3:オブとビロウ、インを巡るひと悶着

【オブとビロウのひと悶着】

 

 

 

 

今日のビロウはいつもと違った。

一番初めに、何があっても絶対にこの部屋から出るなって言ったビロウが、今日は部屋から出るように言ってきたのだ。

 

『イン、お前。俺の言う事は絶対って覚えてるか?』

『うん!覚えてるよ。俺はビロウの“ぺっと”だからね』

 

 俺はここに来て以来、初めてとなる、お屋敷の中に少しだけワクワクしながらビロウの後ろを歩いた。そう、これもビロウに言いつけられている事だ。

俺はビロウの“ぺっと”だから、ビロウの隣は歩いちゃいけない。そして、一番ダメなのは、ビロウの前に出る事。そう、俺は歩く時は絶対にビロウの後ろを歩かなきゃいけない。

 

『あ』

 

 ビロウ、背が伸びたみたい。

俺はビロウの、少しだけ大きくなった気のする背中を見ながら、ふふと笑った。

 

『何を笑ってる』

『ビロウ、背が高くなったね。格好良いよ』

『……下らねぇ事を考えんな』

『はーい』

 

 ビロウは俺の方を見ずに、どんどん廊下を歩いて行く。後ろから見えるビロウの耳が少しだけ赤い。ビロウはすぐに耳が赤くなる。そんなビロウを、俺は格好良いし、可愛いと思う。

 

『おい、イン。いいか?よく聞け』

『はい』

 

 来た事がない部屋に通されて、俺の方へと振り返ったビロウは、とても真剣な顔をしていた。だから、俺もさっきみたいな返事じゃなくて、ちゃんと短く『はい』と言う。これは、決まり事じゃなくて、俺がそうしなきゃと思ったからだ。

 

『あそこに入れ。そして、何があっても絶対に動くな、声を上げるな。もちろん、絶対に出てくるな』

 

 あそこ。

 そう言ってビロウが指さした場所は大きなフワフワの腰かけの隣にある、洋服掛けのハコだった。古いけど立派なそれには、きっとビロウの服がたくさん掛かっているのだろう。

 

 くんくん。

 あぁ、そうだ。ここはきっとビロウがいつも仕事をする部屋だ。だって、この部屋にはビロウの匂いが沢山する。

 

 くんくん。

 

『返事は?』

 

 俺は部屋の匂いを嗅ぐのに夢中で、ビロウへの返事が遅れてしまった。いけない。返事が遅れたせいで、ビロウが不機嫌な顔になってしまった。

 

『はい』

『お前、分かってるのか?何があっても……誰が、この部屋に来ても、どうあっても。動かず、声を上げず、あの中で、ただジッとしていろ』

『はい』

 

 今度はすぐに返事をする。けれど、ビロウは少し様子がおかしくて、不機嫌そうな顔から、ちょっとだけ不安そうな顔に変わっていった。俺の肩にはビロウの両手が置かれている。

 

『絶対だぞ。イン。俺の言う事を……聞けよ』

『はい。俺、ちゃんと出来るよ。ビロウ』

『……出来たら、ご褒美をやろう。お前の言う事を、何でも一つ叶えてやる』

『ごほうび!』

 

 なんだろう!よく分からないけれど、出来たらごほうびをくれるらしい。その言葉に、俺は嬉しくなると、にこにこしてしまう表情を隠す事が出来ず、いつもは『はい』と言わなければならない所を、間違って『うん!』と言って頷いてしまった。

 

 怒られるかな?と思ったけど、ビロウは怒っていなかった。あぁ、良かった。ビロウは怒ると、俺の部屋に来てくれなくなる。俺は、ビロウが来てくれなきゃ、ずっと一人なので、それはとても嫌なのだ。

だから、俺は、すぐにビロウの言われた通り、大きな四角の洋服掛けの中に入る。扉を閉める時、ビロウが見えなくなるのが寂しかったので、ちょっと手を振って閉めた。

 

 もちろん、ビロウは手を振り返してはくれない。

 

 真っ暗だ。少しだけ、入口の隙間から、外の光が漏れ入るくらい。でも、それもほんのちょっと。でも、全然怖くない。だって、この箱の中には、ビロウのいつも着ている格好良い、夜みたいな色の上着が沢山入っているから。

