〇
『あっ!』
それは突然だった。
酒場のカウンターで、俺の与えた真っ白い画用紙に、何やら前衛的な絵を描き散らかしていたインが、ビクリと体を揺らした。
揺らしたかと思うと、弾かれたように顔を上げ、俺の方をジッと見つめてくる。一体どうしたと言うのだろう。
『タオ……ウィズ』
「どうした?何か飲みたいのか?」
『ちがう……俺、帰る』
オブの瞳の奥の色の、色鉛筆を手から離し、そんな事を言い出したインに、俺は酒場の在庫を記していた台帳を置いて、インへと近寄った。
この顔は、只事ではない。もしかしたら、マナの中でアウトに何かあったのでは。こんなに長時間、自分ではない者に、体の優先権を手渡しているのだ。
何かあっても不思議ではない。
「どうした?落ち着いて説明しろ」
『オブが、アウトに取られる』
「は?」
その予想外の言葉に、俺は呆気に取られ、思わず呆けた声を上げてしまった。何だって?オブがアウトに?それこそ一体どういう事だ!?
『オブの気持ち、さっき凄いのが俺のところまで飛んで来た。オブ、アウトの事、今までめんどくさいって思ってたのに、さっきは、“すき”って思った!』
「わ、分かるのか?」
『わかるよ!オブの事だよ!分からない訳ない!オブ……俺よりアウトの事が好きになっちゃったのかな?そんなの嫌だ!』
「おいっ、イン!?」
『じゃあね。タオル』
言いながらどんどん不安になっていたのだろう、インはアウトの顔を悲しみと不安でいっぱいにしながら、そして、次の瞬間、アウトの体は糸が切れたように俺の方へと倒れ込んできた。顔を覗き込んでみれば、そこには目を閉じ、寝息を立てるアウトの姿。
これはどうやらインもマナの中に潜ったらしい。
そして、どうでも良いが、インにとっては最後まで俺は“タオル”だったようだ。
「いや、今はそんな事はどうでも良い……どうする」
俺としては、アウトの意識が此方に戻ってくるのを待つべきだろう。何かあった時に、すぐに対応できるように。それが、俺が取るべき対応であり、いつもの俺なら苦もなく選択できる行動だ。
けれど、そんな冷静な対応は、今の俺には出来そうになかった。なにせ、インは俺にも多大なる爆弾を落として行ったのだから。
———–オブ、俺よりもアウトの事を好きになっちゃったのかな?
あり得る。アウトは“そう”いう所がある。インにもあるが、アウトにも“ある”。彼らはアバブの言う所の“総受け”であり、そしてヴァイスで言う所の“人たらし”なのだ。
人としての魅力に溢れ、遅かれ早かれ関わった者はその魅力に気付く。気付いた時には、もう遅い。
あぁ、恋人の欲目などでは決してない。だから、俺は、アウトを外に出したくないと思っていた事も、この瞬間にありありと思い出した。
「くそっ!アウト!お前はいつも俺の予想の斜め上の事ばかりをやってのけるんだ!クソッ!あぁっ!クソッ!」
俺は気持ちよさそうに眠るアウトの体を抱えると、一旦寝室に駆けた。アウトに出会って、俺はいつも自分を再認識させられる。
俺は決して冷静な男などではなく、常に衝動的で苛烈な男なのだ、と。
〇
『週末部屋で情交ばっかりじゃなくて、普通にデートしたいってね!』
オブの張り上げられたその声につられるように、俺はアトリエの入口へと振り返る。すると、振り返った瞬間、一番に目に入ったのは、居る筈のないウィズの存在。そして、それと同時にポロリと目から涙を零したインの姿だった。
「あれ、ウィズ?どうしたの?……えっ、っていうか、イン!?なに泣いてるの!?」
俺はアトリエの入口で、驚いたような表情を浮かべるウィズと、涙を浮かべる、というか殆ど泣いているインを前にギョッとした。そして、それはオブも同じだったようで、泣いているインを見た瞬間、疾風のように俺の横を駆け抜けていった。
『インッ!どうしたの!?なんで泣いてるの!なに、コイツが何かしたの!?お前、インにも手を出したんじゃないだろうな!?このド変態がっ!?』
駆け抜け、涙を流すインの体を抱き締めながら、オブはすぐ隣に立つウィズへと、あらんかぎりの怒声をぶつけた。そんなオブに、ウィズも一気に眉間に皺を寄せると、とんでもない事を言い出した。
「それはお前だろうが!?オブ!アウトに懸想して、インを泣かせたのは!こうして分かれたと言っても、結局は俺とお前は同族という事か!?恥を知れっ!」
『はぁ!?何言ってんだよ!?』
ウィズの言葉にオブがインを抱き締めたまま、驚いた顔でウィズや俺の顔を交互に見る。懸想というのは、アレだ。好きって事だった筈だ。どうしてこうもウィズは、いちいち難しい言葉を使うのだろうか。
『……おぶ、アウトの事好きって思ったでしょう。俺、しってるよ』
『いっ、イン!?』
けれど、全てはオブの腕の中で上がある、くぐもった声によって、オブの勢いは全て削がれてしまった。一体何がどうなったと言うのだろう。
俺はインを喜ばせて、そして驚かせたかったのに、何故かインは泣いている。
「ウィズ。これは一体なに?」
「それはこっちの台詞だ!こんな狭い部屋に二人で!一体お前らは何をしようとしていた!?」
「狭いって言うな!ここはインのアトリエなんだぞ!敢えて!狭くしてるんだ!見てよ!素敵だろ?この椅子とか、この壁掛けとか……あっ、こっちの机はオブと話し合って作ったんだよ!」
「あ、アトリエ?ちょっと待て、お前らは一体本当に何をしていた?順を追って説明しろ!」
何故か突然やって来たウィズに詰め寄られる俺は、一体何をどう順を追えばいいのか分からなかった。どうやら、ウィズの肩の向こう側では、オブがインに詰め寄られているようだ。
あれはアバブの教本で見た事がある。
浮気ゼメが、ウケに詰め寄られて、そして愛想をつかされる所にソックリだからだ。
「浮気ゼメかー」
「おいおい!?待て!急に何を言い出す!アウト、順を追うぞ。一つ一つ、だ」
「?」
『イン、聞いて?インは何か勘違いをしてるから。まず、俺の話を聞いて?』
『オブはまた、俺を置いて別の人の所に行くんだ。もうオブは信用できない』
『インっ!あの時の事はもう本当に許してください!俺が全部悪かったから!』
「それと、アウト、お前……週末部屋で過ごすのは……やっぱり嫌だったのか?我慢を、していたのか?」
「あー、インが絶望感じて来てるせいで……頭痛くなってきた」
何故か焦るウィズを前に、インのせいで頭痛を及ぼし始めた俺。そして、泣きながらオブに詰め寄り、それを宥めるオブ。ともかく、四者四様な俺達が互いの理解を一致させたのは、それからしばらくしての事だった。