の人間だが、一応アボードにも同じ和酒を出してやる事にした。ともかく、俺の意識が戻る時に一緒に引っ張り上げればいい。
そう思いながら、普段ではまったく見る事の叶わない、キョドキョドと視線を彷徨わせるアボードを観察する事にした。
これから、愛子さんにとっての“はじめまして”のご挨拶。
彼女の息子の長い、長い自慢話が開幕するのだから。
『アボードのやつ、どこまで耐えられるかな』
『そうだね。出来れば彼には最後まで、しっかり耐えて欲しいものだね』