 

 くんくん。

 

 外よりたくさん、ビロウの匂いがする。

 俺は怒られるかもしれないと思いながらも、一枚だけ引っかけられていたビロウの服を取った。取って、そっと顔を近づける。

 

 ビロウ。寂しい時にいつも一緒に居てくれた。少しぶっきらぼうだけど、ずっと優しい。オブにも会わせてくれるって言ってくれた。

 ビロウが居るから、俺は今、毎日楽しい。

 

『…………』

 

 すん。ビロウの匂いを嗅ぎながら、俺はじっと、じっと真っ暗な中で過ごした。ビロウが開けてくれるまで。俺はいつまでだって、此処に居る。

 俺はビロウの“ぺっと”だから。

 

 

————

———

—–

 

『おい、ビロウ。入るぞ』

 

 久々に聞くその腹の立つ声に、俺の心臓が嫌な音を立てた。入るぞ、と言って俺の返事を聞く間もなく、執務室の扉が開かれる。

 チラとインの入ったクローゼットに視線を向けた。そこからは何の音も、声も、出て来る気配もない。ただ、嫌な汗と、ドッドッという心臓のうるさい音は、変わらず俺の中で鳴り続けている。

 

『オブ、ちょっと前まで自分が使ってた部屋だからって、勝手が過ぎるだろ』

『悪かったな。聞きたい事だけ聞いたら、お前の顔なんて見たくもないから、すぐに出て行くさ』

『っは、偉そうに』

 

 俺は椅子から立ち上がる事はせず、ただゆるりと椅子の背もたれに体重をかけた。嫌な、汗が背中を伝っていて、気持ち悪かったからだ。

 インは、どう思っているだろう。会いたかったオブが、この部屋にやって来た。毎日涙を流し、オブの事だけを思っていたイン。

 

 そのオブが、ここに居る。

 

『何か用か。結婚して間もない癖に、こんな辺鄙な所までやって来るなんて。早速、仮面夫婦か』

『……お前に関係ないだろっ!』

『おぉ、こわい』

 

 俺は軽口を叩く振りをして、オブに気付かれないように、何度も視線をクローゼットに向ける。

 

『ビロウ、お前に聞きたい事がある』

『っは。分かってるよ。……インだろ?』

 

 心臓が更に高鳴る。

あぁ、良い子じゃないか。イン。音も立てない。声も上げない。出てくる気配は微塵もない。あぁっ!素晴らしいじゃないか!

 

『此処に来る前に、村で聞いたんだろ?インの事。それが全てだ』

『……全て?どうせお前が関わっているんだろ。ビロウ!』

 

 俺は、臆病で、心配性な男だ。躾が行き届いているか、確認しながらでないと、おちおちペットを傍にも置けない。飼い犬に手を噛まれでもしたら、かけた時間も、金も、そして感情も、無駄になる。

 

『俺がインにどう関わると言うんだ。あのな?お前が入れこんでいたあの貧乏人を、何故、俺まで目を掛けると思う?勘違いも甚だしい!』

『違うだろ?お前が見てるのはインじゃない』

 

 吐き出すように放たれたオブの低い怒声に、俺は大声で笑いだしたくなるのを必死で堪えた。そうそう、この顔が見たかった。俺はオブの、この怒りと嫉妬と、苦しみで塗れた顔が、とてつもなく好きなんだよ!

 

『俺だろ?』

『……へぇ』

 

 机越しに立っていたオブが、机を避けて脇から俺の元へとやって来る。その拳は握りしめられ、その目は、ある一つの願いで染められていた。

 

『インをどこへやった?!分かってるんだよ!お前の考えてる事くらいっ!俺がインに執着してるから、お前もインに執着する!さぁ、早くインを出せ!』

『また、暴力か』

 

 俺の胸倉がオブによって、容赦なく掴まれる。座っていた俺の体は持ち上げられ、多少の呼吸のし辛さを感じたが、まぁ、その程度だ。

 チラとオブの奥にあるクローゼットに目をやるが、未だにシンと何の音も立てない。

 

『っふ。いいじゃないか』

『あ?』

 

 思わず心の声が漏れ出てしまった。

俺は、俺の言う事“だけ”を聞く、素直で従順な奴が好みだ。そうでなければ、傍には置かない。俺は、オブとは違う。空の下を駆け回る、天真爛漫なインを愛したお前とは、全く違うんだ。

 

——–はい、ビロウ。

——–んっ、ふ。ビロウ。気持ちいい?

——–俺、上手だった?

 

 狭い世界に閉じ込め、俺の言う事にだけ従い、インの世界は、この俺が全て。それが愛玩動物というモノだ。そういう“イン”を俺は好む。だから、そうだ。オブ、お前の愛したインは、確かに死んだよ。

 

『インは死んだ。どこにも居ない。お前に置いていかれて、インは死んだんじゃないのか』

『っクソ!黙れっ!お前がインをどこかへやった!そうに決まってる!でなければ、ニアがあんな平気そうな顔をしていられる訳がないっ!』

『っぐ』

 

 必死なオブの表情。

 俺はオブによって体を本棚へと押し付けられる。その拍子に、数冊の本が俺の脇にバタバタと落ちていった。あぶねぇな。

 

『ニア、か』

『そうだ!本当にインが俺のせいで身を投げて死んだのなら、ニアは絶対に俺を許さない!殺しに来るくらいはあってもいい筈だ!なのに!さっき俺を見たニアは、何も言わなかった!あんなのはおかしいんだよ!?』

 

 ニア。賢い女。幼い頃の俺が惚れた女。俺を袖にした女。

 あぁ、ニアには分かっているのだろう。インを連れて行ったのが、俺だと。それを望んだのが、イン自身だと。そして、それをオブには言わなかった。

 

———貴方、少し見直したわ。だって潔いんですもの。

 

 あの時、多少ニアに心を許されていて本当に良かった。でなければ、そもそもこの計画自体が危うかっただろう。

 

『殺しに……か、お前。ニアに嫌われてるもんな』

『そんな事はどうでもいいっ!インを出せ!インをっ』

 

——–返せ!

 

 そう、オブが叫んだ瞬間。俺はオブを殴っていた。

 

『っぐ』

『いい加減にしろよ。オブ』

 

 あぁ、腹が立つ腹が立つ。さっきから何だ。俺の愛玩動物を、まるで自分のモノのように。もう、インはお前のモノじゃねぇんだよ。そもそも、お前が捨てたんだろうが。

 俺は、何もかもがお前の下だ。上回ってるものなんて一つもない。

だから――。

 

『帰れ。インは死んだんだろ。受け止めきれない現実を、俺でまやかすな』

『……っクソ!クソクソクソクソ!』

 

 下に居たお陰で、拾いやすかったよ。オブ。

 お前の捨てたインを。この、俺が掴むのは容易かった。

 

 俺は膝をつき、此方を睨みつけながら悪態を吐くオブに、下に立つというのも、見ようによっては最高の景色が見れるものだと、心底思った。

 

 

 

      〇

 

 

 

『……はぁっ』

 

 オブが帰った後の、執務室。俺は未だに静かなクローゼットの前に立ち、愉快で仕方が無かった。きっと、まだオブは諦めていない。インは死んでいないと思っている。

 あの悪態は、俺から何の情報も引き出す術を持たぬ、自分へ向けられたモノだ。あぁ、同じ部屋にインが居るなんて、毛程も思っていないあの顔。

 

 たまらない。

 

 インが傍に居れば、またアイツのあぁ言った顔が見れると思うと、本当に俺は良い拾いモノをしたと思う。

 

『イン、そろそろ出て来い』

 

 それに、インは俺の言いつけを守った。オブが居たにも関わらず、だ。それはすなわち、オブよりも俺を優先したと言う事だ。あぁ、たまらなく可愛い奴じゃないか。

 

『イン?』

 

 けれど、いくら俺が声をかけても返事がない。俺は、まさかと思い、勢いよくクローゼットを開けた。すると、そこには俺の予想通りのインの姿があった。

 

『くぅ。くぅ。ふふ』

『寝てやがるっ!』

 

 しかも、クローゼットにかけてあった俺の背広から、ワイシャツから全てを使い、自身を囲む巣を作り上げている。これじゃあ、まるで巣で眠る雛鳥だ。あぁ、畜生。俺の服が全てしわくちゃになってしまった。

 寝ていたから、オブに気付かなかったのか。

 そう思うと、先程までの俺の愉快な気持ちも半減した。あぁ、興ざめだ。今日は褒美どころか仕置きが必要だな。

 

『くそが』

 

 そう、俺が乱暴にインの髪の毛を掴んで起こそうとした時。

 

『っ!』

 

 インは身をよじり、俺の服に頬ずりをし始めた。何故か『ふふ』と、とても楽しそうに笑っている。

その顔に、俺は興ざめだった気持ちが、更に上書きされて、スッと冷めていくのを感じた。まぁ、インに眠るなと指示を出していなかった、これは飼い主である俺の責任だろう。

 

『イン、起きろ』

 

 俺は髪の毛はやめて、丸くなる肩に手をやった。その手は、自分でもびっくりする程優しく、この手は俺の手か?とまるでおかしな事を思ってしまった。

 

『……んぅ、ビロ』

『起きろ。これは命令だ』

『っは!はい!』

 

 命令。という言葉に、それまで完全に寝ていた筈のインが、反射のようなスピードで体を起こした。あぁ、躾は完璧なのに、実験にオブを試せなかったのは、本当に残念だ。また、別の機会を作らねば。

 

『ったく、俺の服までグシャグシャにしやがって』

『あぁぁっ!ごめんなさい!ビロウの匂いがしたから……つい』

『ったく、ほんとに犬みたいな奴だな』

 

 俺はクローゼットの中で、慌てふためくインの頭を軽くはたくと、口元に笑みがこぼれるのを隠すため、インに背を向けた。飼い主はいつも厳格でなければ。

 でなければ、いつペットに舐められるか分かったものではない。

 

『ごめんなさい』

『もういい。褒美はナシだ。もう部屋に戻れ』

『……はい』

 

 ご褒美ナシの言葉に、インは明らかにシュンとした声を上げた。どうしてご褒美が貰えないか。その理由なんて、きっと分かっていない筈だ。大方、俺の服をグシャグシャにしたからだとでも思っているのだろう。

 

『あ、ビロウ』

『なんだ。早く戻れ。今夜、部屋には行ってやるよ』

『ううん。ちがくて』

 

 何が違うんだよ。俺が部屋に行ってやると言っているんだ。ペットなら喜べよ。

 そう、俺は執務室の扉に手を掛けたインを振り返って見てやれば、そこにはヒョコと後ろ髪の一束が跳ねているインの姿があった。

 アホ丸出しである。

 

『なんだ。さっさと言え』

『ごめんなさい。えっと、オブ、元気そうだったね』

『は?』

 

 俺は自身の耳を疑った。今、コイツは何と言った?オブ、と言ったのか?

 

『お前、起きてたのか?』

『え?うん。あ、最後の方はちょっと寝ちゃったけど』

 

 そう言ってニコニコ笑って部屋から出て行こうとするインに、俺は思わず駆け寄った。駆け寄って、手を伸ばし、腕の中へと閉じ込めた。

 

『っび、ビロウ?どうしたの?』

 

 腕の中で戸惑うインは、俺が最初に此処に連れて来た時よりも、大分小さく、そして柔らかくなった。太った訳ではない。ただ、筋肉が落ち、インは昔のような体力も、力も無くなってしまったのだ。

 あぁ、本当に抱き心地が良くなったじゃないか。

 

 俺は気分が高揚するのを感じつつ、インの耳元で囁くように言ってやった。

 

——–やっぱりくれてやるよ。ご褒美。

 

 その瞬間、インの耳がピクリと動き、そして徐々に色づいていった。

 あぁ、素直で、従順で、頭の悪い。俺好みの愛玩動物になったじゃないか。

 

 

 

 

 

【ひと悶着、少しだけ小説にて】了

—-補足—-

はいじ「インのご褒美の要望は“今日この後もずっと一緒に居て”でした。ペットの極意を極めております。イン」

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